絆 5

 七元帥の筆頭であるミッターマイヤー元帥の一人息子のフェリックスは、幼い頃から皇帝アレクと兄弟のように過ごして育った。家柄や将来性の良さに加え、実の父親似の端正な顔立ちの持ち主である彼は、社交界での受けも良く、多くの女性達から注目されていた。
 時間<とき>が経ち、成長してアレクの側近となったフェリックスには、たくさんの縁談が持ちこまれ、彼自身も貴族の令嬢達や優雅な御婦人達との数多くの交際を楽しんでいた。
 そんな女性達と華やかな噂が絶えなかったフェリックスが、士官学校を卒業したての女性軍人を、結婚相手に選んだ事に皆驚いた。ヨゼフィーネは元帥の娘とはいえ社交界デビューもしていなかったし、フェリックスと関係があった女性達とも殆ど面識がなかった。
 フェリックスを取り囲んでいた嘗ての人々は、ヨゼフィーネに興味津々となり、彼女の登場を待ちかねた。しかし、肝心のヨゼフィーネは、一向に公の場に姿を見せなかった。それもその筈である。彼女は軍務で宇宙に行ってしまい、フェザーンにはいなかったのである。
 このフェリックスの婚約騒ぎは、社交界の大きな話題となってあちこちで盛り上がったものの、注目のヨゼフィーネを見ることもなく、いつまでも経っても二人のツーショットが拝めないという状況もあり、次第に治まっていった。


  ビッテンフェルトとしては、フェリックスとヨゼフィーネの交際を正式に認めた訳ではない。まず<娘の気持ちを優先に!>と考えていただけなのに、時間が経つにつれ、いつの間にか世間では<フェリックスとヨゼフィーネは婚約した!>という話に落ち着いていた。ヨゼフィーネの意志やビッテンフェルトの気持ちとは無関係に、世間はヨゼフィーネを<フェリックスの婚約者>と認めてしまったのである。
 俗に一般的な価値判断からすれば、大物エリートのフェリックスと付き合うチャンスはそう簡単に得られる筈もなく、ましてや結婚を申し込まれるという奇跡的な幸運を、袖にする女性はまずいないと考えてしまうだろう。従って<ヨゼフィーネがフェリックスのプロポーズを断った!>とは、誰も思わなかったのである。
 そして、その世間が認めたフェリックスとヨゼフィーネの婚約から、もう既に三年の月日が流れていた。



 ビッテンフェルトは、ヨゼフィーネの士官学校の卒業を見届けてから、皇帝であるアレクに退役を申し出た。自身の定年も迫っていたし、黒色槍騎兵艦隊の司令官も既に若い世代に譲っている。引き際に丁度よい時期と考えたからだが、アレクは彼に軍服を脱ぐ事を認めなかった。
 そこで、軍務尚書であるミュラーの提案を受け、ビッテンフェルトは元老として軍に留まった。従ってビッテンフェルトは、現在<いま>も変わらず御意見番として軍務をこなしている。
 そして、今夜の<海鷲>には、昔と同じように軍服姿のビッテンフェルトとミュラーの姿があった。


