息吹 3

 <離婚>という思っても見ない事態に、ビッテンフェルトは動転してしまった。
「くそ~、アマンダには、俺の気持ちが判らないのか!」
 興奮して怒り出した彼は、手にした書類を放り出した。書類が、床一面に散らばる。
「馬鹿もん!!いいか、アマンダ、俺は、別れるつもりなど無いぞ!」
 ビッテンフェルトは、いない相手に大声で怒鳴り始めた。そして、声を荒げて一通り怒鳴ったあと、深い溜息を吐いて床に座り込んでしまった。
 散らばった書類を呆然と見つめながらビッテンフェルトは、(どうして、こんなことに・・・夢なら覚めて欲しい)と願った。前向きな彼にしては、珍しい現実逃避である。
 しばらく考え込んでいたビッテンフェルトだが、我に返り自分で散らかした書類を拾い集めた。ふと、白黒の写真の付いた書類が2枚、目に入った。一枚目は、先週の日付が記してあり、写真には小さな黒い影ような固まりが写し出されていた。
「何だ、これは?」
 何を写しているのか判らないビッテンフェルトは、次の書類に目をやった。二枚目にも、同じような黒い固まりの写真が貼ってあり、それには手書きで何やら説明が付け足されていた。
 ビッテンフェルトが黒い影からの矢印を辿るとそこには、頭、手、足、背中、おしりと記したアマンダの文字を見つけた。下の欄には<十八週目>と書かれ、ルイーゼ・ベーレンスという名前が、ルイーゼ・ビッテンフェルトに訂正されている。
 八年以上も前の日付に、(ルイーゼがお腹の中にいるときの写真なんだ・・・)と、ビッテンフェルトはその写真を理解した。
(では、こっちが、今アマンダのお腹にいる子なのか?)
 ビッテンフェルトは、一枚目の黒い影だけでぼんやりとした輪郭の胎児のエコー写真を、食い入るように見つめた。そして、ルイーゼの写真と、何も記されていない写真を、交互に見比べていた。
(ルイーゼと同じあなたの子です。愛してあげて・・・)
 耳元で、アマンダが囁いたような気がした。
「・・・だってアマンダ、俺は、お前を失うのが怖い。命を賭けるような橋は渡らせたくはない・・・」
 心の呟きが、小さな声となっていた。



「なぁ~、ミーネ、俺は間違っているのだろうか?」
 落ち着いた頃を見計らって、コーヒーを持って来たミーネに、ビッテンフェルトが尋ねた。
「いいえ、提督は正しいと思います。ただ、奥様の気持ちもわかりますから・・・」
「今、情に流されてしまってアマンダに何かあったら、あのとき早く治療を始めさせていればと、きっと後悔する。お腹の子供よりアマンダを失いたくないというのが、俺の正直な気持ちだ」
「こういう問題には、納得出来る答えは見つからないものですよ。誰も悪く無いのですから・・・」
 ミーネが二人の気持ちを思いやる。
「それで、どうなさいますか?」
「きっと、エリスのところだろう。連絡してみる」
 ビッテンフェルトが言ったエリスとは、七年前フェルナーがこの家に連れて来た娘だった。不幸な事件で父親を亡くしたが、それ以来、ビッテンフェルト家に下宿しながら学校に通った。縁合ってミュラーと結ばれ、今はミュラー夫人となっている。
 エリスは画家としての顔も持っており、彼女の描く絵は何年も前から取引先の各画廊から「是非、うちで個展を!」と誘いが来るほど人気があった。だが家庭を第一と考えるエリスは、数ある申し出を丁重に断り、無理のないバランスで絵を描いている。
 ミュラーとの夫婦仲の良さも評判で、親代わりを務めたビッテンフェルトも、充実した日々を送っているエリスに安心していた。


