啐啄 11

 フェリックスが司令官代理を務めた黒色槍騎兵艦隊の遠征は、無事終了した。彼にとって艦隊を指揮するという経験は初めての事であり、(自分のような若造の指揮を、癖のある黒色槍騎兵艦隊の兵士達は従うだろうか・・・)という不安があった。しかし、その杞憂は遠征に出立してすぐ消えた。
 元帥府ではフェリックスを厳しく指導していた幕僚達も、艦橋では司令官として彼を立てていたし、兵士達も<敬愛する司令官ビッテンフェルトが、自ら指名した司令官代理!>という事で無条件でフェリックスに従った。黒色槍騎兵艦隊におけるビッテンフェルトのカリスマ性に、フェリックスは改めて驚いていた。
 又、フェリックスにとって黒色槍騎兵艦隊と過ごした二ヶ月間は、刺激的で楽しいものがあった。幕僚達や兵士達との交流の中で、士官学校であまり味わえなかった仲間意識のような感情が、いつの間にか彼の中に芽生え始めていた。そして遠征が終わる頃には、フェリックスは苦手意識を持っていたビッテンフェルトに対する見方が、少しずつ変わってきたことに気が付いた。

  

 毎年、黒色槍騎兵艦隊が遠征から帰還した当日は、幕僚達も兵士達もそのまま帰宅し、家族との再会を果たしたり長い遠征の疲れを癒やしたりする。諸々の帰還報告は翌日になるのが恒例で、ビッテンフェルトも帰還した次の日にあわせてフェザーンに赴く予定であった。
 だがその帰還した日に、フェリックスはハルツの別荘までビッテンフェルトを訪ねてきた。明日元帥府で会う筈なのに、わざわざここまでやってきたフェリックスを見て、ビッテンフェルトは彼がここに来たもう一つの理由を察していた。
 今回、黒色槍騎兵艦隊の司令官代理を務めたフェリックスが、自分を指名したビッテンフェルトに遠征の無事終了を報告するのは、自然な行為で誰も不審には思わないだろう。フェリックスはそれに便乗してヨゼフィーネの様子を、アレクの代わりに自分の目で確かめたいという別の目的もあったのである。
 アレクはヨゼフィーネの状態をかなり気にしているが、ミュラーの進言もあり今は何も手出しが出来ない状態である。彼がヨゼフィーネの様子を知る手段は、アルフォンスやミュラーからの報告か、マリーカがエリスから教えてもらう近況を聞く以外はなかった。それもヨゼフィーネの件は極秘扱いなので、その秘密を守るため、皆慎重になって最小限のことしか伝えて来ない。アレクは(ヨゼフィーネの事で都合の悪い話は、私に気を遣って話していないのでは?)と気を揉んでいたのである。フェリックスはそんなアレクの心の負担を、少しでも取り除きたいと考えていた。
 ビッテンフェルトだけでなく、エリスもそしてヨゼフィーネ本人も、ここまで来たフェリックスの真意には気が付いていた。この頃のヨゼフィーネは、気持ちに余裕が出てきたのか、アレクに対する拒絶感を露わに出さなくなっていた。従ってフェリックスに対しても、避ける事もなく普通に接していた。
 ヨゼフィーネは、フェリックスが遠征に行く前に逢ったときよりも全体的にふっくらとして、お腹の膨らみも判るようになっていた。顔色も良く、何よりあの思い詰めた表情が消え、にこやかに話しているヨゼフィーネに、フェリックスは体調もさることながら精神的にも安定していると感じた。
 ヨゼフィーネの様子に安心したフェリックスは、別荘でビッテンフェルトと小一時間ほど話し込んだ。艦隊を指揮するという機会を与えてくれた事に感謝の意を示すフェリックスに、最初はこの辞令にふて腐れていた彼の一回り成長した姿を感じて、ビッテンフェルトは満足そうであった。そのフェリックスの帰り際、ヨゼフィーネが『自分が見送りしたい』と申し出た。エリスは(フィーネがフェリックスに何か話したいことがあるのかも・・・)と感じ取り、見送りをヨゼフィーネに任せた。