「ミュラー、俺はもう我慢できないぞ!フェリックスがフィーネにプロポーズしてからもう三年が過ぎた!それなのに、未だにこの状況が変わらないのはなんなんだ~~」
 少し酔いが回ったのか、ビッテンフェルトがミュラーに愚痴をこぼし始めた。ミュラーはいつもの通り、ビッテンフェルトを宥めにかかる。
「まぁ、仕方ありませんよ!フィーネは宇宙へ行ったり来たりでいろいろ忙しいですし、フェリックスと逢う時間も限られていますからね。まあ、地上にいて簡単に行き来できる交際とは訳が違いますよ・・・」
 穏やかに告げるミュラーとは対照的に、ビッテンフェルトが怒気を露わにして話し始める。
「ミュラー、俺はこの間、やけに着飾った派手なババアに『これ以上フェリックスを虐めないで・・・』と泣き付かれたぞ!」
 ビッテンフェルトのこの言葉に、思わずミュラーはその砂色の瞳を大きくさせた。そして、年配の御婦人に詰め寄られてタジタジとなっているビッテンフェルトの顔が浮かび上がり、思わずにやつきそうになる。しかし、目の前の鋭い視線を感じ、慌てて顔を引き締めた。そんなミュラーに、ビッテンフェルトは更に訴えた。
「俺がいつフェリックスを虐めた?あの二人に関しては、俺としては珍しく寛容な態度で接しているじゃないか!」
 不満げなビッテンフェルトを、ミュラーが慰める。
「表面しか見ていない世間では<フェリックスがいつまで経っても結婚できないのは、婚約者の父親であるビッテンフェルト提督が反対している為!>と思うのでしょう・・・」
「そうなんだよな~!でも、なんで俺が結婚を反対しているという話になるんだ?俺は最初から本人同士に任せているじゃないか・・・」
 このところの世間の風評に、納得できないビッテンフェルトであった。今までの娘に対する自分の行動が、世間でどう評価されているか、ビッテンフェルトはまだ気が付いていないようである。
 今でこそ、娘達は成長し、ビッテンフェルトも孫がいる年齢になって落ち着いてきたものだが、ルイーゼやヨゼフィーネが小さかった頃の彼の娘への溺愛ぶりは有名であった。当時引き起こした親バカぶりや珍騒動を、世間は忘れてはいない。特に、ルイーゼの結婚式でのビッテンフェルトのパフォーマンスを見た人々は、<この御仁は、残されたもう一人の娘であるヨゼフィーネを絶対に手放さないだろう>と確信したものである。そういったビッテンフェルトの数々の行動が、今の<フェリックスとヨゼフィーネの結婚を、ビッテンフェルトが反対している>という世間の見解に繋がっている。
 ミュラーには容易に想像できるこの仕組みが、自覚のないビッテンフェルトにしてみれば判らないようである。ミュラーは、ビッテンフェルトも納得できるように、別の方面から説明してみる。
「フェリックスは小さい頃から、社交界で女性達のアイドルでした。ある程度年齢をいった御婦人達の中にも彼のファンは多く、どの御婦人も彼の結婚話が進まない事にかなり同情しているのです」
「同情か・・・。だが、身知らぬ婆さんから説教を垂れなければならないこちらの身にもなってみろ!全く、いい加減にして欲しいよ。フェリックスもフェリックスだ。あいつ、あんなババア達にまで守備範囲を広げていたのか!」
「まさか!・・・例え、関係があったとしても過去の話ですよ。今のフェリックスは、フィーネ以外の女性とは付き合っていませんから・・・」
「当たり前だ!」
 半分冗談のつもりで言ったフェリックスの女性関係を、まともにとったミュラーに、ビッテンフェルトは呆れた。
「しかし、何かの催しに出れば女共がジト目で俺を睨んで、まるで俺が二人の仲を引き裂いている張本人のように責め立てる・・・」
「はは、無理もありませんよ。フェリックスがフィーネにプロポーズをしたのを境に、彼の浮いた噂は耳にしなくなりましたし、彼自身も近寄ってくる女性達とは距離を置くようになりましたからね。フェリックスのこういった行動は、この交際に最初は渋い顔をしていたルイーゼまで味方につけたくらいですから・・・。何も知らない人々から見れば、フェリックスがビッテンフェルト提督にかなり気を遣っているように見えて、昔の女性関係と大きなギャップがある分、彼を可哀想に思うのでしょう」
「ふん!結局、もてる男っていう奴は、何をしても女共を味方に付けやがる・・・」
 女性に味方されるという経験のないビッテンフェルトがふて腐れる。
 政治や軍事の事で睨まれるのは平気で図太いビッテンフェルトだが、勝手の違う御婦人達の視線攻撃には些かこたえているようである。そんなビッテンフェルトに、ミュラーは和ませる為にも少し話を変えてきた。
「しかし、初めこそ先行きが危ぶまれたフェリックスとフィーネですが、最近はなかなかいい雰囲気になってきたんじゃないですか?」
「お前、本当にそう思うか?」
 鼻穴を広げたビッテンフェルトが、ミュラーに顔を近寄せた。
「と言いますと?」
 ビッテンフェルトの迫力の度アップの顔を目の前にして、ミュラーが問いかける。
「俺には、ときどきフェリックスが<フィーネお抱えの運転手>に見えてくる・・・」
「はぁ・・・」
「考えても見ろ!フェリックスは、フィーネの帰還の出迎えに行っても、どこにも立ち寄らず真っ直ぐ家に送り届けるし、休暇中のフィーネが出かける際も、大抵フェリックスが運転を担当している。出航の日だって、宇宙港までフィーネと一緒に行って見送る。フェリックスがフィーネとゆっくり話をするとすれば、我が家のリビングで、ミーネと一緒にお茶を飲んでいるときぐらいなものだぞ!」
「そ、そうかも知れませんが、偶には二人で何処かに出かける事もあるのでしょう?」
「そりゃあな!でも、大抵はテオとヨーゼフが一緒の瘤付きデートとなっている。あのおじゃま虫達がフィーネにくっついていれば、フェリックスとしては手も足もでまい」
「まぁ、テオもヨーゼフも、フィーネが帰るのを首を長くして待っていますからね・・・」
「いいか、帰還したフィーネの休暇は、万事がこんな調子だ!これで、あの二人は大丈夫だと言えるのか?」
「まぁ、フェリックス自体、長期戦は覚悟していると言っていましたし、焦らないようにしているのでしょう」
「う~ん・・・。しかしなぁ~、ミュラー、俺は同じ男として、だんだんフェリックスが不憫に見えてきた・・・」
 酒が入っているせいもあるのかもしれないが、このビッテンフェルトらしくない娘の交際相手に対する同情的な言葉に、ミュラーは思わず笑ってしまった。

