亜麻色の子守唄 5

濃い霧が立ちこめる空間
周りが何も見えない
どこからか声がする
「・・・だから、言ったでしょう・・・ナイトハルト
あなたに軍人は似合わない・・・」
聞き覚えのある声・・
昔、一途に愛した女性<ひと>
「シルヴィア?」
懐かしい、いや、忘れられずにいた彼女の姿・・・
「あなたには、殺伐とした世界は似合わない!軍人をやめて・・・」
負傷して戦場から戻った私に、涙を浮かべて恋人が告げた言葉
「シルヴィア、もう遅いよ。私は目の前の道を進まなければ・・・」
戦場で艦隊を指揮する立場となった自分
背負った責任と失った命の重さ、
そして、それに連なる残された家族の悲しみ・・
もう、後戻りはできない・・・するわけにはいかない・・・

「あなたは優しすぎる・・・
だから、全てを抱えてしまう・・・
あなたが自分を見失っていくのを見るのは辛い・・・」
「自分を見失う?」
私は、ゆっくりと首を振って答える
「私は変わらないよ」
「気づいていないの?それとも気づかない振り・・・」
「シルヴィア、私は・・・」
寂しそうにうつむき
背中を見せて去っていく愛しい女性<ひと>
思わず私は駆け寄り、
消えてしまいそうなその女性<ひと>の腕を掴む
「待ってくれ、シルヴィア!」

しかし
腕を掴まれて振り向いたその女性<ひと>
あの思い出の彼女ではなかった
深い霧で顔はよく見えないが、
この腕はシルヴィアではない・・・
驚いて問いかける
「君は、誰?」

「・・・閣下、閣下」
 自分を呼ぶ副官ドレウェンツの声で、ミュラーは目が覚めた。机の上でうたた寝していたらしい。
「大丈夫ですか?」
 心配そうなドレウェンツに、ミュラーは「コーヒーを頼む。うんと濃いのを」と照れくさそうに伝えた。


 あの事件以来、ミュラーは自宅に戻らず、ずっと執務室で仕事に没頭していた。大勢の招待客からペクニッツ夫人と関連がないか、丹念に探し出していた。
 もう夫人からは、事件のことを聞くことはできなくなっていた。夫人の頭の中は何年も前の状態になっており、娘のカザリンは赤ん坊のままだった。その先の不幸は、頭から追い出したように、彼女からすっかり消えていた。
 ペクニッツ夫人を収容した病院には、ミュラーの右腕の参謀長のオルラウが何度も通い話を聞いているが、状況は変わらずにいた。
「できるだけペクニッツ夫人の負担にならないように」
 皇太后ヒルダの彼女を気遣う希望もあり、自白剤の投与などはせず、無理に記憶を呼び起こすような事もしなかった。
 担当の医師からは、何かをきっかけに自然に記憶が戻る事もあると言われたが、そんなチャンスはそうそうくるものでもない。
 この事件の捜査は行き詰まっていた。


(あのとき、すぐオーデインに問い合わせをしていれば・・・いや「ペクニッツ夫人かも知れない」と警備兵に伝えて目を離さぬようにしておけば、一緒にいた関係者も判明できたかも知れない。アマンダさんの余計な事は言わない性格を知っているのに・・・私が察して機敏に行動していれば・・・)
 ミュラーは過ぎ去った事とはいえ、気が付けば何度も振り返って、自分の油断と手際の悪さを後悔していた。
 ドレウェンツが持ってきてくれた濃いコーヒーを、一口飲んで考えてみる。
(気持ちが滅入っているんだな。あんな夢を見るなんて・・・)
 落ち込んでいるとき、よく見ていた深い霧の中を彷徨う夢を、ミュラーは久しぶりに見た。しかし、かつての恋人との別れの場面と重なるのは、初めての事だった。
(今更、シルヴィアの夢を見るなんて・・・しかし、私は最後に一体誰の手を掴んだんだろう)
 ミュラーは、何だか感触が残っているような右手を触りながら考えていた。