 別荘の玄関先で、ヨゼフィーネはフェリックスと少し話をする。
「ロイエンタール大佐は、父上を見る目が少し変わった感じがする」
「フェリックスでいいよ・・・。遠征でいろいろな経験をしたからね・・・。君も落ち着いたようだね。表情が優しくなった」
「あら、・・・私、そんなに怖かった?」
「怖いというより思い詰めた感じで・・・厳しい顔つきだった」
「そうだったかも・・・」
 ヨゼフィーネが以前の自分を振り返る。
「俺に話があるんだろう?」
 フェリックスがヨゼフィーネに問いかけた。
「ええ、・・・あの~、ロイエンタール大佐・・・いえフェリックスは、実のお母上からミッターマイヤー家に養子に出されたと聞きましたが・・・」
「あぁ、血の繋がった父親が死ぬ間際に『ミッターマイヤー夫妻に子どもを渡すように!』と言い残したらしい・・・」
「もし、ミッターマイヤー夫妻にお子さまがいたとしたら、実のお母上はあなたを渡したかしら?・・・ご両親のミッターマイヤー夫妻には、そのとき子どもがいらっしゃらなかったのでしょう?」
「さぁ~?産みの母親の事は、名前以外何一つ知らないんだ。だから、そのときの彼女の気持ちなんで判らないよ・・・」
 少し吐き捨てるように言ったフェリックスに、ヨゼフィーネは彼の<産みの母親を知らない事への苛立ち>を感じてしまった。(これは彼にとって触れてはいけない部分だったのでは?)と考えたヨゼフィーネは、次の言葉に詰まり黙り込んでしまった。そんなヨゼフィーネに、フェリックスが問いかける。
「話って俺の昔のことかい?違うだろう。・・・話してごらん」
 話すことを躊躇っているヨゼフィーネを、フェリックスが誘導する。
「あの・・・私、この子をビッテンフェルト家の子どもとして育てたい・・・」
「それが、君の希望かい?」
「ええ、だってこの先、皇妃さまに御子ができる事もあるだろうし・・・」
 先ほどヨゼフィーネが、自分の養子の経緯を聞いてきたのはこの話をするための前置きだったのかと、フェリックスは気が付いた。彼はほんの少し考えた後、ヨゼフィーネに伝えた。
「ヨゼフィーネ・・・実は皇妃は、もう子どもを望めない!」
「えっ?」
「以前の流産が原因なんだ。だが、このことを知っているのは、診断した侍医の他には両陛下と皇太后、そして俺だけだ。アルフォンスやルイーゼには知らせていないし、勿論ビッテンフェルト元帥も知らない事だ」
「・・・な、なぜ、そんな大事な秘密を私に打ち明けるの?」
「君は、皇妃の敵にはならないだろう。そして、この事実を知る必要があると、俺が今思った。それだけだ・・・」
「・・・」
 フェリックスの衝撃的な告白に、ヨゼフィーネは言葉を失った。フェリックスはヨゼフィーネがアレクを強く拒絶していることを知っているだけに、アレクを巡ってマリアンヌと対立するとも思えなかった。マリアンヌの性格と、これまでの皇妃とビッテンフェルト家との関わりを考えても敵対とは無縁だろうし、この秘密が公になることはないといった確信がフェリックスにはあった。だから、皇妃の重要な秘密を、あえてヨゼフィーネに伝えた。
 この秘密を話すことで、ヨゼフィーネはショックを感じるだろうし、今の気持ちにも何らかの変化が生じることは予想出来る。しかしフェリックスは、ヨゼフィーネの動揺を招いても、彼女はこの事実を知る必要があると直感で感じたのである。
 暫くして、フェリックスはその場を去り、ヨゼフィーネは別荘の中に入った。ビッテンフェルトやエリスの前では、動揺を抑えて過ごしていたヨゼフィーネだったが、先ほどのフェリックスの言葉がいつまでも耳から離れなかった。