フェリックスは、
あのロイエンタール元帥の忘れ形見だ
ビッテンフェルト提督にとっても、
父親似のフェリックスは、特別な存在なのだ
フィーネの父親として、いろいろ文句は言っているが、
内心では、フェリックスを可愛がっているんだ

 ミュラーは、昔ビッテンフェルトが黒色槍騎兵艦隊の司令官代理を、麾下の幕僚から選ばずフェリックスに命じたときのことを思い出していた。日頃からフェリックスを見ていなければ、自分の代理が務まる力量があるかどうかは判りはしないだろうし、彼の可能性を広げてやりたいと思わなければあの大抜擢の命令もなかっただろう。
「長い目で見ましょう。フィーネだって最初こそフェリックスのプロポーズに抵抗していたものの、今では彼の婚約者という立場に馴染んでいるようですし・・・」
「だがな、何も変わらないまま三年が過ぎたぞ!俺はもう二人を見守るのに疲れてきた・・・」
 社交界での女性達の視線攻撃に、ストレスを感じているようなビッテンフェルトであった。ミュラーは、この状態に我慢できなくなったビッテンフェルトが、フェリックスに余計な干渉をしてしまうような気がして、つい彼を牽制する。
「ビッテンフェルト提督、もうじきフィーネが宇宙から帰ってきますが、休暇中に見ていられないからといってフェリックスにチョッカイを出してはいけませんよ!それこそ、フェリックスを虐めている事になりますから・・・」
「判っているわい!ミュラーまでルイーゼと同じ事を言ってくる。全く、虐められているのは俺の方だ・・・」
 娘のルイーゼからも、<余計な口出しは無用!>と釘を刺されたビッテンフェルトが、ブツブツと文句を垂れる。
 なかなか進展しないフェリックスとヨゼフィーネの交際だが、周囲からは温かい目で見られているようである。



