亜麻色の子守唄 7

 ペクニッツ夫人が入院した病院は郊外にあり、病院と言うより療養所のような施設であった。庭も広く緑と花に囲まれ、建物全体が心地よい造りとなっている。
 夫人は精神的に不安定で、事件の事は何も覚えていない状態であった。今は、過ぎ去った過去の世界を漂っている。だが、今回の事件の当事者の一人であることは確かである。逃げ出す心配はないにしても、口を封じられる可能性があった。
 ミュラーは、目立たぬよう幾重にも警戒の網を張り巡らせていた。そんな夫人の病室は特別室となっており、安らぎのある落ち着いた空間となっていた。<皇太后暗殺未遂事件>を起こした人物とは思えないような待遇に、ヒルダやミュラー達の気の使いようが判る。
 ただ、そこはマジックミラーで隣の部屋から、いつでも様子を伺う事ができる構造になっていた。病室のドアには警備兵がいて、常に不審者を警戒していた。


 約束の時間になり、ミュラーはマジックミラーがある隣の部屋で、ビッテンフェルト夫妻を待っていた。ノックの音がして、ビッテンフェルトが顔を出す。
「あれ、アマンダはまだ来ていないのか?」
「ご一緒じゃなかったんですか?」
「俺は元帥府から直接来たから・・・。おかしいな?来ている筈なのに・・・」
「何かあったのでしょうか?」
 几帳面なアマンダにしては珍しいと、ミュラーは思った。そして、廊下に控えていた部下に、迎えに行った者からの連絡の有無を聞こうと立ち上がった。ドアを開けた途端、アマンダと鉢合わせをしたミュラーは、その姿に驚いてしまった。
 アマンダは軍服を着ており、髪も以前のように短く切って、昔のベーレンス准尉となっていた。
 驚いて見つめているビッテンフェルトとミュラーに「変ですか?」と問いかける。目が点になっていたミュラーは、首を左右に思いっきり振り、ビッテンフェルトは複雑な表情でアマンダを見つめた。
「この姿でペクニッツ夫人に会います。夫人の時間<とき>が止まっているなら、こちらもあわせないとね・・・」
 驚く二人の男の前で、アマンダが静かに微笑んだ。


 忘れかけていたアマンダの軍服姿に、ビッテンフェルトは昔を思い出していた。諜報の世界を生きていた過去を持ち、無表情という鎧に身を固めていた女だった。
 (辛かった昔を、否が応でも思い出してしまうだろうに・・・)
 そんなふうに思いながら、ビッテンフェルトは軍服を着た妻を、心配そうに見つめた。アマンダは、自分を見つめるビッテンフェルトのその目に、(大丈夫よ)と軽く微笑みで返す。
 何と声をかけたらよいか判らぬミュラーに、アマンダは「ペクニッツ夫人の体調はどうでしょう?」と訊いてきた。
「大丈夫のようです」
「そうですか。では、始めてもよろしいでしょうか?」
 ミュラーが頷いた。
 部屋を出ようとしたアマンダが、何気なく髪をかき上げたところ、耳にピアスをしていたことに気が付いた。
「帝国軍人が、こんなものは付けないわね」
 笑いながら右手で外そうとしたが、片方の手だけでは難しいらしくなかなか外れなかった。
「ん!取れないのか?俺が外してやる」
 ビッテンフェルトが、耳にかかるアマンダのクリーム色の髪の毛を振り分けて、大きな手で耳たぶの小さなピアスを外してやった。そして、アマンダの耳もとで何か囁き、背中をぽんと叩いた。小さく頷いたアマンダが、ビッテンフェルトを見つめ軽く微笑む。
 ミュラーは、そんな二人の様子を黙って見つめていた。
「では・・・」
 アマンダは、ミュラーとその隣にいる医師に、会釈して部屋を出てゆく。
 ビッテンフェルトとミュラーは、マジックミラーを隔てた隣の部屋で、軍服姿のアマンダが、ペクニッツ夫人の病室に入っていく様子を見守った。



「ごきげんよう。ペクニッツ夫人」
「あら、ベーレンス准尉!久しぶりですね、どうぞこちらへ!」
 ペクニッツ夫人が愛想の良い顔で、お茶を勧める。
「すっかりご無沙汰してしまいました。お変わりありませんでしたか?」
 アマンダが時間の空間を越えて、すんなり夫人の世界に入り込む。二人の間に、普通の当たり障りのない会話が続く。
「・・・ベーレンス准尉、何だかいつもと違うみたい…」
「そうですか?」
「今日のお顔は、何だか柔らかい感じが・・・。好きなお方でもできましたか?」
「・・・ご想像にお任せします」
 口調も表情も以前の感情を表さないと言われていた昔のベーレンス准尉を装っていたアマンダだったが、ペクニッツ夫人には変わった感じが判ったのかも知れない。
 ミュラーは(ペクニッツ夫人は、感受性の強い人なのかもしれない)と感じていた。


