青森ねぶた製作所 【ねぶた工房龍星】です。ねぶた絵、ねぶた製作承ります。様々な形もできますのでお気軽にお問合わせください。
青森ねぶた制作所 ねぶた工房龍星



◆2019年青森ねぶた内山龍星製作

青森市PTA連合会ねぶた「天の岩戸」









天照大神が弟・須佐之男命の甚だしい粗暴に怒り、天の岩戸に隠れ籠った為に世の中は天地暗黒となり、 諸種の悪神が跳梁してしまった。 困り果てた八百万の神々は天の安の河原に集まり祭りを行った。思金の神が常世 の長鳴鳥を鳴かせ、岩戸の前で神々に囃させて天宇受売命 に乱舞させた。その騒ぎに天照大神が怪しんで岩戸を少し開けて外を覗いた時、大力 の天手力男命が岩戸を引き開け大神を外へ招致した。 すると再び、暗黒の世に太陽の光が戻ったという。 平成時代は大きな自然災害が多かったが、新元号(令和)になった今、 平和な時代が過ごせるよう、扉を開け邁進して行きたいものである。



◆2018年青森ねぶた内山龍星製作

■青森市PTA連合会ねぶた「鍾馗」





中国の玄宗皇帝こうていは病に伏し、ある夜、高熱の中、夢を見た。小鬼が現れ、日頃大切にしている香を 盗んだり玉笛を吹いて騒いでは悩ましていた。 玄宗が家臣を呼ぶと、大鬼が現れ小鬼を捕らえ食べ殺した。名を問えば、大鬼は「鍾馗」 と名乗り「天下の為、悪鬼を退治する誓いを立てた」 と申し述べ、消え去った。 夢から覚めると玄宗皇帝の病はすっかり回復していた。 それを当世第一の画家道玄に伝え、 夢に見た鍾馗の姿絵を描かせた。 以来、この姿絵を魔除けや疫病からの守り神としたという。




◆2017年青森ねぶた内山龍星製作

■青森市PTA連合会ねぶた
「新田四郎 神霊を見る」

源頼朝公は富士の巻狩りの際、家臣の仁田四郎忠常に富士の人穴検索を命じた。 忠常は家来と共に人穴に入るが、中は狭くなかなか進むことができない。 さらに真っ暗の中、足を濡らし歩いていくと、やがて大河の流れる広い場所へと辿り着いた。 大河は激流が逆巻き渡ることができず、対岸の岩頭に光が輝くと一緒に来た家来が急死し、そこへ官女の姿が現れた。 「ここは人間の来るところではない。誤って来るものは皆、命を落とす。お前もまぬがれない。」と言われ、 恐れおののいた忠常だが官女の教えに従い刀を水中に投げ入れて帰ることができた。 仁田四郎忠常が富士の人穴で見た官女と思わしき姿は、富士の御神体「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」 の神霊であった。





◆2016年青森ねぶた内山龍星製作

■青森市PTA連合会ねぶた
「源三位頼政・鵺退治」

平安末期、近衛天皇の住む御所に、夜ごと黒雲とともに不気味な鳴き声が響きわたり、帝を悩ませていた。 そこで、弓の名手として名高い「源げん三位さんみ頼政よりまさ」に勅命が下った。 頼政は、先祖の「源みなもと 頼光よりみつ」より受け継いだ弓を手に、二矢を持参し家来の 「猪いのう 早そう太た」と妖怪退治へ向かった。 真夜中、御所の上に黒雲がたなびき怪しげな妖怪がいる。 頼政は弓矢を黒雲めがけて矢を射った、すかさず猪早太が落ちてきた妖怪にとどめを刺した。 火を灯して見てみると、正体は頭が猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をした「鵺ぬえ」であった。