 ヨゼフィーネの配属されている輸送艦『ニーベルング』が、フェザーンに到着したのは、ビッテンフェルトとミュラーが<海鷲>で酒を交わしてから数日後の事である。
「ビッテンフェルト中尉!ほら、婚約者殿のお出迎えですよ!」
 フェリックスの姿を見つけたヨゼフィーネの後輩のヘレナが、艦のタラップを一緒に降りている彼女に教えた。予定より一日早い帰還だったが、今回もフェリックスは、いつものようにヨゼフィーネの出迎えに来ていた。
「先輩、お二人が婚約されてから結構経っていると伺いましたが、一体、結婚はいつ頃の予定になるのですか?」
「まあ、いろいろあってね・・・」
 ヘレナの質問に、ヨゼフィーネは苦笑いで言葉を濁した。訳ありにこう言っておけば、大抵の人は<なにか事情があって結婚を先延ばしにしているのか?>と察し、それ以上の事は訊いてこない。フェリックスとの婚約について、うんざりするくらい訊かれたヨゼフィーネが、質問をかわす為に身につけた技でもある。
 ヨゼフィーネとしても、三年前のフェリックスからのプロポーズは、確かにきっぱりと断った筈である。しかし宇宙から帰るたび、フェリックスは当たり前のような顔でヨゼフィーネの側にいるし、反対気味だった筈のルイーゼや静観すると言っていたビッテンフェルトまで、交際を公認したかのように彼を受け入れるようになってきた。過去の派手な女性関係を絶ち、ヨゼフィーネ一筋になったフェリックスの行動は、周囲を味方につけるのに十分な効果をもたらしているようである。
 ヨゼフィーネ自身もフェリックスと婚約中にしておいた方が、言い寄ってくる男もいなくなり、異性からの誘いに煩わしさを感じていた彼女にとっても好都合であった。そしてなにより、いちいち婚約の噂を否定する事に疲れてきた事や、宇宙を行き来する忙しい生活という事もあり、フェリックスとの件はそのまま時間<とき>の流れに任せたのである。
 月日を重ねるうち、ヨゼフィーネの方もフェリックスに対しては、それなりに情が移ってきたようである。


「フィーネ、ご苦労様!」
「お出迎え、ありがとう」
 久しぶりに逢った二人が、軽く再会のキスを交わす。
「早速だけどフェリックス、家に帰る前に寄りたいところがあるの!」
 ヨゼフィーネの頼みに、フェリックスは頷いて答える。
「判っている!今、開催されているミュラー夫人の個展だろう?だったら急いだ方がいい!今日は最終日だから、終了時間が早い筈・・・」
「それじゃ、急ぎましょう!」
 ヨゼフィーネとフェリックスは、久しぶりに逢った婚約者同士とは思えないほど再会の会話もそこそこして、足取りを早めた。



 個展会場で、軍服姿のヨゼフィーネを見つけたエリスが、二人に近寄ってきた。
「フィーネ、お帰り♪あなたの帰還は明日と聞いていたから、今回の個展には来られないと思っていたわ」
「うん、予定より帰還が早まったの!それで、ギリギリセーフで個展に間に合ったという訳♪」
「そう、よかったわ。でも、絵は早く見た方がいいわよ。もうじき梱包作業が始まるから・・・」
「うん、判った。それじゃ先に絵を見てくるわ」
 ヨゼフィーネとフェリックスが、展示されている絵を鑑賞し始める。 
 連れだって歩く二人の姿が、恋人同士らしい雰囲気を醸し出している事に、エリスは思わず笑顔になる。
 画家として根強い人気があるエリスの数年ぶりの個展ということもあり、非売品の絵以外は、全て売約済みの札が貼られていた。
「相変わらずエリス姉さんの絵は、人気があるわね~」
「彼女の絵は、ヒルダ皇太后も随分気に入っているよ。レオンハルト皇子の肖像画を描いてもらったくらいだからね・・・」
「えっ、エリス姉さんがレオンハルト皇子を?・・・そう、知らなかったわ」
「つい最近の話なんだ・・・」
 少し表情を変えたヨゼフィーネを見て、(まずかったかな?)とフェリックスは感じていた。レオンハルト皇子に関わる事を極力避けているヨゼフィーネにとって、フェリックスがアレクの側近というのは、大きなマイナス要因になっている。それが判っているフェリックスも、ヨゼフィーネの前では、自分がアレクの側近であることを感じさせないよう注意していたし、王室の話題も避けていた。なのに、つい世間話の延長でレオンハルト皇子の名がでてしまった。
 黙ってしまったヨゼフィーネに、フェリックスがさり気なく訊いてみる。
「気になるかい?」
「いいえ、エリス姉さんは画家として、レオンハルト皇子に会っただけ・・・。私が絡んでいる訳ではないから気にしないわ・・・」
 比較的冷静にヨゼフィーネが答える。しかし、先ほど見せた動揺を取り繕うかのようなその落ち着きに、フェリックスはなんとなく違和感を感じていた。そのとき、エリスが二人に声をかけた。
「折角来てくれたのに、案内もせずにごめんなさいね」
「ううん、私達の方はいいのよ。忙しい時間なんでしょう?」
「ミュラー夫人、個展はもう終了時間のようですし、私はこのままフィーネを家まで送ります」
 後片づけを始めている画廊のスタッフを見て、フェリックスがエリスに告げる。そして、会場から出ようとするヨゼフィーネに、エリスが一冊のスケッチブックを手渡した。
「これ、私からフィーネへのプレゼントなの。家に帰ってからゆっくり見て頂戴!それから、休暇中は必ず我が家にも来るのよ!ナイトハルトに貴女の顔、見せてやってね。そのときにゆっくりお話ししましょう!」
「判っている!ちゃんと行くから・・・」
 エリスの言葉に、ヨゼフィーネが笑って答えた。



