啐啄 4

 暗い気持ちを隠すようにして帰宅したヨゼフィーネに、甥のテオドールが泣きながら抱きついてきた。驚いたヨゼフィーネが周りを見渡すと、姉やヨーゼフ坊やの姿が見あたらない。不安になったヨゼフィーネは、急いで家政婦のミーネを探し、彼女に事情を訊いてみた。
「夕方からヨーゼフ坊やの熱がどんどん高くなって、ひきつけをおこしたのです。それで、慌ててルイーゼお嬢さまが病院に運んだのですが・・・」
 まだヨーゼフ坊やの診断の結果が判らないミーネは、心配そうな顔でヨゼフィーネに説明をした。二歳のテオドールは、母親のルイーゼの慌てる姿を見て不安になったようである。ヨゼフィーネは急いで着替えを済ませると、甥のテオドールを抱きしめた。
「大丈夫!ヨーゼフ坊やはすぐ良くなるから・・・」
 ヨゼフィーネが帰ってきて安心したテオドールは、泣き疲れもあったのかそのまま寝入ってしまった。
 その後ルイーゼから連絡が入り、ヨーゼフ坊やはそのまま入院ということになった。ミーネはすぐさま入院支度を整えると病院に向い、ヨゼフィーネはテオドールと留守番となった。
 ヨゼフィーネは、ルイーゼやミーネの気持ちがヨーゼフ坊やに集中して、今の動揺している自分の心に気づかれずに済んだ事にほっとしていた。結局、ヨーゼフ坊やの入院騒ぎのお陰で、誰もが今夜の王宮でのパーティの事に触れなかったのは、ヨゼフィーネにとっては不幸中の幸いだった。
 ビッテンフェルト家で預かることとなったテオドールが、ヨゼフィーネのベットで寝ている。母親のルイーゼと勘違いしているのか、自分の手をしっかり掴んで話さない甥の寝顔を見つめながら、ヨゼフィーネは考えていた。

父上やミュラーおじさん、
アルフォンス義兄さんやワーレンおじさまも、皆軍人・・・
陛下に忠誠を尽くす立場なのだ
今夜の事は、知られる訳にはいかない・・・
もし、父上がこのことを知ったとしたら、
例え相手が陛下だとしても、容赦なく責めるだろう
逆上した父上が、陛下に何をしてしまうか・・・
下手すると、今まで父上が築き上げた功績や元帥の地位、
全てを失うはめになりかねない

 ビッテンフェルトが我を忘れて感情的なったときの危ない行動を、ヨゼフィーネは恐れていた。その事を想像するだけで、ヨゼフィーネの身体は震え、目の前が真っ暗になってしまう。

陛下はあのとき、かなり酔っていた・・・
正気ではなかったのだ
だから、
私が記憶から消せば、それで済む事
忘れよう・・・
忘れなければ・・・
あれは、悪い夢だったのだ・・・

 ヨゼフィーネは自分の心に言い聞かせていた。



 それから、数週間が過ぎた。
 ヨゼフィーネは自分の受けたショックや心の動揺を周囲に気づかれないように、注意して日々を過ごしていた。もし姉のルイーゼがそばにいたら、ヨゼフィーネの落ち込んだ様子を不審に感じたかもしれない。だがこの頃、ルイーゼの方も大変であった。
 ヨーゼフ坊やがひきつけをおこして入院した際、チアノーゼが酷い様子に医師から詳しい検査するように薦められた。心臓病の疑いが持たれたのである。それ以来、検査のためルイーゼとヨーゼフ坊やは病院に通っていた。
 まだ、検査の途中で診断が付いていない段階なのだが、ルイーゼは(妊娠中に無理をして早産で生んでしまったことが原因では?)と思い込み、自分を責めていた。
 ルイーゼがヨーゼフ坊やの病院通いのため、ビッテンフェルト家ではテオドールを預かる事が多くなった。無邪気に遊ぶ甥の存在は、あの日以来落ち込んでいたヨゼフィーネの心を和ませてくれた。
 しかし、ヨゼフィーネ自身が忘れようと努力しても、無意識となる夢の中ではいつも魘されていた。何かの拍子にアレクの話題や映像に触れたとき、ヨゼフィーネは全身を緊張させ鳥肌が立つくらいの寒気を感じてしまう。
(忘れなくては!・・・忘れたい・・・)
 そう願いながらも、ヨゼフィーネのアレクへの嫌悪感は、自分ではどうしようも出来ないほど強くなっていた。
 こうしてヨゼフィーネが受けた心の傷は、日ごとに深くなってしまったのである。