◆2015年青森ねぶた内山龍星製作

■青森市PTA連合会ねぶた
劉根 鬼神を呼び寄せる

前7年成帝(せいてい)の時に、劉根は侍従官に任じられたが世を捨て仏道を学び、 河南省の断崖絶壁の上にある崇高山(すこうざん)の石室に籠った。劉根 は疫病除けの法を知っており、 河南省に疫病が流行るとその法を役人に教えた。そこで、役人がそのとおりにすると本当に 疫病が絶えたといわれる。ところが新しく役所の長官に赴任した張氏は、 劉根を怪しい術をなすという理由で出頭させ処刑しようとした。張氏は劉根に 「道術で鬼神を呼び寄せてみよ」 と命じた。すると劉根は数百の鬼神を操り、 後ろ手に縛られた老翁、老婆を車に乗せて役所の中に出現させた。それがすでに死んでいた 張氏の老父母だったので 張氏は大いに驚き、叩頭して劉根に許しを請うた。だが、劉根は許さず、 張氏も家族の者も間もなく死んでしまったという。その後暫くして、 劉根は鶏頭山に入り天に昇って仙人となった。





◆2014年青森ねぶた内山龍星製作

■青森市PTA連合会ねぶた
鬼童丸と袴垂保輔

鬼童丸(きどうまる)は、一説に大江山の酒呑童子の子と言われ、比叡山の稚児であったと伝えられる。 ある時、鬼童丸は山中の洞窟で怪盗・袴垂保輔(はかまだれやすすけ)に出会った。そこで二人はお互いの身に付けた技を競い合った。 保輔が妖術で山を炎で包み込めば、鬼童丸は大水を流し込み、怪鳥に乗って応戦。次に、大蛇に変じ鬼童丸に襲いかかる保輔。それに対し頭髪も背中の炎も逆巻かせ火炎不動の様に憤怒の形相で妖術の印を結ぶ鬼童丸。まさに奇々怪々な死闘が次々に繰り広げられた。 ここで技を磨いた鬼童丸は、やがて天狗堂の術を取得。父の仇である源頼光を討つため、市原野に向かったという。




◆2013年青森ねぶた内山龍星製作

■青森市PTA連合会ねぶた
林冲・王倫を討つ

 林冲は、上司である高より罠に嵌められ流罪となった。護送中に護送役人から命を狙われ、 彼らを返り討ちにして逃亡する。  その後、林冲は紫進の仲介でやむなく梁山泊へ身を寄せることにしたところ、 梁山泊の首領である王倫は林冲の実力を恐れ、入山を断ろうとし、 三日以内に旅人から金目の物を奪う条件を出した。林冲は、三日目に現れた楊志と打ち合うが、 戦いは一進一退、決着はつかなかった。これを見た王倫は楊志を引き込み林冲と競わせれば、 自分の地位は安泰のまま戦力が強化されると目論み、楊志に仲間入りを勧めた。 しかし、楊志がこれを断ったため、仕方なく林冲のみの入山を認めた。  それから半年後、晁蓋ら豪傑七人が大挙して梁山泊を頼って来たとき、 王倫は首領の座を奪われる不安に駆られ、手切れ金を渡し追い払おうとする。 その態度に林冲は激怒し、王倫を討ち取った。



◆2012年青森ねぶた内山龍星製作

■(社)青森青年会議所ねぶた
激戦・川中島

武田信玄と上杉謙信は一五五三年(天文二二年)からー五六四年(永禄七年)の永きに亘り、 北信濃の支配権を巡って川中島に対峙した。数度に及ぶ激しい戦火を交えたー五六ー年(永禄四年)九月、 夜明けの朝霧を裂き、静寂を突き破るような雄叫びが信玄の本陣遥かに響き渡る。決戦が近いことを予感した 信玄が将座に向かって歩を進めたまさにその時、謙信自らが、僅かな家臣を率いて突入してきた。 太刀を頭上高くに煌かせ、焔を纏い天を舞う龍の如く疾走する謙信。長年に亘る宿命を 一騎打ちで決着しようという決死の奇襲戦であった。太刀抜く間も与えず眼前に踊りこんだ謙信の一撃を、 大虎の如き胆力をもって、軍配一振りで受ける信玄。死力を尽くした総大将同士の一騎打ちは、 決着がつかず痛み分けとなった。 謙信と信玄、龍虎と称される両雄の相対した激戦は、後の世に語り継がれる一戦となった。