 フェリックスがハルツを訪れた日からあっという間に月日が流れ、ヨゼフィーネはいよいよ出産の日を迎えた。
 産室となった別荘の寝室で、ヨゼフィーネは大きな波のように襲ってくる痛みと戦っていた。ルイーゼとエリスが主治医のライナーを手伝いながら、陣痛に苦しむヨゼフィーネを励ます。
 リビングではビッテンフェルトとアルフォンスが、心配そうに赤ん坊の誕生を待っていた。最初はドッシリと構えていたビッテンフェルトだったが、やがて熊のようにウロウロと部屋の中を歩き出し、そのうち外で煙草を吸ったり家の中に入ったりとバタバタし始めた。すっかり落ち着きが無くなってしまったビッテンフェルトに、アルフォンスが苦笑いする。午前零時を過ぎて日付が変わった頃、赤ん坊の産声が響いた。
「男の子よ!」
 ルイーゼがリビングにいるビッテンフェルトとアルフォンスに知らせた。男二人は、お互い抱き合って喜んでいた。数分後、赤ん坊を取り上げたライナー医師が姿を現し、ビッテンフェルトに経過を告げる。
「順調なお産で、赤ん坊もヨゼフィーネも元気です。理想的なお産でしたよ」
 ライナーの言葉に、ビッテンフェルトも嬉しそうに握手を交わす。
 ルイーゼが父親と夫に赤ん坊を見せるため連れてきた。赤ん坊は新生児の割には整った顔立ちで、産湯に使った後で気持ちがよかったのか眠っていた。その赤ん坊の顔を見て安心したアルフォンスが、アレクに皇子誕生の報告をするため王宮に向かう。
 実は赤ん坊が産まれた事を陛下へ報告するのは、フェリックスの役目だった。だがこの日、彼の到着は遅れてしまった。アルフォンスは報告を待っているアレクの為、一刻も早く皇子の誕生を知らせたいと思い、急遽フェリックスの代わりを引き受けたのである。


