息吹 2

 大きな喜びの後で訪れた思いがけない医者の言葉に、さすがのビッテンフェルトもショックは隠せなかった。アマンダの命に関わる病状を知ったビッテンフェルトは、かなり動揺し(このままの状態では、家には帰れない。一度、気持ちを落ち着かせよう・・・)と自分の元帥府に立ち寄り、薄暗い執務室で一人ずっと考えた。

俺は、ルイーゼが大きくなるに連れて、ずっと次の子を待っていた
アマンダもそれを知っている
だが、アマンダやルイーゼと暮らす生活が第一で
それを失う危険があるのなら、もう子供は望まない
アマンダを失うなんて、俺は耐えられない
考えることすら恐ろしい・・・

 ビッテンフェルトはアマンダが説得に応じないようなら、無理にでも病院に連れていこうと決意していた。



「ファーター、お帰り~♪ルイ、ずっと待ってたんだよ~」
「ああ、ちょっとな・・・」
 二ヶ月ぶりに父親に逢った娘が、ビッテンフェルトの胸に飛び込んで来た。
「ファーター、聞いた?ルイ、お姉ちゃんになるんだよ~♪」
 目を輝かせて話す娘に、ビッテンフェルトは笑顔を見せるが、心の中は複雑だった。
(ルイーゼもアマンダの妊娠を知っていたのか・・・)
「ルイ、赤ちゃんは女の子がいいな~。だって、ずっと妹が欲しかったんだもん♪ファーターは、どっちがいいの?」
「あっ、ああ、どっちでも・・・」
(ルイーゼにも悲しい思いをさせてしまうな・・・)
 ビッテンフェルトは待ち望んでいた自分の弟妹に思いを寄せて、嬉しそうなルイーゼを見ているのが辛くなった。


 父親との久しぶりの夕食に、ルイーゼはご機嫌で話の種はつきないらしい。食べるのもそこそこでおしゃべりが続き、アマンダを苦笑いさせていた。
 夕食後の団らんでも父親と一緒にソファーに座り、半分ウトウトしながらもそれでもぴったりとくっついてそばから離れないルイーゼを、ビッテンフェルトは愛おしげに見つめた。
(お腹の子も、あと八年経てばこんなふうになるんだ・・・)
 ビッテンフェルトはふうっと考えた。だが、すぐ我に返り、そう考えてしまった自分を責めた。

バカ!
俺がこんなこと思ったら、
アマンダが可哀想じゃないか
ず、俺自身が
きちんと気持ちを切り替えないと駄目じゃないか・・・



 夜になり、ルイーゼもミーネも自室で休み、リビングにはビッテンフェルトとアマンダの二人だけになった。
「アマンダ、座ってくれ!少し話がしたい」
 酒のつまみの準備をしていたアマンダは手を止め、ビッテンフェルトの前に座った。
「今日、ライナー先生に呼ばれた。そして、お前の今の状態を詳しく聞いてきた」
「・・・」
 黙ったままのアマンダに、ついビッテンフェルトは声が大きくなった
「なぜ、俺に言わないんだ!大事な事じゃないか!」
 アマンダの頼み込むような目に見つめられて、次の言葉が重くなる。
「・・・その・・・残念だが、赤ん坊は諦めよう。そして、一日も早く、治療に専念しよう・・・」
 唇をかみしめたアマンダを見つめながら、ビッテンフェルトは諭すように告げる。
「俺たちにはルイーゼがいる。それで充分じゃないか。今は、お前の体の方が大事だ!」
「・・・」
「明日、病院に行って入院の手続きをしよう。アマンダ、それでいいな!」
「・・・いやです!」
「えっ??」
 結婚して以来、アマンダがビッテンフェルトに、面と向かって逆らったのは初めてであった。
「お願いです。産ませて下さい。・・・この子は生まれたがっています」
 今までアマンダは、無理を言ってビッテンフェルトを困らせるようなことはなかった。それだけに、望みがあるなら叶えさせてやりたいが、こればかりは譲れない。
「気持ちはわかるが、ルイーゼの事も考えてくれ!もし、手遅れになったらどうするんだ」
「・・・」
「俺やルイーゼの為にも、頼む」
「フリッツ、お腹の子は順調に育っているんです・・・」
「最悪の場合、お前の方が臨月まで持たないかもしれないんだぞ。少しは自分の体の状態を考えるんだ!」
「臨月までお腹に入れておけなくても・・・。早産で生まれ未熟児であっても、赤ちゃんは保育器で育ちます。後四ヶ月いえ三ヶ月、待ってください。・・・やっと出来たルイーゼの弟か妹です」
 頼み込むアマンダに、ビッテンフェルトは毅然と言い放つ。
「いや、だめだ!赤ん坊は諦めろ!」
 二人の間に、切ない沈黙が訪れる。