■青森市PTA連合会ねぶた
羅生門

平安時代。飢餓や辻風などの天変地異が打ち続き、京の都は衰微し、荒廃した羅生門は黒々と影のように立っていた。  その羅生門に鬼が出没するという噂を聞きつけた渡辺 綱は鬼退治のため道を急いでいた。  その時一人歩きの女に出会った。女は夜更けの恐ろしさのせいか、見知らぬ綱に「私をお送り下されまいか」と声をかけてきた。馬の歩みを遅めた綱の後ろを女がついて来た。すると、生暖かい風が吹き女はたちまち眼光鋭い鬼女に変じ、綱につかみかかったが、綱は源氏の名刀『髭切りの太刀』で鬼の腕を見事に切り落とした。鬼女はいづこともなく逃げ去った。  日が過ぎ綱の養母が上京して来て、国への土産話に鬼の腕とやらを見せて欲しいと言われ、やむを得ず封印していた鬼の腕を差し出すと、養母の姿はみるみる鬼の姿に変わり「これはわれの腕じゃ」と叫ぶや鬼女となって天空へと失せてしまった。

◆2011年青森ねぶた内山龍星製作

■(社)青森青年会議所ねぶた
村上義光 錦旗奪還

一三三三年(元弘三年)鎌倉幕府倒幕の為に戦っていた護良親王とその家臣らが熊野へと逃れる道中、 敵方の土豪・芋瀬庄司に遭遇した。親王は芋瀬らの軍勢から戦わずして見逃して貰う代わりに 錦の御旗を渡してその場を乗り越えることができた。遅れてやってきた親王の家臣の村上義光も芋瀬らに出くわすが、 そこには錦の御旗が翻っていた。義光は激昂し「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを」と、 敵方に奪われた御旗を取り返し、旗を持っていた芋瀬の下人をひっつかみ、四、五丈かなたに投げつけた。 義光の怪力に恐れをなして芋瀬は言葉を失い、義光は自ら御旗を肩に懸けて親王一行を追いかけ無事に追いつくことができた。 最後は主君の身代わりとなって自刃するといった伝説をもつ、義を重んじた武士の物語である。

■青森市PTA連合会ねぶた
文覚と不動明王

 淀川に架かる新しい渡辺橋の橋供養があり、周辺の警護を任されていた遠藤盛遠は美しい女を見初める。 渡辺 渡の妻・袈裟御前である。袈裟御前の母は衣川といい盛遠の父方の叔母にあたる。  ある時、盛遠は衣川の家に忍び込み、刀の刃先を叔母の喉に押し当て「袈裟御前と一夜を共に出来る様に。」と脅迫した。 母から訳を聞いた袈裟は「夫を殺していただければ、意に従うであろう。」と盛遠に約束した。 その夜、袈裟御前の手引き通り渡辺の屋敷に忍び込んだ盛遠は、寝ている渡辺を襲ったところ、 そこには夫の身代わりになり死ぬことを選んだ袈裟御前が息絶えて横たわっていた。  盛遠は、自分の行為の愚かさを恥じて出家し袈裟御前を弔う荒行に出た。 そして、熊野の那智の滝に打たれる荒行で命を落としたが、その時、不動明王が現れ、 矜羯羅・制多迦童子に命じ盛遠を救わせた。蘇生した盛遠は諸国の霊山で修行を続け「やいばの験者」と呼ばれたという。 東日本大地震の被災地域の生活再建と復興を願う。

◆2010年青森ねぶた内山龍星製作

■NTTグループねぶた
奮戦 護良親王

護良親王は、後醍醐天皇の皇子で大塔宮と呼ばれ武芸を好み剛勇の人で、 元弘の乱では父天皇を援け、楠木正成と相並び官軍勝利の先駆けをなした。  還俗して護良親王と改名し建武新政では征夷大将軍に任じられ「公武一体」 の政府を目指していたが、武家再興を企む足利尊氏の陰謀に陥り後醍醐天皇 により鎌倉へ幽閉され、後に中先代の乱で足利直義の命を受けた淵野辺義弘 によって惨殺され短い生涯を閉じた。しかし、相模原市淵野辺の護良親王伝説 によると義弘は親王を殺すに忍びず自ら親王を守り鎌倉由比ヶ浜から船で 石巻へ逃れたという生存説が語り継がれている。 このねぶたは護良親王の生存伝説をもとに、親王の無念を晴らすために逆転 の発想で以下のとおり書かれた著書を参考に表現したものである。 護良親王は石巻に逃れたあと奥州将軍府で尊氏討伐の時局を窺っていた、 尊氏が建武新政府に反旗を掲げると満を持して足利討伐に決起し北畠軍と 共に京都へ向かった。決戦当日、八騎を従え鴨川に馬を乗り入れた護良親王は、 劣勢に慌てふためく尊氏に迫り太刀を抜き放ち本懐を遂げた。 そして親王に群がる諸将の熱い期待を感じ、明るく希望に満ちた平和な世の中に導いたという。 折しも本年は長年待ち望んだ新幹線開通の年であり、明るく希望に満ちた青森と相重ねたものである。
■(社)青森青年会議所ねぶた
津軽為信出世の誉れ