「おめでとう、フィーネ。よく頑張ったな!」
 ビッテンフェルトが出産を終えた娘を労った。ヨゼフィーネは父親の言葉に微かに笑みを浮かべた。そして、赤ん坊を抱いているルイーゼを呼び寄せた。
「姉さん、私、この子を皇妃さまに託します。・・・今すぐ、皇妃さまの元に連れていって頂戴!」
「えっ!」
 赤ん坊を抱いているルイーゼも、そばにいたビッテンフェルトもエリスも、ヨゼフィーネのこの意外な言葉に驚いた。
「・・・フィーネ、よく考えて!これは大事な事よ!一時的な感情で決めたらダメ!」
 ルイーゼは慌ててヨゼフィーネを説得する。
「いいえ、一時的な感情なんかじゃないわ!ずっと考えていたの」
「フィーネ・・・産んだ子を育てるのは母親の義務でもあるけど、権利でもあるの!だからあなたは、誰にも遠慮しないで自分の手元でこの子を育てても構わないのよ・・・」
「お願い、姉さん・・・」
 姉の言葉に、ヨゼフィーネは首を振って頼ん込んだ。
「フィーネ、あなたは昔から、自分の事より周りを見てしまう・・・。父上や私の立場より、まず自分の気持ちに正直になって・・・」
「姉さん、私、誰にも遠慮していない。本当よ!この子の為に考えて、私が出した結論なの。私の気持ちなのよ!」
「でも・・・」
 ルイーゼがビッテンフェルトを見つめ、父親の指示を仰ぐ。ビッテンフェルトもエリスも、ヨゼフィーネの意外な決断に驚いていた。
 二人とも(今はまだ無理でも、いつかはヨゼフィーネは陛下を許す事ができるだろう・・・)と考えていた。(そのときこそ、ヨゼフィーネは産まれた子と一緒に陛下の元に向かうだろう・・・)とも予想していたのだ。ヨゼフィーネがその気持ちになるまで、ビッテンフェルトは娘を守るつもりでいた。
 今はヨゼフィーネの気持ちを第一に考えているアレクとて、子どもの将来を考えたとき、いずれ二人を呼び寄せる事になるだろう。皇帝の子を産んだからには、ヨゼフィーネの将来は決まったようなものである。ビッテンフェルトは、ヨゼフィーネがその決まった道を歩くまでもっと時間が欲しいと考えていたし、娘の気持ちが固まるまで何年でも手元に置くつもりでもいた。
 だが今、ヨゼフィーネは父親のアレクにではなく、皇妃のマリアンヌに赤ん坊を託すと言っている。ビッテンフェルトは、自分の産んだ赤ん坊を手放すヨゼフィーネの決意を感じていた。
「フィーネ、皇妃に託すというのであれば、お前は二度とこの赤ん坊の母親とは名乗れないぞ。この子はもう、ビッテンフェルト家と関わりのない子となる。それでもいいのか?」
「ええ、もう決めたことです・・・」
 ヨゼフィーネが、ビッテンフェルトの目を真っ直ぐ見つめて答えた。
「ダメ!父上!!フィーネから子どもを取り上げるのはやめてください!エリス姉さん、父上を止めて!」
 ルイーゼが叫んだ。
「姉さん、これが私の希望なの!陛下は<私の希望に添うように!>とご命令したのでしょう。父上だって、私の望み通りにしてくれるって言ったわ!」
「でも・・・」
 泣きそうなルイーゼの隣で、エリスがヨゼフィーネに問いかける。
「フィーネ、坊やを一度も抱かずに手放すの?」
 その言葉にハッとなったルイーゼが、ヨゼフィーネに頼み込む。
「フィーネ、坊やを抱きなさい!それで、もし決意が揺らぐようなら、坊やを手放すことは考え直して・・・」 
 ルイーゼはヨゼフィーネに赤ん坊を手渡した。ヨゼフィーネは自分が産み落とした赤ん坊を初めて抱き、その小さな顔を暫く見つめていた。そして、真剣な目でルイーゼに告げた。
「姉さん、この子を早く王宮へ・・・」
 ルイーゼは潤ませた目で赤ん坊を受け取った。
「ルイーゼ、俺にも坊やを抱かせて欲しい・・・」
 今度はビッテンフェルトがルイーゼに頼んだ。ルイーゼはそんなビッテンフェルトの様子から、(父上はフィーネの言葉を受け入れて、坊やを手放す決断をした・・・)と悟った。赤ん坊は、ビッテンフェルトの手に渡った。
 三人目の孫になる赤ん坊を抱いたビッテンフェルトは、ヨゼフィーネの妊娠から始まったこの赤ん坊への想いを思い出していた。(おそらく祖父としてこの子を抱くのは、最初で最後になるだろう・・・)覚悟を決めたビッテンフェルトは、腕の中の温もりとその姿を心に焼き付けていた。
 ビッテンフェルトから赤ん坊を受け取ったルイーゼが、部屋からゆっくり出ていく。このときのルイーゼは、一歩一歩踏み出すのがやっとで、自分の足がまるで鉛のように重く感じていた。
 別荘のリビングに、いつの間にかフェリックスが来ていた。アルフォンスと入れ違いになって別荘にきたフェリックスに、ビッテンフェルトが頼んだ。
「フェリックス、ルイーゼと一緒にこの子を、陛下と皇妃の元に連れて行ってくれ!・・・頼む!」
「えっ、・・・よろしいのですか?」
 顔色を変えて問いかけるフェリックスに、ビッテンフェルトは真剣な目で伝える。
「皇妃が受け取った瞬間に、この子は皇帝の・・・いや、皇妃の子となる!」
「・・・判りました!」
 緊張の面持ちで、フェリックスがビッテンフェルトの言葉を受け取った。
 赤ん坊を抱えたルイーゼとフェリックスは、そのまま夜更けの別荘を発った。見送ったビッテンフェルトは、三人の乗った車が見えなくなっても、そこにずっと佇んでいた。



 フェリックスはこの赤ん坊とルイーゼを人目に付かぬように、陛下の元に連れて行くにはどうすればよいか考えていた。そして彼は、秘密の抜け道を使って王宮に入ることを思いついた。小さい頃からアレクと王宮を遊び場にして育ったフェリックスである。大人の知らない抜け道をいろいろ知っていた。
 赤ん坊を胸に抱いたフェリックスがルイーゼの手を引きながら、暗くて狭い坑道のような道を慎重に進む。高さがないので二人とも中腰で歩いている。時折何かをくぐりなから、下に降りたり上に登ったりと、ルイーゼにとってはフェリックスの手助けがなければとても通れそうもない道であった。
「王宮に入るのに、こんな抜け道があったなんて・・・」
 髪の毛にかかった蜘蛛の巣を取り払いながら、ルイーゼが驚いたように呟いた。
「まだまだ、あるぞ!ここより難しくスリル満点の抜け道が!」
 得意気に語ったフェリックスに、ルイーゼが呆れていた。