「・・・フリッツ、もし目の前でルイーゼが、命の危険に晒されたらどうします」
「・・・?」
 突然の問いかけにビッテンフェルトは、アマンダが何を言いたいのか計りかねていた。
「きっと自分の命の事なんて考えることなく、夢中になって助けだそうとするでしょう」
(そんなふうに思うなんて・・・)
「・・・ルイーゼとお腹の赤ん坊とは、比べようがないじゃないか」
「・・・同じです・・・同じように生きています。ただ、生まれているかいないかの違いだけです。・・・ルイーゼ同様、お腹の子もあなたの子供です」
「・・・わからん!どうしてそんなふうに考えるんだ。ルイーゼとは八年間一緒に暮らした。だがお前のお腹にいる子は、まだ家族の一員にもなっていない」 
 残酷な言い方だと思うが、今のビッテンフェルトはアマンダを説得させるのに必死だった。
「・・・あなたは生後半年のルイーゼを初めて見たとき、『産んでくれてありがとう』と仰ってくださいました」
 初めて我が子ルイーゼの存在を知ったとき、ビッテンフェルトはアマンダに確かにそう言った。
「あのときと現在<いま>とは状況が違うだろう!俺はお前を病気なんかで失いたくない。今、手術すれば助かるものを・・・」
「私は、お腹の子を失いたくありません」
 ビッテンフェルトが一瞬、言葉に詰まる。
 先ほど旗艦<王虎>で「赤ん坊が愛しくて可愛いくて堪らなくなる・・・」と言ったアマンダの幸せ一杯の笑顔が、脳裏に浮かんだ。しかし、それを振り切るように目の前のアマンダに語りかける。
「なぁ、アマンダ、確かに今は、感情が先に立ってつらいかもしれないが、冷静に考えれば判るだろう。お前らしく無いぞ・・・。お腹の子がお前に病気を教えてくれたんだ。そう思うようにして、手術を受けよう・・・」
「治療を始めるのは、産んだあとからです」
 首を振ってはっきり断言するアマンダに、ビッテンフェルトも怒り出した。
「アマンダ!いい加減にしろ!」
「・・・」
「いいか、明日、無理にでも・・・」
「フリッツ!」
 アマンダがビッテンフェルトの声を制した。顔を微かに振って、目で何かを訴える。その仕草で、ビッテンフェルトは自分の後ろにいる人の気配に、初めて気が付いた。
 振り返るとドアの向こうに、顔をこわばらせたルイーゼが立っていた。薄茶色の瞳が、リビングの二人を悲しそうに見つめている。初めて見る両親の諍いに、ルイーゼはショックを受けているようだった。
「・・・ファーターとムッター、喧嘩しているの?」
「違うぞ!」
「違うわ!」
 ビッテンフェルトとアマンダは、声を揃えて否定した。
「でもファーター、大声で怒ってた・・・」
 涙声のルイーゼに、ビッテンフェルトはつい声を荒げた事を後悔した。
「怒ってなんかいないぞ~。ムッターと話合いをしていただけだ。ただ、声が大きすぎたな。起こしてごめんよ」
「ルイーゼ、もう遅いから寝なさい」
「ムッター、一緒にお部屋に来て頂戴・・・」
 両親の間にある異様な雰囲気を察したのか、ルイーゼが甘えた。
「フリッツ、この話は明日ということで・・・」
「あっ、ああ、そうだな・・・」
 アマンダと手を繋いだルイーゼが、ビッテンフェルトに注意する。
「ファーター、あんまり大きな声出さないでね。ムッターのお腹の中の赤ちゃん、びっくりしちゃうから・・・」
「あぁ、今度から、気をつけるよ」
「ファーター、お休み~」
 アマンダとルイーゼは、連れだって寝室に消えた。一人になったビッテンフェルトは、グラスに酒を注ぎ一気に飲ん込んだ。
「どう言って説得すればいいんだ・・・」
 深い溜息が、リビングに響いた。