天正十八年(一五九○年)小田原征伐において豊臣秀吉に領土を 安堵された津軽為信は京都へ参勤し、京都釜ノ座の屋敷に逗留していた。 文禄二年(一五九三年)、太閤と呼ばれ権力を欲しい儘としていた秀吉は、 七月の盂蘭盆の出し物を諸侯に命じた。その中には日ごろ「成り上がりの田舎者」 と蔑視を受けていた為信の姿があった。今こそ我等の意地と誇りを見せるとき、 と臣下に命じ、地元津軽の名物であった大灯篭を作らせ、京の都を練り歩かせた。 京都の民は一様にこの大灯篭に驚嘆し、互いに語り、為信の本懐を称えた。 為信はおおいに面目をほどこし、秀吉に登用されその後、文禄・慶長の役、 伏見城普請などに功績を挙げた。 地元津軽の民は主君のこの出世を祝い、灯篭を持って城下を練り歩いた。 今日、ねぶた祭発祥の有力な一説となっている。

■青森市PTA連合会ねぶた
吉備津彦命温羅を退治す

渡来した百済の王子温羅は、目は狼のように輝き、性格は荒々しく凶暴そのものであった。 温羅は、新山(岡山県)に城を築き都へ向かう船や女子を襲っていたので、 人々はその居城を鬼の城と呼び恐れおののいていた。 都の朝廷は、名のある武将を遣わして討伐しようとしたが、変幻自在ですばやい温羅を 討伐できずに都に逃げ帰る有り様であった。 そこで、朝廷は武勇の誉れ高い吉備津彦命を派遣した。命は吉備の山中に陣を構えて 戦いに挑んだものの苦戦した。しかし、時を得て一度に二本の矢を射ると、 一つの矢が温羅の左目に突き刺さった。温羅はワニに変じ逃げようとしたが、 命は鷹となって追いかけた。 そして、温羅は捕まりそうになると今度は鯉に姿を変え逃げ込んだが、 命は鵜に変化し温羅を噛み上げ、ついに捕まえ討伐した。

◆2009年青森ねぶた内山龍星製作

■NTTグループねぶた
勧善懲悪 閻羅王

閻羅王は日本で閻魔様の名前で親しまれている。 中国、四川の東川道に底なしの洞窟があり、その奥の閻魔庁で亡者を裁く十人の裁判官の一人である。 閻魔庁では亡者の生前の行いを浄玻璃の鏡に映し出し、正確・公正な審査を尽くし、 その亡者が六つの世界(天・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)の何れかに進むかの裁判を行う冥界の大王である。 一方この世では、仏の身で自由に地獄に赴き、賽の河原で泣く子供を救ったり、地獄で苦しむ人々を助ける 慈悲深い地蔵菩薩であるとも言われております。 この世から悪い行いをなくし、明日への希望と夢を与える平和な世の中を願いたいものである。
■(社)青森青年会議所ねぶた
大物浦の戦い

打倒平氏。常にその急先鋒として戦ってきた源義経であったが、頼朝の不興を買い追求を免れるため、 義経主従は京都を捨てて摂津大物浦(せっつだいもつのうら)から船出し、西国に逃れようとした。間も無く、 一転、にわかに掻き曇り暴風に襲われ激浪の中に平知盛をはじめ平家方の亡霊が現れ、船べり近く迫り、 海に引き込もうとした。知盛と平家一門は幼い安徳帝の悲劇的な最期に恨みを抱き、死してもなお怨霊となって 義経を襲うと誓いをたて、入水し海底に没して逝った。その誓い通り、知盛の怨霊がこのとき義経を海に 引き込もうとしたのである。これに対し義経は、刀を抜いて切り払い、弁慶は五大尊を念じ、法力をもって調伏し、 ようやく亡霊を退散させた。これが大物浦の戦いである。