 フェリックスとルイーゼが王宮に辿り着く少し前、皇帝の居間では「無事出産、母子ともに健康!」というアルフォンスの報告を受けたアレクが、マリアンヌと共に胸を撫で下ろしていた。どのような形であれ、皇子が誕生したことには変わりはない。父親となったアレクの為に、三人で祝杯をかわしていたとき、突然ルイーゼとフェリックスが部屋に現れた。三人とも驚き、アルフォンスが慌てて妻の元に駆け寄った。
「ルイーゼ、どうしたんだ?」
「この子を連れてきました」
 ルイーゼが抱えている産まれたばかりの嬰児を、夫に見せた。すぐ、アルフォンスの後ろから、アレクの声がした。
「ルイーゼ!ヨゼフィーネから無理矢理赤ん坊を引き離したのではあるまいな?」
 心配するアレクの言葉に、ルイーゼは無言で首をゆっくり振って否定した。そして赤ん坊を抱いたままのルイーゼは、アレクの横を通り過ぎ奥にいたマリアンヌの元に近寄った。
「愛する夫が他の女性に生ませた子供を受け入れるというのは、妻としてはとても難しいこと。もし、皇妃さまがこの子を愛する自信がないというのであれば、私はこのままこの子を連れて帰ります!」
 真剣な眼差しで見つめるルイーゼを、マリアンヌもじっと見つめる。
「・・・ルイーゼ、よいのですか?今ならまだ間に合いますよ。・・・もし、この子を手にしてしまったら・・・私はもう手放せなくなります」
「これは妹の・・・ヨゼフィーネ・ビッテンフェルトの意志です!」
 二人の女性の間には、赤ん坊の父親で皇帝のアレクでさえ入っていけない張りつめた空間があった。
 ルイーゼが腕の中の赤子を愛おしそうに見つめ、その柔らかい感触を確かめる。そして、再びマリアンヌを見つめる。緊迫した空気が静かに動く。
「・・・皇妃さま、この子の全てを受け入れてあげてください・・・」
 ルイーゼは手の中に納めている小さな命を差し出した。ためらいがちにそれを受け取ったマリアンヌが、その無垢な寝顔を見つめてポツリと呟いた。
「ルイーゼ、陛下には堅く口止めされていましたけれど、・・・私はもう子供を望めない体なのです。それ故、私は・・・、私は喉から手が出るほど陛下の御子が欲しかった・・・。この子が欲しかった・・・」
 手の中の小さな命を見つめるマリアンヌの目から涙が零れ、赤子の産着を濡らす。
「・・・感謝します。私は、この子を産んだヨゼフィーネの想いを決して無駄にはしません。私の命にかけても、この子をお育て致します」
 マリアンヌは腕の中の小さな赤ん坊を見つめた。そして、優しい笑顔で何やら語りかける。ルイーゼはその姿を見つめながら(あの坊やはもう皇妃さまの子となった・・・)と自分に言い聞かせていた。
 事の成り行きを見守っていたアレクが、フェリックスとアルフォンスに命令する。
「フェリックス!アルフォンス!近日中に皇子誕生の発表をする。それまでに、この赤ん坊を受け入れる体制を、全て整えるんだ!誰にも文句を言わせないように完璧にな!」
「御意!」
 二人はすぐ行動に移していた。