 翌日、二ヶ月ぶりにビッテンフェルトは、我が家で朝を迎えた。いつものように家族と朝食を食べ、普段と変わらぬ朝の風景を迎える。
 スクールバスに乗ったルイーゼを見送り家の中に入ったアマンダに、ビッテンフェルトが怖い顔で命令した。
「今日、お前を病院に連れて行く。入院の支度をして置くように!」
 ビッテンフェルトからは、「力づくでも・・・」という迫力があった。こうなったビッテンフェルトは、誰にも止められない。アマンダは、仕方がないといった表情になった。
「あの~、フリッツ、出来れば明日にしてもらえませんか?明日からルイーゼは、サマーキャンプで三日間留守にします。ずっと楽しみにしていたキャンプですし、心配させたまま行かせたくはありません。せめて、朝の出発を見送ってから・・・。それに、あなたも今日はお忙しいのでしょう?」
(キャンプ?そういえば、ルイーゼがそんな事を言ってはしゃいでいたな・・・) 
 ビッテンフェルトは、昨日の会話を思い出した。
「そうか・・・そうだな」
 ビッテンフェルトも、出来ればルイーゼに心配をかけさせたくないという気持ちは一緒だ。それに、今日は帰還報告などで、忙しいのも確かだ。
(諦めてその気になったのであれば、一日ぐらいは仕方ないか・・・)
「よし、では明日ということにしよう。だがそれ以上は、何があっても延ばさないからな!」
「・・・判りました」
 無表情のまま、アマンダが答えた。そんな顔のアマンダを見つめたビッテンフェルトも、やり切れなくなった。
 その日のビッテンフェルトの帰宅は、皆が寝静まった深夜となった。



 前の日のルイーゼが願いを込めて作ったテルテル坊主が利いたのか、キャンプ当日の朝はよく晴れていた。キャンプの荷物を抱えて嬉しそうなルイーゼを、アマンダは集合場所まで車で送ろうとしている。
「俺がルイーゼを送って行こうか?」
 アマンダの体調を気遣ったビッテンフェルトに、「このくらいは大丈夫ですよ。あなたは昨夜遅かったのですし、お疲れでしょう?ゆっくり朝食を召し上がっていてください」と伝えて、アマンダは車を走らせた。
 ビッテンフェルトは、いつもの表情に戻っていたアマンダに(辛い選択だったかもしれんが、納得してくれたか・・・)とほっとした。ビッテンフェルトだって、嫌がるアマンダを無理矢理、病院に連れて行くのは気が重かったのだ。
(仕方のないことはいえ、アマンダは今苦しんでいるに違いない。赤ん坊を諦めるのはつらかろう・・・)
 ビッテンフェルトは、今日から入院する予定のアマンダに出来るだけついてやろうと考えていた。


 アマンダがルイーゼを送ってから一時間。すぐ戻ってくると思っていたアマンダが、なかなか帰って来ない。キャンプの集合場所までの往復は、車が込んでいても三十分もみれば余裕なはずだ。
「おかしいな~。何かあったかな?」
 ビッテンフェルトが心配していた頃、ミーネが書類袋を持ってきた。
「今、奥様から連絡があって、これを提督に渡して欲しいと頼まれました」
「アマンダから?・・・あいつ、何か言っていたか?」
「あの~、私に『心配しないで・・・』と言っておられましたが・・・」
「ん?どういう事だ・・・」
 ビッテンフェルトは、ミーネから手渡された書類袋を急いで開けてみて驚いた。それには、離婚に関する書類が入っており、しかも、アマンダは承諾済みのサインまでしてある。
「はぁ~?!」
 開いた口が塞がらないとは、まさにこういう事だろう。
「何だ~これは?あいつは、一体何を考えているんだ!!!」
 突然の事で書類の持つ手が震え、ビッテンフェルトはパニック状態になっていた。


<続く>