 ヴィジフォンの画面に、碧色の瞳と銀色に髪のエリスが映し出された。
「おはようございます、提督。・・・今日、お仕事は?」
「これから行くんだ。・・・あのな、アマンダがそっちに行ってないか?」
「アマンダさん?いいえ、何か?」
「もし、そっちに顔を出したら、すぐ俺に連絡してくれないか」
「はい、わかりました。・・・・・・提督、もしかして夫婦喧嘩ですか?」
 ビッテンフェルトの何やら落ち着きの無い様子に、エリスがそっと尋ねる。
「いや、ちょっと意見が食い違っただけだ」
「・・・そうなんですか。アマンダさんらしいですね。ルイーゼが、サマーキャンプでいないときに討論ですか。冷静で計画的です」
 何も知らないエリスが、クスクス笑っている。
「はは・・・」
 ビッテンフェルトも、引きつった笑いで誤魔化す。
「わかりました。こちらに見えましたら、提督が心配しているとお伝えします」
「頼む。俺に必ず連絡を!」
 念を押すビッテンフェルトに、エリスが何か気づいたらしく、顔つきが変わった。
「それじゃ!」
 何か言いたげなエリスを振り切るように、ビッテンフェルトは早々にヴィジフォンを切った。
「まだ、行っていないらしい。だが、訪ねたら必ず連絡するようにエリスに伝えた。もう少し様子を見よう」
 (もしかしたら、俺が仕事に出た後、ひょっこり戻るかもしれない)そう考えたビッテンフェルトは取りあえずミーネに後を頼み、仕事に行くことにした。



 休暇の予定だったビッテンフェルトが思いがけなく現れ、幕僚達は不思議に思った。しかし、不機嫌な顔丸出しの司令官に、やって来た理由を問う者は誰もいなかった。ビッテンフェルトは副官のオイゲンを執務室に呼んだ。
 しばらくして執務室から出てきたオイゲンは、何やら指令を受けたらしく、慌ただしく姿を消した。ビッテンフェルトは仕事に来たものの、この状態で集中出来るわけもなく、幾度も自宅に連絡していた。だが、その都度画面のミーネは、残念そうな表情で首を振るだけであった。
 アマンダはミュラー家にも寄らなかったらしく、心配したエリスもミーネと連絡を取り合っていた。誰もがいなくなったアマンダを案じていたが、行き先の見当が付かず、ただ時間だけが空しく過ぎていった。