 アレクとのあの恐ろしい出来事を心の底に隠したまま、ヨゼフィーネは普通に日常を送るように心がけていた。そんななか、久しぶりにミュラー家を訪ねたヨゼフィーネに、エリスが一枚の絵を見せた。
「この絵は?」
「今度の個展に出そうと思っているの。これは、未熟室から出ることを許可されたあなたと初めて対面したときのアマンダさんよ」
「私と母上・・・」
 まるで教会の母子像のようなエリスの絵に、ヨゼフィーネは釘付けとなった。ずっと見入っていたヨゼフィーネだったが、暫くするとその目から涙を溢れさせていた。それを見たエリスは、最初は母親を慕う気持ちから出た涙かと思っていた。しかし、ヨゼフィーネの切なげな様子と悲しみの色を抱えた目が、どうも気になって尋ねてみた。
「フィーネ、何か悩みがあるのね。私に話して頂戴・・・」
 母親のように慕うエリスの優しさに包まれ、ヨゼフィーネはその重い口をゆっくり開いた。
「・・・私には無理!・・・この子は、私から産まれるべき子ではないのに・・・・何故、この子を産むのが私なの?」
「えっ!フィーネ・・・それはどういう事?」
 ヨゼフィーネはボロボロと涙を溢れさせながら、エリスに告白した。
「エリス姉さん、どうしよう?私のお腹の中に、赤ちゃんがいる・・・」
「まさか、フィーネ・・・」
 耐えかねていた悩みを打ち明けたヨゼフィーネは、その場で泣きじゃくってしまった。その様子にエリスは青ざめた。そして動揺する心を抑え、エリスはヨゼフィーネに冷静に話しかける。
「フィーネ、病院で確かめたの?」
 首を振るヨゼフィーネに、エリスは諭すように話しかける。
「あのねフィーネ、女性の体は微妙なの。ちょっとした不安や思い込みで体調なんてすぐ狂ってしまうのよ。まず、きちんと病院で診てもらいましょう。フィーネの思い違いだってこともありえるのだから・・・」
 体は大人になっているとはいえ、まだ母親になるには幼すぎるヨゼフィーネである。単なる取り越し苦労だと、エリスは考えた。
 以前エリス自身も、赤ん坊が出来たと勘違いした想像妊娠を経験した事がある。それだけに、(きっと間違いよ・・・)そう思った。いや、このときは切実にそれを願った。
(それにしても相手はいったい誰?フィーネはまだ十五歳なのよ!)
 見えない相手に、エリスの怒りが沸々と沸き上がっていた。



 エリスの期待に反して、医師はヨゼフィーネの妊娠を確認した。四ヶ月目と入っているという診断に、エリスは絶句した。
「父上に知られたくない・・・」
 泣きじゃくるヨゼフィーネの訴えは、エリスにもよく判る。
 こんな事がビッテンフェルトに知れたら、とんでもない怒りが炸裂するだろう。しかし、黙っているわけにはいかない。
「ビッテンフェルト提督には私から話すから心配しないで・・・。ただ、お腹の子の父親の名前を教えてくれる?」
 ヨゼフィーネが、ゆっくりと首を振る。
「では、フィーネの知らない男性<ひと>?・・・乱暴されたの?」
 ヨゼフィーネがレイプされたとは思いたくないが、それ以外考えられない。
「・・・一度だけの悪い夢だと思いたかった・・・。忘れたかったの・・・」
(一度だけ、それなのに・・・)
 エリスは心の中で溜息を付いた。
(まずルイーゼに話して・・・。でも、どうしてこんなことに・・・)
 エリスの心は張り裂けそうになっていた。