 (人が集まる前に・・・)と秘かに帰ろうとしたルイーゼに、アレクが声を掛けた。
「ルイーゼ、そなた達に辛い想いをさせてすまなかった。・・・ビッテンフェルト家の恩は忘れぬ・・・」
「いいえ陛下、忘れてください。この子はもう皇妃さまの御子、ローエングラム王朝の皇子です。ビッテンフェルト家とは何の関わりの無い子・・・。その方がお互いの為です」
「・・・そうか、ビッテンフェルト家がそう望むのなら、そうしよう。私の心の中に感謝の気持ちを残しておく」
「ルイーゼ、この子の名は?」
 マリアンヌがルイーゼに尋ねる。
「陛下に・・・。父親の陛下が付けてあげてください・・・」
「ルイーゼ、私でいいのか?」
 アレクの問いかけにルイーゼが頷いた。あの事件以来、ルイーゼもずっとアレクと逢っていなかった。ビッテンフェルト同様、妹のヨゼフィーネを傷つけたアレクを許せなかったのである。
 久しぶりにアレクと再会したルイーゼだが、あれほど憎かった気持ちが薄らいで冷静に見つめている自分がいた。アレクと目を合わせて幾度か頷いて見せた後、ルイーゼは背を向けて部屋を出ようとした。そのルイーゼに、アレクが告げた。
「私はヨゼフィーネへの償いは決して忘れぬ!」
 背中で受けとめたその言葉に、ルイーゼは一旦足を止めた。だが、振り返る事はしなかった。
(フィーネは、皇妃さまの事を知っていたんだ。だから、坊やを・・・自分が産んだ子を手放したのだ。皇妃さまの為に・・・)
 王宮を去るルイーゼの目からは涙が溢れ、いつまでも止まらなかった。


 自分の子となった皇子を愛おしげに抱くマリアンヌを、アレクは長い間ずっと見つめていた。そして、思いついたようにマリアンヌに訊いてみた。
「マリアンヌ、この子の名前だが、<レオンハルト>と言うのはどうであろう?」
「レオンハルト・・・<獅子の子>という意味ですね。とても良い名前だと思います」
「よし、決めた!この皇子の名はレオンハルトだ!レオンハルト・フォン・ローエングラム!私と・・・皇妃の子だ!」
 嬉しそうな顔で見つめ合う二人に、うっすらとした日の光が差し込んでいた。夜明けの朧気な光が、新しく誕生したこの親子を優しく包み込んでいる。その光景を見つめながらフェリックスは、生まれたばかりの我が子を皇妃に託したヨゼフィーネの事が気になっていた。



 その頃、ハルツの別荘は重い空気に包まれていた。新しい生命の誕生を迎え喜びに満ちた後だけに、一段とその重さが身に染みていた。
 ルイーゼが赤ん坊を連れ去ってからずっと身動きしないヨゼフィーネに、エリスが声をかけた。
「フィーネ、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。でも、何だか疲れちゃった。少し休みたいから一人にして・・・」
(出産という女性の大仕事をしたあとなのだから、体力的にも精神的にも疲れているのは確かだろう。でも・・・)と心配顔のエリスに、ヨゼフィーネは形だけの笑みを浮かべて告げた。
「本当に大丈夫よ!眠るだけだから・・・。もう、バカなことはしない。だから、エリス姉さんも取り越し苦労はしないで・・・」
「そうね・・・。もし何かあったらすぐ呼んでね・・・」
 エリスはそう言って静かに寝室を出た。


「こんな結果になるなんて・・・」
 リビングでエリスが涙ぐむ。ビッテンフェルトも難しい顔で考え込んだまま黙っていた。
 どのくらい時間<とき>が経ったのだろう。ヨゼフィーネの事が心配で我慢できなくなったビッテンフェルトが、そっと部屋を覗いて娘の様子を伺った。
 ベットに座っているヨゼフィーネは、凍てついた表情で一点を見つめたままだった。そして、その呆然とした目から流れ落ちる涙が、ビッテンフェルトの目に入った。遠い昔、初めて抱いた夜のアマンダを、ビッテンフェルトは思い出した。あのときのアマンダも、こうして感情を閉じこめて泣いていた。ビッテンフェルトは堪らなくなってヨゼフィーネの元に駆け寄り抱きしめた。
「フィーネ・・・。声を出して泣いてもいいんだぞ。我慢する必要はない・・・」
「・・・・父上。これで良かったと言って・・・坊やの為に・・・将来のために、こうするのが一番いいと仰ってください!でないと私は・・・」
 零れる涙を拭おうともせず、ヨゼフィーネはビッテンフェルトに訴えた。
「フィーネ、お前は、自分の結論に自信を持つんだ!」
 ビッテンフェルトはそう言って、涙で濡れた娘の頬に手を添えた。その途端、ヨゼフィーネは父の胸に飛び込んで号泣した。

アマンダ、すまない
この子に
こんな悲しい思いをさせてしまって・・・

 ビッテンフェルトはヴァルハラのアマンダに詫びていた。


<続く>