「閣下、ビッテンフェルト元帥から連絡が入っていますが・・・」
「繋いでくれ」
 ヴィジフォンの画面に、ビッテンフェルトが映し出された。あの事件以降、ミュラーはずっと仕事に没頭していたので、ビッテンフェルトと会うのはそのとき以来である。
「アマンダさんの具合はどうですか?」
「もう退院して、家で普通に過ごしている。大丈夫だから気にするな!」
「でも、アマンダさんをあんな災難に遭わせてしまったのは、私のせいですから・・・」
 うつむくミュラーを、画面越しに見つめたビッテンフェルトは溜息をつく。
(やはり、ミュラーは自分を責めている、全く・・・)
「ミュラー、お前はアマンダの怪我は、自分のせいだと思っているらしいがそれは違うぞ!あれは、誰が傍にいようが避けられなかっただろう。いいか、物事はいい方に考えろ!一歩間違えば死に至る猛毒が塗ってあるナイフに刺されたんだが、刺した相手が力のない女性で傷は浅かった。刺された場所も、心臓から遠い手先で毒の回りも遅かった。だから、ワーレンのように手を切り落とさずに済んだんだ。そう考えれば不幸中の幸いと思わんか?」
「でも、アマンダさんの左手に麻痺が・・・」
「医者は最悪の場合は麻痺が残ると言っただけで、治らないと言ったわけではない。リハビリで元通りになるんだ!」
 自信を持って言い張るビッテンフェルトであったが、前回の事もありミュラーは(本当にビッテンフェルトの言葉通り、素直に受け取っていいものなのかどうか・・・)と半信半疑だった。
 そんなミュラーの顔を見て、ビッテンフェルトが命令する。
「気になるんだったら、明日家に来い!ただし、アマンダにそんな顔を見せるな。やつれて悲惨な顔になっているぞ。お前、寝てないんだろう?」
「・・・・・・」
「いいか、今日はこのまま帰ってゆっくり寝るんだ!明日の朝、迎えに行くから」
「朝・・・ですか?」
「不服か!」
「いえ、でも仕事が・・・」
「卿は明日、休暇を取るそうだ」
「えっ?」
「幕僚達がそう言っていたぞ。それじゃ、明日の朝な!」
「はぁ~、ち、ちょっと待って・・・」
 プツンと通信は切れ、画面のビッテンフェルトは消えてしまった。
(どういう事だ?)
 思いがけないビッテンフェルトの言葉に、ミュラーが考え込んでしまった。


 「私が『明日休暇を取る』とは、一体どういう事だ!」
 ミュラーは幕僚達の部屋で問いかけた。珍しく不機嫌そうなミュラーに、ドレウェンツは経緯を説明する。
「すいません。ビッテンフェルト元帥が、『明日一日、閣下を借りるぞ!』と強引に命令するもので・・・」
「か、借りるって・・・」
 呆れて二の句が出ない状態のミュラーに、オルラウが諭すように話す。
「私も閣下には休養が必要かと存じます。ですが我々が言っても、今の閣下は素直に休んでくださらないでしょう。それで、ビッテンフェルト元帥の命令に便乗させて頂きました」
「はぁ~」
 ミュラーは思わず周りの顔を見回す。
(全員一致した意見らしい)
「・・・私は、そんなにひどい顔しているか?」
「疲れが溜まっているのです。仕事のことを考えず、今夜はぐっすりお休み下さい。それに、実はビッテンフェルト元帥の話しぶりから、なにやら奥方が閣下にお話があるらしいという様子が見受けられました」
 オルラウの言葉に、ミュラーは一瞬考え込む。
「・・・事件の事かな?」
「聞いておりませんが、おそらくそうでしょう。それに彼女は被害者ですが、昔のペクニッツ夫人を知っている人物でもありますから・・・」
 オルラウの見解に、ミュラーがその理由と問う。
「ビッテンフェルト夫人とペクニッツ夫人の接点を知っているか?」
「はい、今のペクニッツ夫人の口から、何度かベーレンス准尉の名が出たことがあります。ビッテンフェルト夫人は、オーベルシュタイン元帥の秘書官時代に彼女とは面識があったと思われます」
「・・・そうか。では、私は明日は休ませて貰おうかな。だだし、事件に何か進展があったら、必ず連絡してくれ。それが条件だ!」
「はい、後の事は我々にお任せ下さい」
 オルラウとドレウェンツは、ほっとした様子で声を揃えた。