 エリスから事情を打ち明けられたルイーゼのショックは計り知れなかった。呆然とした後、大きく泣き出してしまった。そして、フィーネの変化に気づいてやれなかった自分を責めていた。姉のルイーゼの嘆き悲しむ姿を見て、ヨゼフィーネも居たたまれず俯くばかりだった。
 ルイーゼも相手の様子を尋ねたが、ヨゼフィーネはその事になると身構えて貝のように口を閉じたままだった。その怯えた様子に、これ以上ヨゼフィーネから話を聞くのは無理だと判断したエリスは、彼女を自室で休ませた。
「相手の男性を、私は絶対許さない!」
 興奮して泣きながら訴えるルイーゼを見て、エリスも辛さが増した。
「悪い夢を見たと忘れたがっていたフィーネにとって、悲しい結果になってしまったわ・・・。辛かった思いを思い出させるような質問は、かえってフィーネを追いつめてしまうことにもなりかねない。暫くフィーネの前では、その件については触れないでおきましょう・・・」
「・・・しかし、父上には何と言って報告すればいいのでしょう・・・」
 ルイーゼの絶望的な顔に、エリスもどのように報告すればいいのか見当が付かなかった。



「フィーネが!?・・・まさか」
 帰宅したビッテンフェルトがエリスからヨゼフィーネの妊娠を知らされたとき、彼はそう言って絶句した。突然、こんな事を聞かされても簡単に信じられるものではなかった。だが、ルイーゼの泣き腫らした目やエリスの重苦しい表情からも、ビッテンフェルトは紛れもない事実としてこの事態を受けとめるしかなかった。
「フィーネを呼んで来てくれ・・・・・・。いや、俺が行こう。フィーネ本人から話が聞きたい・・・」
 うわずった声に、ビッテンフェルトの動揺が表れていた。感情の起伏が激しいビッテンフェルトを知っているエリスもルイーゼも、この状態でヨゼフィーネと二人っきりにさせることに心配になった。
「父上、フィーネは相手のことも思い出したくないくらい傷ついています。だから、お願い・・・追いつめないで!」
「・・・判っている」
 ルイーゼに念を押されたビッテンフェルトは、大きな深呼吸してからヨゼフィーネの部屋に入っていった。ヨゼフィーネは部屋の片隅で、膝を抱えて顔を伏せていた。
「フィーネ、少し話をしてもいいか?」
 ビッテンフェルトは出来るだけ穏やかに声をかける。ヨゼフィーネは顔を伏せたまま小さく頷いた。
「フィーネ、一つだけお前の気持ちを訊きたい。お前はその子を産みたいのか?」
 ヨゼフィーネからは反応がなかった。
「自分でどうしていいのか判らないのであれば、父親の俺が決める。それで、いいか?」
 ビッテンフェルトはそう言って少し間を置き、娘の様子を伺ったが動きはなかった。小さな溜息をついた後、ビッテンフェルトは更に言葉を続けた。
「お前はまだ若い。これからいくらでもやり直す事が出来る。だから、今回の事は全て忘れよう。・・・・・・赤ん坊は始末する。いいな!」
 ヨゼフィーネが、この言葉にやっと頭を上げて父親を見た。涙を堪えているお互いの目が合う。しかし、ヨゼフィーネの口からはなんの言葉も出ない。
 その後、ヨゼフィーネは再び俯き表情を隠してしまったので、ビッテンフェルトは娘が自分の言葉を受け入れたのかそれとも反対なのかよく判らなかった。そのとき、耐えきれなくなったヨゼフィーネが声を押し殺して泣き出した。そんな娘の姿を見て、堪らなくなったビッテンフェルトが思わず声をかける。
「フィーネ、大丈夫だ!ファーターに任せるんだ!」
 それは昔、娘達が幼かった頃のビッテンフェルトの口癖であった。


 ヨゼフィーネの部屋を出たビッテンフェルトは、その場に立ちすくんでいた。確かにルイーゼの言うとおり、この状態のヨゼフィーネからは相手の男のことまでとても訊けない。こんな辛い苦しみを一人で抱えてきた娘に、ビッテンフェルトは胸が詰まった。そして、ヨゼフィーネをこんな酷い目に遭わせた相手の男に対し、殺意にも似た感情が沸き上がってきた。
 ドアの前で動かず考え込んでいるビッテンフェルトに、ルイーゼが心配そうに声をかけた。
「父上、フィーネは?」
 ビッテンフェルトは首を振って、何も答えなかった事を告げた。
「ビッテンフェルト提督、今はフィーネの事を優先に考えましょう・・・」
 ビッテンフェルトの怒りに気が付いたエリスが、静かに諭した。
「そうだな・・・」
 ルイーゼやエリスの心配を理解したビッテンフェルトが、我に返って心を落ち着かせる。

