啐啄 3

 ビッテンフェルトの進言は、アレクの心を深く傷つけた。確かに一部の貴族達からも、皇妃一筋で他の女性に目が向かないアレクに、『後継者を得るのも皇帝の務め!』と女性を紹介されるということは何度もある。しかし、その殆どは身内や知り合いの女性を薦めるといった下心からくる場合が多かった。それにマリアンヌを悲しませたくないというアレクの思いは、そのような話題に不快すらを示すようになっていた。
 ビッテンフェルトになんの野心がないことは、アレクもよく知っている。それだけに彼の意見は、一般論とも言える。多くの者がそのように思っているが、皇帝のアレクには面と向かって言えない・・・。ビッテンフェルトはそれを言っただけに過ぎないのだ。それが判っているだけに、時間が経つにつれビッテンフェルトの言葉が、アレクの心に大きくのし掛かってきた。耐えきれない焦燥感に捕らわれたアレクは、珍しく酒の力を借りていた。

皇妃の味方と思っていたビッテンフェルトですら、
このように考えている
後継者の存在が、王朝の安泰に繋がるという事は
私自身が身をもって感じている

<王朝の安泰>すなわち<平和な世の中>
判っている!
判っているのだ

マリアンヌが懐妊したとき
どれほど二人で喜んだことだろう
そして、流産という結果に
どれほど嘆き、苦しみが続いていることだろう

ビッテンフェルト、お前までがその傷を抉るのか?
そっとしておいて欲しいのに・・・

・・・全てのことから、逃げ出したい・・・

 アレクの心の中で、やり場のない苛立ちが渦まいていた。酒に酔って気を紛らす皇帝の姿は、いつもそばにいる親衛隊長のキスリングでも初めて見る珍しい光景だった。



 この日の夜、王宮では催し物があった。そのパーティには、アルフォンスとルイーゼが夫婦で出席する予定だった。そのつもりで準備していたルイーゼだが、下の子のヨーゼフ坊やを抱き上げたとき熱っぽい事に気が付いた。確かめてみると少し熱があり、だるそうな様子にルイーゼは不安になった。
 そこで、ベビーシッターとして留守番の予定だった妹のヨゼフィーネに、自分の代理にパーティに出席するように頼んだのだ。予定外の事で驚いたヨゼフィーネだったが、未熟児で生まれたヨーゼフ坊やを人一倍心配するルイーゼの気持ちも判るので、姉の頼みを快く引き受けた。


「フィーネ、随分緊張しているのね」
 鏡の前で何度も身だしなみをチェックしているヨゼフィーネに、ルイーゼが声をかける。実はヨゼフィーネは、このようなパーティに出席するのは今回が初めてなのである。
「突然決まったことだし、まだ心の準備が出来ていないのよ!」
 亡き母親のドレスを着たヨゼフィーネが、不安そうに答えた。
「大丈夫よ。その若草色のドレスは、あなたにとてもよく似合ってるわ。大人っぽく見えるわよ!」
「ほんとに?嬉しい~!ねぇ、幾つぐらいに見える?」
「二十歳前後って感じかな。私が小さかった頃の母上にそっくりよ」
「もし、会場で父上に会ったら、『フリッツ♪』って呼ぼうかな!父上、どんな顔をするかしら?」
「ビックリして腰を抜かすかも!」
 成長したヨゼフィーネは、亡き母親が来ていたドレスがぴったりとなっていた。こうしてアマンダの服を着ると、ルイーゼでさえ驚くぐらい母親によく似ている。ヨゼフィーネが出席することを知らないビッテンフェルトの驚いた顔を想像して、姉妹同士の楽しい会話が続いた。
 <大人に見られたい!>と背伸びをする年頃だけに、ヨゼフィーネは年齢以上に見える事に、先ほどまでの不安が消えてすっかり上機嫌になっていた。