「カザリンさまが即位してから、ペクニック夫妻は陛下のご両親という事で、何かと気苦労もありましょう・・・。何かお困りのことはありませんか?」
「その・・・夫のことで少し・・・」
「ペクニッツ公爵のことですか?」
「ええ、あの人、ちょっと有頂天になってきている気がして・・・。ご存じの通り、私たち夫婦は世間をあまり知りません。だから今回のことは、私たちにとってよかった事なのかどうか・・・。あの人の今後の変わりようが心配です」
「・・・何かありましたか?」
「カザリンが女帝と発表されて以来、結婚の申し込みが殺到しています。まだ八ヶ月なのに・・・。夫はまるでカザリンの事を、品物のように『価値が上がった』などと言っています。娘と言うよりコレクションの象牙と同じ感覚で、カザリンを見てきたような気がして・・・」
「・・・」
「今まで、私たちの事など目にも掛けかかった親戚が訪ねて来て、『自分達に子供ができたら、ぜひ、カザリンの結婚相手に、立候補させて欲しい』と申し込んできました。まだ、生まれてもいない子供のことまで、持ち出してきたんですよ」 
 呆れたように苦笑いする夫人には、自分の娘の将来に対する不安がありありと見えていた。
「そんな先走ったお方もいましたか?世の中には、ユニークな方もいるものです」
 アマンダは慰めるように答える。
「皇帝の両親という立場は、私たちには荷が重すぎるようで・・・」
「確かに意外な人から、いろいろと言われることが多くなったことでしょう。あまり外に出ることの無かった公爵は、少し混乱しているのかもしれません。警備を強化して、訪問客にも気を配るように手配致しましょうか?」
「・・・お願いします」
 夫人の深い溜息に、ペクニッツ家にまとわりつく人々への、戸惑いが伝わってくる。


「浅ましい魂胆だな・・・」
 隣のへやで、夫人とアマンダのやり取りを聞いていたビッテンフェルトが呟いた。
(あの頃は、ゴールデンバウム王朝は不安定だった。新しい時代への変わり目で、貴族も生き残りをかけて必死だった。ペクニッツ一家は、地位と権力にすがろうとする貴族の執念に巻き込まれかけていたんだ・・・)
 ミュラーも、当時の貴族社会を思い浮かべた。


「カザリン陛下は、先日、熱が出たと伺いましたが、その後はどうでしょう・・」
 アマンダは、さり気なく月日を越えた。
「ええ、今回はこじらせずにすみました。オーベルシュタイン閣下によろしくお伝え下さいね。いいお医者様をご紹介して頂き、助かりました」
「・・・お役に立てて良かったです。閣下に伝えておきます」
「『体が弱いカザリンに、女帝が務まるでしょうか?』と言ったことを、気にかけてくださったんですね。あの方・・・」
「陛下の健康管理も、私どもの仕事ですから」
「ええ・・・でも、本当に助かりました。いつも、閣下にはお気にかけて頂いて、ありがたく思っています」
 ペクニック夫人がオーベルシュタインに礼を告げていた。
 その様子を隣の部屋で見ていたビッテンフェルトとミュラーが、無言で顔を見合わせる。
 二人共も、この頃は戦争のことしか頭に無かった。宮廷での出来事などには一向に関心がなかった二人に、オーベルシュタインがカザリン・ケートヘン一世に見せていた気配りなど知りよしも無かった。
 ミュラーの隣に座っていた医師が問いかけてきた。
「あの女性は、夫人のような患者の取り調べをする専門家ですか?」
「いや、ちょっと事情がありまして・・・。何か不都合がありましたか?」
「いいえ、やりとりを聞いて、心理学か何かを学んだ方なのかなぁと感心しまして・・・。記憶を呼び戻そうとしているようですが、拒絶反応が出ないように旨く遭わせてます。子供の成長を手がかりに、過去から遡っているのも自然に感じますし・・・。何より夫人が、リラックスしているのがいいですね。今まで、ちょっとしたことでもすぐ緊張して、頭痛やめまいなどの症状を訴えていましたから・・・」
 ミュラーもビッテンフェルトもあまり感じていなかったことだが、専門家が感心するような会話の進め方なのだろう。
 ミュラーは、アマンダが嘗てオーベルシュタインの部下で、諜報関係を担当していた事を思い出した。しかも、独特の価値観を持つ貴族という敵側に潜み、情報収集などの任務に付いていたのだから、相手の心理を読むことも身に付いていたのだろう。
(あのオーベルシュタイン元帥が、自分の直属の部下にしていた女性<ひと>だったのだ・・・。有能でなければ務まるまい)
 ミュラーは、オーベルシュタインが認めていたアマンダの能力を、改めて思い知った。


<続く>