 あっという間に時間が過ぎ、既に夕方になっていた。
「エリスから頼まれましたよ。様子を見てきてくれって・・・」
 仕事帰りのミュラーが、ビッテンフェルト家を訪ねて来た。
「喧嘩とは、珍しいですね・・・アマンダさんは?」
 憮然とした様子のビッテンフェルトは、首を振る。
「アマンダさんが怒って家を出るなんて、よっぽどの事でしょう?提督、一体何をしたんですか?」
 機嫌悪そうに黙っているビッテンフェルトの横には、煙草の吸い殻が山となっていた。
「・・・もしかして、浮気がばれたとか?」
「はぁ~」
 冗談を言って、この場の重い雰囲気を変えようとしたミュラーの狙いは、もろに外れた。
「・・・お、お、お前という奴は・・・」
 ビッテンフェルトの握った手が、わなわなと震えている。
「はっ!(やばい)」
「ば、ばかもん!!・・・お、俺は、浮気なんてしていない!」
「・・・(ひぇ~)」
 キッチンまで聞こえるビッテンフェルトの怒鳴り声を聞いて、ミーネは一人呟いた。
「ミュラーさんは、いつも、間の悪い時に現れて割を食うお方だ・・・」
 ミーネは、ミュラーとエリスとの結婚に至るまでの様々な出来事を思い出し、頭を左右に振って呆れていた。
 世間では切れ者の軍務尚書で通っているミュラーも、ここビッテンフェルト家ではなぜだかタイミング悪く、いつも振り回されている。
 今回もミュラーは、なかなか見つからないアマンダに焦りと怒りが限界に達しようとしていたビッテンフェルトの前に現れ、まともにそのとばっちりを食らっている。
 怒鳴り声が響いている中、ヴィジフォンが鳴った。慌ててビッテンフェルトが取ると、画面には彼の副官オイゲンが現れた。
「提督、探していた車が見つかりました!」
「どこにあった?」
「ハンブルク郊外の民間の駐車場に置いてありました」
「ハンブルク?」
「それで、取りあえず付近を捜しましたが・・・見あたりません。尚、駐車場は一ヶ月という期限で契約したもようです」
「一ヶ月!・・・オイゲン、すまないが明日、もう少し付近を捜して見てくれ」
「御意」
 ヴィジフォンを切って振り返ったビッテンフェルトを、ミュラーもミーネも心配そうな顔で見つめていた。
「ミュラー、ミーネ、ハンブルクに何か心辺りがないか?」
 ミュラーもミーネも首を振る。
「ハンブルグとは随分遠いですね。ここから車で3時間かかりますよ。アマンダさんはなんでまた?・・・エリスに訊いてみましょう。何か知っているかも」
 ミュラーがエリスに連絡している最中、ビッテンフェルトはハンブルクという場所とアマンダとの関連を考えていた。
「残念ですが、エリスもなぜアマンダさんがハンブルク迄行ったのか、見当が付かないそうです」
 すまなそうにミュラーが伝えた。
「そうか・・・」
 ビッテンフェルトはソファに深く座ると考え込んだ。
「しかし、どうしてそんな遠くまで行ったんだ?・・・あいつ、普通の体じゃないのに長時間車に乗ったりして・・・」
 ビッテンフェルトの独り言のような低い声の呟きが、ミュラーの耳に入ってしまった。
「普通の体じゃない?」
 思わずビッテンフェルトに問いかけるミュラーに、彼は(あっ、しまった~)という表情になった。
「提督、私には内緒ですか?エリスは、ビッテンフェルト家の娘同様と言ったのはビッテンフェルト提督自身ですよ。そのエリスを妻にした私も、ビッテンフェルト家の一員と思っていたのですがね・・・」
 ミュラーは、わざと恨めしそうな顔をしてみせる。
「お前達にまで心配させたくなかったんだ。だが、アマンダがこの辺にいないとなれば、そう言ってもいられまい・・・」
 ビッテンフェルトはソファに座り直して、煙草に火を付け、ひと息入れる。そして、溜息のように煙を吐き出し、ミュラーに質問した。
「ミュラー、例えばエリスに赤ん坊が出来たとする。だが、産もうとするとエリスの命が危ない。そうなった場合、お前ならどうする?」
「・・・・・・もちろん、子供は諦めます。子供は神様の贈り物で、恵まれないのは運がないと思うことができます。でも、エリスのいない人生は考えられません」
 まだ子供に恵まれていないミュラーだが、きっぱりと告げる。
「そうさ・・・。誰だって、自分の妻を犠牲にしてまで子供を欲しいなんて思わないさ」
「・・・提督、アマンダさんが出ていった原因はそれですか?」
「・・・二人目が出来たんだ。だが、病気も見つかった。病気が見つかったこと事態、運がよかったんだ。なのに、あいつは・・・」
「アマンダさんを説得しなくちゃ・・・。きちんと話し合ったんですか?提督は強引過ぎるから・・・」
 ミュラーの非難に、ビッテンフェルトが答える。
「時間が無いんだ!アマンダはずっと前から医者に言われていたのに、俺に知らせずにいたんだ・・・」
「あぁ・・・提督、遠征で宇宙に行っていましたからね」
「それに、話し合うにしても、あいつ産むことしか頭になくて・・・。だから、俺が無理にでも病院に連れて行こうと思ったら、出ていってしまった・・・」
 二人ともその後、言葉が出てこなかった。少しばかりの沈黙の後、ミュラーがポツリと呟いた。
「アマンダさん、いつもは冷静なんですがね・・・」
「俺が考えを変えないのなら、別れてまでも産むつもりらしい。・・・離婚届にサインして、置いていった」
「えっ!そ、そんな・・・」
「俺たちには、ルイーゼがいる。それだけで、充分幸せだと言ったんだが・・・」
「・・・」
「あいつが判らなくなった・・・。俺やルイーゼの事を考えずに、自分の命を引き替えしてまで赤ん坊を欲しがる気持ちが、俺には理解できない・・・」
「その~、女性には男性の思い付かないような考えをしますし、ましてや身ごもっている御婦人の感情なんて、我々には理解できませんよ・・・」
「はあぁぁ~」
 深い溜息を付くビッテンフェルトは、今までミュラーが見たことのないほど落ち込んだ姿だった。
「それにしても、アマンダさん、どこに行ったんでしょう?」
「なにを考えているのやら・・・。連絡がつかなければ、話し合いもできないじゃないか」
「ルイーゼは明後日、サマーキャンプから帰って来るのでしょう?」
「そうだ。それまでに、何とかしなければ・・・」
「あいつの事だから、俺よりお前の方に連絡を入れそうだなぁ~。エリスも居ることだし・・・。もし、連絡があったら、絶対、居場所を突き止めてくれ!」
「判りました。何かあったら、すぐこちらにご連絡致します」


 しかし、ビッテンフェルトの焦りと周りの心配をよそに、アマンダは誰にも連絡を入れず、行き先も判らなかった。


<続く>