■青森市PTA連合会ねぶた
戸隠山の青嵐

平惟茂(たいらのこれもち)が信濃の戸隠山に狩猟に出かけたところ、美女達が紅葉を観賞しながら酒宴を 開いているのに出会った。勧められるがままに酒を飲み酔いつぶれてしまったが、惟茂の夢に男山八幡の神が現れ、 美女の正体が鬼女であることを告げた。 やがて目覚めた惟茂は、盃中の酒に映る美女の顔が鬼女に変じるのを見て、一刀両断に切り倒し退治した。


◆2008年青森ねぶた内山龍星製作

■NTTねぶた
『神武東征』

初代天皇・神武天皇は鵜葺草葺不合命の子で、即位前は日本磐余彦尊と申し、兄の死に伴って皇太子の座に着いた。 日向国の高千穂宮に住む磐余彦は、全土を王化し都を築く為、兄五瀬命と共に海路数年を経て、浪速国に上陸した。 その後、大和に向かって進軍するが、道が険しく先へ進めず東に軍を向けて中州へ入ろうとしたが、 この地を支配する長髄彦の抵抗を受けた。五瀬命は賊の流れ矢に当り死去し、磐余彦は、やむなく御舟し紀伊の熊野に上陸した。 千古の老樹生い茂る中を進軍出来ずにいた時、八咫烏が現れ、その導きによって吉野の川筋に着いた。 ここで敵軍と激戦となり苦戦が続いた。すると一天俄かに掻き曇り、黒雲が天を被った。その時、一羽の金色の鵄が 現れ磐余彦の弓の先に止まり、鵄は、激光を発し長髄彦の軍は忽ち目が眩み、戦意を失い降伏し無事東征することが 出来たという。
■JCねぶた
『聖徳太子現る』

用明天皇の子、厩戸王子は、穴穂部王子によって父、兄弟を殺害されやむなく大和を後にした。数年が経ち、 風の便りで穴穂部王子が即位し大王になったと聞き大和に戻る事を決意した。一方、穴穂部大王は、 仏教徒を集め処刑を繰り返し、弾圧を強めていた。ある日、一群の人々が数珠つなぎにされた姿で、柵の中央に引き出された。 すると柵の一方が開かれ、豹の群れが走りこみ仏教徒達の喉を噛み裂き殺戮していた。すると黒駒にまたがり厩戸王子が現れ、 次々と豹の首をはね、仏教徒たちを柵の外へ逃がし、雑兵を切り捨て、穴穂部大王を一刀両断した。 その後、大和国は平和になり厩戸王子は即位し、聖徳天皇となった。

■PTAねぶた
『義平推参』

源義朝の子、義平は通称を悪源太と言った。「悪」とは強いと言う意味で、武勇のすぐれた義平に「悪」をつけて呼んだ。 平治の乱に破れた義平は、再起をかけ北陸を目指した。しかし、父義朝の死を知り密かに上京した。 平家滅亡を企て、六波羅付近を窺っていたが、逢坂山に潜んでいるところを捕らえられ、白昼京都六条河原で難波経房の手 により斬首された。義平は百日以内に必ず雷神となって現れると言い残し絶命した。 そしてある日、経房は出家した平清盛の一門と共に摂津の布引の瀧に遊覧に出掛けたところ、一天俄かにかき曇り義平が 雷神となって現れ、雷明を放ち経房に飛来した為焼死してしまった。 こうして、義平は本懐を遂げたのであった。