「仕事の都合でパーティに遅れそうだ。先に王宮に向かうように!」という夫からの連絡を受けたルイーゼは、ヨゼフィーネに同じくパーティに出席する筈のミュラー夫妻と一緒に行くことを薦めた。
「もう姉さんったら、王宮まで一人で行けるわ!保護者が必要な年齢でもないでしょう」
 ヨゼフィーネは心配する姉を説得して、一人で出かけた。いつまでも子ども扱いをする姉に、ヨゼフィーネは少々不満であった。
 パーティ会場の入り口付近でアルフォンスを待っていたヨゼフィーネに、フェリックスが近づいて来た。
「ヨゼフィーネ!アルフォンスは予定外の仕事が入り込んで、このパーティには出席ができなくなったそうだ。それで彼から、俺が代理で君の子守をするように頼まれているが・・・」
「えっ、子守~!いいえ、結構です!」
 ムッとしたヨゼフィーネの様子に、フェリックスが慌てて言葉を訂正する。
「あっと・・・悪い!今日の君の姿では、確かにもう子守とは言えないよな・・・」
 フェリックスはヨゼフィーネをまだ女の子という目で見ていた。それで、今日の彼女の相手役をアルフォンスから頼まれたとき、つい子守気分になってしまったのである。しかし、目の前のヨゼフィーネは、もう一人前の大人の女性に見えて驚いた。
「今日の君では、俺の役目はお目付役かな!」
「お目付役でも、遠慮するわ!第一、あなたがパートナーでは目立ってしまうし、他の女性達からも恨まれてしまう。もうじき、エリス姉さん達も来るはずなの。だから、パートナーはミュラーおじさんに頼むわ!ここでミュラー夫妻が来るのを待っている」
「そうか・・」
 フェリックスは幾分ほっとしていた。小うるさいビッテンフェルトが苦手な彼にしてみれば、彼との接点はあまり持ちたくなかった。親友から頼まれたとはいえビッテンフェルトの娘であるヨゼフィーネの相手は、出来れば避けたかったところなのである。
「でも、本当に大丈夫か?」
「大丈夫よ!なにかあったら『自分はビッテンフェルト元帥の娘!』と言うようにするわ。そうすれば、父上の名前に恐れをなして、誰もなにもしないわよ」
「確かに・・・。君の父上の名は、虫除けには充分な効果があるよ!」
 この点では、二人の意見は一致していた。


 フェリックスが去った後、ヨゼフィーネは暫くの暇つぶしに王宮の庭をぶらついていた。初めて見る王宮の様子に、ヨゼフィーネは興味津々である。
「何処かで見た顔のようだが・・・」
 突然かけられた声でヨゼフィーネが驚いて振り返ると、そこには皇帝のアレクが立っていた。
「あっ、陛下!・・・えっと・・・私はヨゼフィーネ・ビッテンフェルトと申します。父や義兄がお世話になっております」
「そうか。・・・君はビッテンフェルトの娘だったか」
 アレクは年が近いルイーゼとは幼なじみという関係だったが、幼年学校に入る頃に生まれたヨゼフィーネとは面識がなかった。
「ふ~ん、君の姉のルイーゼは父親似だが、君は母親似だな。君の母上の若い頃とそっくりだ」
「若い頃の母上?陛下は私の母の若い頃を知っているのですか?」
「はは、私とてこの目で見たわけではないよ。ルイーゼより一つ年上なだけだからね。軍関係の資料で、君の母上の姿を見たことがある」
「軍の資料に母上が・・・」
「軍服を来た母親を見てみたいか?」
 ヨゼフィーネは首を上下に大きく振って頷いた。母親のアマンダが元軍人であったことは知っていた。だが、家庭でその事に触れる機会は殆どなかった。母親の思い出をよく語ってくれるエリスも、結婚前のアマンダを知らない。ビッテンフェルトと結婚してからの姿しか見ていないエリスや姉のルイーゼも、軍人時代の母親の姿などヨゼフィーネ同様想像も付かないだろう。
(その頃の母上を見てみたい!)
 ヨゼフィーネの期待が大きく膨らんだとき、彼女はアレクから酒の匂いがしている事に気が付いた。
(酔っている?・・・)
 一瞬、用心深いヨゼフィーネは躊躇した。だが、(父上や義兄さんが忠誠を尽くす陛下に対して警戒心を持つことは、失礼にあたるかも・・・)とすぐ思い直した。第一、アレクの真面目な性格は、姉からよく聞いている。
 それよりも、ヨゼフィーネは母親の事が知りたかった。彼女にとってアマンダの情報は、どんなものより貴重な宝物である。今を逃したら軍人時代の母親の姿を見る機会など、二度と無いかも知れない。ヨゼフィーネは、この千載一遇のチャンスを手放したくなかった。
「陛下、私に若い頃の母上の姿を見せてください!」
 ヨゼフィーネは、初対面の皇帝に頼み込んでいた。
「判った。私に付いてくるがよい!」
 アレクの言葉にヨゼフィーネが従った。