 ビッテンフェルト家に向かう車の中で、フェリックスがヨゼフィーネに今夜の予定を持ちかけてみる。
「実は、ビッテンフェルト元帥はワーレン元帥と一緒に外出中なんだ。帰宅は明日になる」
「あら、そうなの。父上が泊まりがけで出かけるなんて珍しいわね」
「士官学校の同期会だそうだ。君の帰還は明日の夜の予定だったから、ビッテンフェルト元帥もそれまでには帰宅できればいいと思ったんだろう。それで、夕食は二人で何処かに食べにいかないか?もちろん、君が疲れていなければの話だが・・・」
 宇宙から帰ってきたばかりのヨゼフィーネの体調を考慮した上で、フェリックスはデートに誘ってみる。
「う~ん、そうね、いつも外出となると、テオやヨーゼフに合わせて子ども向けの場所になるから、偶にはあなたの好みに合わせてもいいわよね・・・」
 ヨゼフィーネの了解に、フェリックスは心の中でガッツポーズをとった。
(よし、今夜は、あの小うるさい父親も小判鮫のようにフィーネにくっつきたがる甥っ子達もいない。やっと、大人のデートが出来る!)
 フェリックスはヨゼフィーネとそれこそ挨拶程度のキスはするが、当然の如く男と女の関係にはまだ達していない。フェリックス自身、欲望を我慢する事などなかった数年前の女性関係と比べて、<よく辛抱している・・・>と溜息が出ることもある。しかし、<焦りは禁物>と自分に言い聞かせ、なんとか過ごしてきた。そんなフェリックスにとって、今夜は珍しくヨゼフィーネと二人っきりでゆっくり過ごせる、滅多にないチャンスであった。



 ビッテンフェルト家についたヨゼフィーネが二階の自室で着替え始める。軍服をクローゼットに収納する彼女に、先ほどエリスから貰ったスケッチブックが目に入った。何となく気になったヨゼフィーネが、中身を開いてみる。
「レオンハルト皇子!」
 不意に飛び込んできたその絵に、何の心構えをしていなかったヨゼフィーネの心が大きく動揺した。
 木炭で描かれた人物には、金色の髪もライトブルーの瞳の色も見分けられなかったが、レオンハルトに間違いない。ヨゼフィーネは食い入るように、そのスケッチブックを見つめた。
 心の底に押さえていた感情が、一気に込み上げてくる。自宅の自分の部屋というプライベートな空間では、いつもの自制心が働かず、ヨゼフィーネは零れる涙を堪える事ができなかった。


 リビングでヨゼフィーネを待っていたフェリックスだったが、少し時間が掛かっている事が気になった。<女性の身支度には我慢が必要!>とは、経験上よく判っている事だが、ヨゼフィーネには関していえば訓練された軍人だけあって、動作は手早い。今まで待たせる事などなかっただけに、ミーネも気になったのか、フェリックスに声をかけた。
「フィーネお嬢様、チョット遅いですね・・・。様子を見てきましょうか?」
「いや、私が行きましょう」
 フェリックスがヨゼフィーネの自室に向かった。