◆2007年青森ねぶた内山龍星製作

■NTTねぶた
鍾馗・邪鬼を誅す

中国の玄宗皇帝は病に伏してある夜悪夢をみた。小鬼が現れ、日ごろ大切にしている香を 盗んだり玉笛を吹いて騒いでは悩ましていた。 玄宗が下臣を呼ぶと、破帽を頂き、角帯をつけ、革靴をはいた巨眼の大鬼が現れ、 小鬼をとらえ、食べ殺した。 名を問えば、大鬼は「鍾馗」と名乗った。以前 官吏任用の試験に応じて落第し、 痛憤して自殺したが、帝が鍾馗を手厚く葬り、及第の扱いをしてやったのに感じ、 鍾馗は「天下のために悪鬼を退治する誓いを立てた」と申し述べ消え去った。 夢からさめると病気はすっかり回復していた。それを当世第一の画家、 道玄に伝え夢に見た鍾馗の画像を描かせた。 以来この画像を疫病よけや、魔よけの守り神としたという。

団地大賞受賞!
■JCねぶた
八之太郎と南祖坊

今から約一千年昔、修験行者南祖坊が全国行脚の途中、紀州熊野権現に出たところ、 夢に鮭の権現が現れ、 『汝に鉄の草鞋を与える。この鼻緒が切れた所を住居とせよ。』 というお告げがあった。目覚めた南祖坊の傍らには、鉄の草鞋があり、それを履き、 南祖坊は全国行脚を続けた。 十和田湖のほとりに辿り着いた時、草鞋の鼻緒が切れ、南祖坊はお告げ通り、 その地を住居とすべく、堂を立て権現をまつり、二十一日間の断食苦行に入って 大願成就の暁には十和田湖の主になろうとした。ところが十和田湖の古くからの主で あった八之太郎は大いに怒り、七日七晩の激しい闘いに挑んできた。 勝負はつかず、最期に龍神となった八之太郎は、雷鳴豪雨、波風を起こした。 南祖坊はあわてず経文を唱えた。その一字一字が毒針となって八之太郎を突き刺し、 八之太郎は秋田八郎潟に敗れ去った。南祖坊は入水し永久に十和田湖の主となったのである。 現在、南祖坊がたてた堂がある十和田神社は今も農耕や漁業の神様として 信仰をあつめている。

■PTAねぶた
大江山

大江山に酒呑童子という鬼が棲んでいた。多くの鬼の手下どもを従え、 日が暮れると里に出て、金銀財宝や美女をうばい取っていった。その頃、 公卿や大臣が相談し、源頼光をさし向けることになった。頼光は家来六人を従え、 山伏姿に身をかえ、笈の中に刀やよろいを入れ出発した。途中で三人の老人に出会った。 老人たちは、住吉、熊野、八幡の神々たちで、神便鬼毒酒という酒と、頼光に甲をくれた。 その酒は、人が飲めば薬となるが、鬼が飲めば毒となる不思議な酒であった。 やがて一行が館につくと、童子は頼光ら六人を御所へまねき入れた。 血の酒と肉の肴を平らげると、神便鬼毒酒をあおりはじめた。不思議な酒のきき目で なすがままにされていた童子であったが、頼光が首を切り落とすと、首は宙に舞い上がり 猛然と頼光めがけておそって来た。しかし老人たちが与えた甲をかぶっていたため、 遂にことなきを得た。 つづいて六人が童子の手下どもをつぎつぎと倒し、とらわれている姫たちを救ったという。


◆2006年青森ねぶた内山龍星製作

青森観光コンベンション協会会長賞受賞!
■NTTねぶた
呂洞賓(りょとうひん)・蛟龍(こうりゅう)を討つ

 呂洞賓は、唐(とう)の永楽県(えいらくけん)に生まれ、幼い頃から聡明で学問に たけていた。やがて盧山(ろざん)で火龍真人(かりゅうしんじん)という剣術師に出会い、 天遁(てんどん)剣法や仙術(せんじゅつ)を学んだ呂洞賓は、雌雄一対(しゆういっつい)の 名剣を使う一流の剣術師となった。 この頃、ある町に、水害を起こし、船を沈め、人間を食い荒らす「蛟龍(こうりゅう)」 という妖怪が現れ、人々は困り果てていた。それを知った呂洞賓は、妖術を使って猛虎を 呼び出し、龍を操る蛟龍を激しい戦いのうえ討ち取った。 呂洞賓は、その後もさまざまな法力を以って妖怪を退治し、多くの民衆を災害や病から 救い、中国で最も有名な仙人となって、今でも人々に多く語り継がれている。