 久しぶりに自宅のベットの上で寝たミュラーは、あっという間に朝を迎えた。それだけ深い睡眠だったのだろう。気持ちは張っていても、やはり体は疲れていたのだ。
 コーヒーを入れて冷蔵庫を覗くが、中には食べられる物が何もなかった。
(ずっと帰っていなかったものな・・・)
 ミュラーが諦めたとき、玄関のチャイムがなった。
「えっ、もうビッテンフェルト提督が迎えに来たのかな?」
 慌ててドアを開けると、そこには大きなバスケットを持った銀色の髪と碧色の瞳を持つエリスが、にっこりと笑って立っていた。
「あれ、エリス!どうしてここに?ビッテンフェルト提督は?」
 エリスが指さす方を見ると、地上車に乗ったビッテンフェルトが見えた。だが、ビッテンフェルトは手を挙げて挨拶すると、そのまま走り去ってしまった。
「え~、一体どういう事だろう?」
 不思議がるミュラーに、エリスが説明する。
「あの~、ビッテンフェルト提督に『今日一日、ミュラーさんと楽しく過ごすように!』って言われて来ました」
「はぁ~・・・」
「・・・ご迷惑だったでしょうか?」
 不安そうに見つめるエリスに「あ、いや、そんな事はないよ」と慌ててミュラーがフォローする。
「よかった~!私、このデート、楽しみにしていたんですよ」
 ほっとした様子でエリスが微笑んだ。
「デート!こんなおじさんを相手に!」
 自分とエリスには不似合いな『デート』という言葉に、ミュラーは驚いていた。
「ミュラーさんって、見た目は年齢よりずっとお若いですよ~。おじさんなんかに見えませんよ♪」
 無邪気に言っているエリスだが、実年齢は若くないとも取れる言い方に気が付いていないようだった。苦笑いのミュラーに、エリスが尋ねる。
「ミュラーさん、朝食をもう食べられましたか?」
「いや、恥ずかしながら何もなくて食べていないんだ」
「私、サンドウィッチ作って来たんです。よろしかったらどうぞ」
「それは、嬉しいな。では、早速ご馳走になろうかな」
 自分の作ったサンドウィッチをほおばるミュラーに、エリスは遠慮がちに尋ねた。
「あの~、ミュラーさんはフェルナーさんとは親しいですか?」
 ミュラーには、エリスが聞きたいことに見当が付いていた。フェルナーの消息は、ミュラーの方でも内密に探していたが、これといった情報を得られずにいた。だが、エリスがその事を知っている筈はない。ただミュラーはビッテンフェルトから、エリスが父親から連絡がないのを心配していると聞いていた。フェルナーと父親の行方と安否を知りたくて、彼女なりに手がかりを得たいのであろう。
「私、知っているんです。父がしている仕事は危険だということを・・・。でも、今までも長く仕事で留守にする事はありましたけれど、定期的にきちんと連絡してくれました。今回、『フェルナーさんの所に行きなさい』と言う連絡があって以来無いんです。そのフェルナーさんの所でも、立て続けに嫌がらせみたいな事が起こって、私は何かから避難するように、ビッテンフェルト家に預けられたんです。だから何だか不安で・・・」
 今までもずっと心配していたらしいが、入院などで大変だったビッテンフェルトやアマンダの前では、気を遣って言い出せなかったのだろう。
 しっかりしているとはいえ、まだ十七歳の少女なのだ。誰かに相談したくなるのも無理もない。
 ミュラーはビッテンフェルトが、エリスを置いていった意味を悟った。
(私だけでなく、エリスにも気晴らしが必要なのだ・・・)
 ミュラーは、エリスの不安を取り去るように、努めて明るく言った。
「フェルナーは有能な軍人だった。いろいろ場慣れして逞しい奴なんだ。心配しなくても大丈夫さ。それに、エリス、今日は一日私と楽しく過ごすようビッテンフェルト提督に言われたんだろう」
「ええ・・・」
「それじゃ、その言いつけを守る事にしよう」
 ミュラーの笑顔に、エリスも素直に頷く。
「さて、デートの場所の御希望は?どこか行きたい所があるかい?」
 ミュラーに尋ねられたエリスが、化粧気のない頬を薔薇色に染めて言った。
「ミュラーさん、よかったら、動物園に行って見ませんか?」
「動物園か~。そういえば子供の頃に行ったきりだ」
「ここの動物園は山の自然を利用して作られているので、緑に囲まれていて気持ちがいいですよ。おとなしい動物は放し飼いで飼われていて、すぐそばで触れるんです」
「よし、天気もいいし、動物園に行って見ようか!」
「ありがとうございます」
 明るい笑顔に戻ったエリスが礼を言った。
 何処からかカッコウの鳴く声が聞こえた。今日も暑くなりそうな気配の朝だった。


<続く>