 二人は王宮の長い廊下を歩いていた。アレクは自分の書斎のドアを開けると、ヨゼフィーネを部屋に通す。大きな本棚に囲まれた落ち着いた感じの部屋であった。
 アレクはヨゼフィーネをソファーに座らせると、すぐ彼女の為に資料を探し始めた。資料を取り出しながら、ヨゼフィーネに話しかける。
「亡くなったビッテンフェルト夫人の姿は、私の記憶の中では朧気に残っているだけだ。しかし、夫人のいろいろな事を知っているよ。なんたってあのロートリンゲン子爵による反逆事件では、皇太后の命を救ってれた恩人だからね」
「命の恩人?」
「君は母親の功労を知らなかったのか?軍務省に在籍していた頃も結構活躍したらしいぞ。まぁ、諜報員だったので公式な記録には残っていないが・・・」
「母上って、諜報活動をしていた人だったの?」
 ヨゼフィーネの問いに、アレクがポツリと呟く。
「・・・戦争時代の昔の話さ・・・」
 その後アレクは、両手に何冊かの資料を抱えて、ヨゼフィーネの前に置いた。
「これらの資料の片隅で見たと記憶しているが・・・。ミュラー軍務尚書の前任のオーベルシュタイン元帥と一緒に載っているのが多いかな。自分で捜してみるがよい」
「はい、ありがとうございます!」
 ヨゼフィーネは礼を言うと、すぐ資料に調べ始めた。
 その後、アレクが戸棚からワインを取り出し、ヨゼフィーネに話しかける。
「君も飲むかい?」
 だが、アレクの声が聞こえないほどヨゼフィーネは資料に夢中になっていた。アレクは苦笑いしながらグラスにワインを注ぐと、一人で飲み始めていた。


 どれほど時間が経ったことだろう。アレクの目は酔いが回って目が据わっていた。気が付かないうちにだいぶ飲んでいたらしい。頭の中がぼんやりして、思考が纏まらなくなっていた。目の前のヨゼフィーネは、まだ資料の中の母親を捜すのに夢中である。
 アレクの脳裏に、先ほど自分を怒らせたビッテンフェルトの姿が浮かび上がっていた。そして、彼の<側室を薦める>という言葉が、何度も繰り返される。
 酔ったアレクの心に、捻くれた考えがよぎっていた。

今、この娘に<こ>に手を付けたら、
ビッテンフェルトはどう出るだろう・・・
溺愛する娘のことだ
黙ってはいまい・・・
もし、ビッテンフェルトが逆上したら、
<側室を薦めたのはお前だ!>と言えばいい・・・

 いつの間にかヨゼフィーネの背後にアレクの姿があった。その気配に驚いたヨゼフィーネが、そこで初めて身の危険を感じた。
(この部屋から早く出なければ・・・)
 ヨゼフィーネは急にアレクが怖くなっていた。
 勘の鋭いヨゼフィーネは、その場の空気や人の心理を敏感に読みとるほうである。従っていつもの彼女であれば、このような危険な状況にはならなかったであろう。しかし、このときのヨゼフィーネは、母親のことが知りたい一心で資料に夢中になっていて、周りが全く見えていなかった。
 焦ってこの部屋から出る口実を言おうとしたヨゼフィーネより先に、アレクが口を開いた。
「君の父上は何故いつも、余計な事を言うのだろう・・・」
(陛下は父上に怒っている!)
 そのひと言からヨゼフィーネは、アレクの中にある父親への激しい憤りを感じてしまった。
(もしここで私が逃げ出してしまったら、陛下の父上への怒りが増してしまう・・・)
 そう思ったヨゼフィーネの身体は、逃げ出したい気持ちと裏腹に身動きがとれなくなった。アレクの顔を見るのが恐ろしくて、振り返る事もできない。
 ヨゼフィーネの肩に置かれていたアレクの手が、彼女の細い腰に回った。首筋から肩に向けて流れるように男の口が触れる感触に、ヨゼフィーネの心が凍る。何をされているのか、何が起こるのか、ヨゼフィーネにだって判っている。心では思いっきりアレクを拒絶しているのに、身体が抵抗出来なかった。助けを求める声すら出てこない。
 アレクが静かにヨゼフィーネのドレスをはぎ取っていく。荒っぽさはなかった。ここでヨゼフィーネが強く拒絶すれば、事態は違った方向に流れたのかも知れない。
 しかし、男性に対しての免疫が全くない箱入り娘のヨゼフィーネには、アレクに対する恐怖心ばかりが先に立って、声も出せなければなんの抵抗も出来なかった。ただ、アレクのなすがままになっていた。
 ヨゼフィーネは心の中で「これは私ではない!陛下に抱かれるのは私ではない!」と自己暗示のように何度も唱えていた。信じられない現実を受け入れられず、この出来事を人ごとのように思うことで自己防衛しているヨゼフィーネであった。
 こうして、彼女の大事な処女は、アレクによって奪われた。


 普段の真面目なアレクを知るものには、彼がこんな事をするなど想像できないだろう。しかし、ビッテンフェルトの大事な娘であるヨゼフィーネの初めての男性が、銀河帝国の皇帝であったという事は確かな事実として残った。