団地大賞受賞!
■JCねぶた
新田義貞 龍神祈願

新田義貞は、後醍醐天皇から北条氏討伐の命を受け、兵を挙げたが最初は 百五十騎に過ぎなかった。義貞は東山道を西へ進み、上野国守御所を落とし、 周辺の御家人も加わり数万規模に膨れ上がった。さらに義貞は鎌倉街道を進み、 部倍河原で大勝を博し、破竹の進撃を続けた。やがて鎌倉の稲村ヶ崎で北を 見上げれば山高く路けわしく、木戸を溝へ楯を並べて数万の軍勢が控へ、 南には海原の沖合に船を浮かべ横ざまに討らんと待ち構えている。 大浪の砕ける岩頭に立った義貞は腰の宝刀を取ると両手に高く捧げ、南無八大 龍神に一心不乱に念じ、黄金作りの太刀を海中に投じた。するとたちまち 満々たる海水は沖合はるかに引き去り二十余町が砂浜となり、敵船も引き潮に 流され、はるか沖に漂う有様となった。義貞はその後も進撃し北条氏を討伐、 鎌倉幕府を滅ぼした。
 
◆2005年青森ねぶた内山龍星製作
■NTTねぶた
『刈田磨の鬼神退治』

平安京(京都)の南端に正面である羅城門(又は羅生門)があった。 平安京が衰えると共に、この門も 次第に荒れ、盗賊が住み着くようになった。平安朝後期のころ、鬼が通り掛かりの人を 捕えて食べるという 噂が立った。源頼光の命をうけ、渡辺綱が羅城門へ一騎で向かった。雨降る夜、 後方から声をかけられた。 見れば美しい女で五条から帰るのだが、送ってもらえないかという。承知して馬を引くと、 美女は鬼と 変し、かぶとに手をかけた。綱はあわてず、鬼の腕を切り払った。「腕は七日間預けて おくぞ」と言い捨て、 鬼は立ち去った。ある夜、屋敷に養母が訪ねて来たので家の中に招き入れると鬼の腕を 見せてくれというので 止むをえず、箱のふたをあけると、養母は鬼の姿に変え、腕をつかみ屋敷外へ逃げ 去ってしまったという。

■JCねぶた
『直訴』

天明の大飢饉から三十年、この頃、相次ぐ凶作と過酷な年貢の取立てや疫病の 流行など津軽藩農民の生活は困窮を極めた。文化十年(一八一三年)、冷夏に よる不作が決定的なものとなると、弘前城北一帯の庄屋達は同士を集め、 津軽農民の窮状を救わんと一揆を決意した。九月二十八日決起の日、 岩木川原に集まった農民達は簾旗、竹竿を打ち立て、日の出とともに城を 目指した。亀甲門を突破し、賀田門に迫った四千人の農民集団に対して、 鎮圧の為に招集された藩士達はその勢いを止められずにいた。騒乱の中に 飛び込んできたのは、鬼の異名をとる大組物頭、山本三郎左衛門 (やまもとさぶろうざえもん)である。馬上から槍を構え、怒声を上げる 三郎左衛門に怯んだ農民集団の中を掻き分けて三郎左衛門の前に出たのは、 三尺の竹竿に差し込んだ訴願状、連判状を手にした、若干二十二歳の 鬼沢代理庄屋、藤田民次郎であった。三郎左衛門は威圧に屈せず決死の覚悟で 請願を続ける民次郎の心情を察して訴願状を受け取り、藩主に取り次ぐ事 を約束した。 藩主寧親(やすちか)はこれに応え、農民救護策を行った。民次郎は一揆の責任を一人背負い斬刑となったが、民次郎の勇気ある行動と尊い犠牲によって、多くの農民が飢えの脅えから開放されたのであった。
 