 部屋の前で、フェリックスがヨゼフィーネに声をかけてみる。しかし、彼女からの返事はなかった。フェリックスが静かに扉を開けてみると、座り込んでいるヨゼフィーネの姿が見えた。
「フィーネ?」
 フェリックスの問いかけに、ヨゼフィーネが慌てて涙を拭った。明らかに泣いていた様子のヨゼフィーネを見て、フェリックスは驚いた。
「フィーネ、どうしたんだい?」
「フェリックス、悪いけど、予定をキャンセルしていい?今夜はこのまま此処で過ごしたくなって・・・」
 涙声で話すヨゼフィーネに、フェリックスが慌てる。
「フィーネ、具合でも悪くなったのかい?」
 心配するフェリックスに、無言で首を振ったヨゼフィーネは、抱えていたスケッチブックの中身を見せた。
 レオンハルト皇子のデッサンで埋めつくされているスケッチブックを見たフェリックスが、全てを察した。そして、ヨゼフィーネに静かに話しかける。
「今のフィーネは、これに描かれているレオンハルト皇子と過ごしたいんだな・・・」
 頷くヨゼフィーネに、フェリックスが告げる。
「判った。今夜のところは、このまま帰るよ」
「フェリックス、約束したのに、ごめんなさい・・・」
「いや、いいさ」
 真っ赤な目をして謝るヨゼフィーネの頬に、新たに一筋の涙が零れ落ちる。フェリックスは、思わずヨゼフィーネに手を伸ばし、彼女をそっと抱きしめた。そして、ヨゼフィーネの耳元で小さく囁く。
「本当に、大丈夫か?」
 フェリックスの言葉に、ヨゼフィーネは頷きながら小さな声で答えた。
「大丈夫・・・。突然だったから・・・心の準備が間に合わなかっただけ・・・」
「そうか・・・」
 ヨゼフィーネも、そのままフェリックスの胸に身を委ねていた。二人の間に会話はなく、只、ヨゼフィーネの洟をすする音だけが聞こえていた。


「フェリックス、もう大丈夫よ・・・」
 フェリックスから離れたヨゼフィーネは、もうすっかり落ち着いていた。目はまだ潤んでいたが、先ほどと違って感情が揺れ動いている様子はなかった。まるで一瞬にして、<平常心>という鎧を身に纏ったようである。
「誰にも言わないで・・・。特に姉さんには・・・」
 冷静になったヨゼフィーネが、フェリックスに頼んだ。
「姉さんって心配性でしょう。それに、必要以上に私に気を遣ってしまうから・・・」
 念を押すように話すヨゼフィーネに、フェリックスが応じる。
「判っているよ・・・。下にいるミーネさんには、<フィーネは疲れて眠っていた>とでも伝えておくよ。だから君は、気にせずこのまま部屋に居ればいい」
「ありがとう、フェリックス・・・」
 少し笑みを見せて、ヨゼフィーネがフェリックスに礼を言った。しかし、フェリックスが見た彼女の表情は、ずっと気になっていたあの形ばかりの笑顔であった。
 ビッテンフェルト家を後にしたフェリックスの手に、先ほどの抱きしめたヨゼフィーネの柔らかい躯の感触が残っていた。

『心の準備が間に合わなかった・・・』か・・・

フィーネは、
レオンハルト皇子の想う自分の気持ちを、
必死に閉じこめている
普段は自分で意識的に、砦で覆って
表面に出ないように守っている感情だ
だが、
無防備のとき、不意を突かれると
今のように感情が溢れて、押さえきれなくなるんだ・・・

 フェリックスは、ヨゼフィーネにプロポーズした頃、彼女の義兄のアルフォンスから言われた言葉を思い出した。

『フィーネは未だに、時折寂しそうな顔をする
子ども達を見ているときの目が切ないんだ・・・』

確かに、アルフォンスの言うとおりだ・・・
あんなフィーネを見てしまうと
ルイーゼがいつまでも心配してしまうのもよく判る・・・

フィーネにとって、
この状態が、決して良いとは思えない
そろそろ行動を起こす時期なのかも・・・


<続く>