それにしても、フィーネのあの目は・・・
遠い昔、フィーネを身ごもったアマンダが
俺に『産ませて欲しい!』と
頼みこんだ目と同じだ・・・

なんてことだ・・・
父親のこの俺が、
フィーネのそんな目を見ることになるとは・・・

 ビッテンフェルトは赤ん坊を諦めさせる事が、ヨゼフィーネの心にどのような影響を及ぼすのか心配になった。



 リビングに戻ると、ビッテンフェルトはひとまずルイーゼとエリスに自分の考えを告げた。
「堕胎させる。フィーネはまだ子供だ!母親になるには早すぎる・・・」
「堕胎・・・ですか?」
 エリスの窺うような問いかけに、ビッテンフェルトが聞き返す。
「・・・エリスは、堕胎には反対か?」
「いえ・・・」
 エリスとて、この判断が妥当でヨゼフィーネの為には一番無難な方法だとは思う。だが、どうしても自分の中で納得いかない部分もあって、それが顔に出てしまったらしい。
「仕方ないだろう・・・」
 独り言のようなビッテンフェルトの呟きに、エリスは彼自身にも迷いがあることを感じた。エリスは思い切って、ビッテンフェルトに伝えてみた。
「・・・父親はどうあれ、フィーネのお腹の中の赤ちゃんは、テオやヨーゼフ坊やと同じビッテンフェルト提督の孫になるんですよ!」
 エリスの言葉に、ビッテンフェルトはアマンダの言葉を思い出していた。
(アマンダのときもそう思ったが、どうして女性というのは産まれる前の胎児の段階で、一人前の人間として見てしまうのだろう?一つの生命体を抱える妊婦特有の考えだと思っていたが、子供を産んだことのないエリスまでそのように考えてしまうものなのか・・・)
「エリス、それは俺にも判っている!だが、今のフィーネに産ませるわけにはいかないだろう?望んでいない妊娠なんだぞ・・・」
 ビッテンフェルトの苦悩が表情に表れていた。
「フィーネの正直な気持ちはどうなのかしら・・・」
 ルイーゼの問いかけに、エリスが答えた。
「実は私、その事でひとつ気になっていることがあるんです」
 エリスはビッテンフェルトとルイーゼに、自分が感じた気がかりを伝えた。
「最初にフィーネからこの事を告げられたとき、あの子私に『この子は、私から産まれるべき子ではないのに・・・・。何故、この子を産むのが私なの?』って言ったの。普通、嫌なら『私は産みたくない!』でしょう?何だか赤ちゃんが生まれることは前提となっているような言い方が不思議だし、やけに引っかかっているんです。なんだかフィーネは、産む事と産まない事の両方を恐れているような気がするけれど・・・」
「乱暴された事は忘れたいと思っているけど、結果となった赤ちゃんの存在は否定できないということかしら?」
 エリスとルイーゼのやりとりを聞いていたビッテンフェルトが、怒ったように怒鳴った。
「だからといってどうする!子供がいたら、いつまでも辛かった事が忘れられないだろう。フィーネが忘れたいと思っているのなら、無理にでも忘れさせるんだ!」
 その言い切った言葉は、自分に言い聞かせるような感じでもあった。
「処置は早いほうがいいいだろう。ルイーゼもエリスもそのつもりで・・・」
 ルイーゼやエリスの返事も聞かずに、ビッテンフェルトは部屋から出ていった。



 ビッテンフェルトは寝室のベットに座ると、アマンダの遺影を手に持ち、じっと見つめていた。

フィーネが、こんな目に逢うなんて・・・
アマンダ、
この子にとって、最良の方法を教えてくれ!
俺には、難しすぎるよ
お前がいてくれたら・・・
今のフィーネには
俺より、母親のお前が必要だよ・・・

 ビッテンフェルトの目から零れた涙を、アマンダの遺影が受けとめていた。


<続く>