 アレクの書斎から出て呆然と立っていたヨゼフィーネに、廊下にいたキスリングが静かに声をかけた。
「自宅まで送ろう・・・」
 無言で首を振って拒否するヨゼフィーネに、彼が告げる。
「こんな状態の君を一人で帰すわけにはいかない・・・」
 キスリングがヨゼフィーネの前を歩き出し、一緒に来ることを促す。部屋の中で何が起こったのか全て知っているようなキスリングを見て、ヨゼフィーネも諦めたように彼の後ろに付いて歩き出す。
「お願い、忘れて!この事は、誰にも言わないで!・・・父上に知られたら、私、死を選ぶわ」
 後ろで小さく呟いたヨゼフィーネの<死>という言葉に反応して、キスリングが思わず振り返った。涙を堪えた目で自分を見つめるヨゼフィーネに、キスリングは黙って頷いた。
「では、こうしよう。<君は王宮で迷ってしまった。そのとき、俺と出会い頭にぶつかって、転んで足を痛めた。それで、俺が君を家まで送る事になった>これでどうだい?」
 目で了承の合図をしたヨゼフィーネであった。



「あのフロイラインを送ってきました」
 ヨゼフィーネを送ってきたキスリングが、アレクに報告する。
「陛下らしくもない・・・」
 親衛隊長の小さな溜息がアレクを窘める。しかし、諫めたキスリングでさえこのような結果が信じられなかった。


 アレクの父親でローエングラム王朝の創設者であるラインハルトは、底辺から頂点まで力で辿り着いた皇帝らしく、何気ない人の言葉からも裏の裏を窺うような性質があった。実際、そのぐらいの用心深さを持っていなければ、戦乱の世を生き抜いて頂点を極める事など出来なかったであろうし、あのオーベルシュタインが忠誠を尽くす相手として選ぶこともなかったであろう。
 その息子のアレクは生まれながらにしての皇帝で、他に兄弟がいなかった事もあり後継者争いなどという忌まわしい競争にも無縁であった。特別な立場の子どもではあったが、フェリックスがいつもそばに居てくれたお陰で孤独な思いもせずにすんだ。アレクは、先帝に比べ鷹揚な子ども時代を送ったのである。
 フェリックスが士官学校に入ってアレクから離れてからは、その寂しさを叔母のアンネローゼやその女官であったマリアンヌが埋めてくれた。アレクは純粋培養で育った子どもによく見られるような何事も素直に受け入れる性格で、ひねくれて物事を見るようなタイプではなかった。それは、小さい頃からそばで見守っていた親衛隊長のキスリングが一番よく知っている。
 なのに許容範囲以上の酒が、アレクの心を狂わせてしまった。
 結果だけを見れば、ビッテンフェルトへの腹いせに、娘のヨゼフィーネに手を出したと思われても仕方ないだろう。しかし皇妃の流産以来、アレクがずっと思い悩んでいる事をキスリングは知っている。その苦しみから逃れたいという気持ちから飲んでいた酒が過ぎたとき、運悪くヨゼフィーネと一緒であった。それ故招いた不幸な結果とも言えると、キスリングは感じていた。


「怯えたウサギのような目をしていた・・・。私は、昔のゴールデンバウム王朝時代の暴君達と同じ事をした。権力と暴力であの娘を傷つけた報いは、いずれ受けるときが来るであろう」
 独り言のように呟いたアレク自身、やり切れない後味の悪さを充分感じていた。
「陛下があのフロイラインにすまないと思っておられるのならば、今夜のことは忘れることです。それが、あの娘の希望でもありますし・・・」
「あの娘は忘れたいと願っているのか・・・」
「ええ、『忘れて欲しい・・・』と頼まれました」
「そうか・・・」
 アレクはそれ以後、何も言わなくなった。
 キスリングはそっとアレクの部屋を出た。そして、そのまま廊下で立ち止まって考え込んでいた。

ビッテンフェルト元帥の、
幼くして母親を亡くしたあの娘への溺愛振りは凄いと聞いている
そして、姉のルイーゼは、
皇妃の親友で心を打ち明けられる大事な理解者の一人だ
側近のアルフォンスは、そのルイーゼの夫だし
ワーレン元帥だって親戚筋にあたる
更に、子どもがいないミュラー夫妻にとっても
あの姉妹は実の子のような存在だ

彼女の背後には、
陛下にとって大事な人物が揃いすぎている
他の女性に手を出したのとは、あまりにも状況が違いすぎる
この件が公になった場合、
ヨゼフィーネの関係者と陛下の間がどうなるだろう・・・

「・・・面倒な事にならなければよいが・・・」
 キスリングが思わず呟いていた。


<続く>