◆2004年青森ねぶた内山龍星製作
■JCねぶた
羅城門
平安京(京都)の南端に正面である羅城門(又は羅生門)があった。 平安京が衰えると共に、この門も 次第に荒れ、盗賊が住み着くようになった。平安朝後期のころ、鬼が通り掛かりの人を 捕えて食べるという 噂が立った。源頼光の命をうけ、渡辺綱が羅城門へ一騎で向かった。雨降る夜、 後方から声をかけられた。 見れば美しい女で五条から帰るのだが、送ってもらえないかという。承知して馬を引くと、 美女は鬼と 変し、かぶとに手をかけた。綱はあわてず、鬼の腕を切り払った。「腕は七日間預けて おくぞ」と言い捨て、 鬼は立ち去った。ある夜、屋敷に養母が訪ねて来たので家の中に招き入れると鬼の腕を 見せてくれというので 止むをえず、箱のふたをあけると、養母は鬼の姿に変え、腕をつかみ屋敷外へ逃げ去って しまったという。
 
◆2003年青森ねぶた内山龍星製作
■JCねぶた
『田村麻呂大獄丸を討つ』

伊勢の国鈴鹿山は、昔から鬼が棲息しているという伝承があった。 山に棲む鬼人大獄丸(おおだけまる)が暴威を振るうために、 一帯は人通りがなくなった。  事態を重く見た朝廷は、坂上田村麿に討伐の勅命を下した。 しかし、妖術にたけた大獄丸は雷鳴を轟かせ、峰全体を黒雲で覆った。 なす術がなく、田村麻呂は軍勢を京都に引きあげさせ、ひとり鈴鹿山に入り、 大獄丸を迎え撃った。分身の術を使って数千の鬼と化し、激しく抵抗したが、 田村麿の投げた霊剣に倒れ首をはねられた。  しかし、霊が一本の剣に宿ってふたたび甦るのである。 天竺から日本に立ち戻り、陸奥国、青森の霧山が岳に 難攻不落の城を建て悪行を繰り返した。田村麿は再度死闘を くり広げ斬り落とした。大獄丸の首は、空中高く舞い上がり、 田村麿の兜に噛み付いて死んだ。その後中世における三大妖怪の ひとりに挙げられる強大な鬼神として伝えられている。
 
◆2002年青森ねぶた内山龍星製作
■JCねぶた
下北伝説『矢の根八幡』

 下北半島の尻屋には鬼神が住んでいて住民達を困らせていました。 困った住民達は名将・源 頼義(みなもとのよりよし)に鬼退治を依頼しました。 頼義は鬼退治の成功を八幡の神に祈祷しました。  ある日悪鬼が現れ、たちまち兵士達は殺されてしまいました。 その時、白衣の明神が現れ神矢を引き放つと、矢は悪鬼の額の中心を射抜き、 頼義はすかさず首を切り落としました。  辺りに矢の根石がたくさんあるところから「矢の根八幡」と呼ばれ、 地元の守護神としてまつられています。
 
◆2001年青森ねぶた内山龍星製作
■JCねぶた
「花矢の柵」
青森の生んだ偉大な版画家棟方志功画伯の作品の中に「花矢の柵」という作品 があります。画伯はこの作品を制作するにあたり次のように述べています。 「アイヌが、熊祭とか、祭りの時に一番最初に捧げる花矢、それから花矢の 柵とつけたんです。いままでの日本の文化というんですか、文化の美のあり方 を表現するのに、そういうものが南から北に向かっているあり方が非常に 多かったと思うんですね。九州から北へですね。けれども、これは、この矢を 北から南へ吹き返すというんですよ。青森のほうからのいのちを、今度は南の ほうへぶつけてやるというような形のものにしたいと思ってね。」 このねぶたは、そういった「花矢の柵」をモチーフに、4人の人物を東西南北の 神に見立て、東の神が鼓を打ち、西の神が笛を奏で、南の神が花矢を持ち、 北の神が花矢を射るという構成になっています。北の神が、南へ向けて平和と 繁栄を願い、北国の新たな「いのちの矢」を今まさに吹き返そうとしています。

■郵便局ねぶた
「南無大日 不動明王」
不動明王は、ヒンズー教のシバ神の異名で密教に取り入れられた。 大日如来の化身として憤怒相で姿を現し、人間のすべての罪障を消滅させる。 浮動明王は、地獄におちるべき死者の身代わりとなり、自ら業火に焼かれ、 慈悲の心が隠されている。衆生の迷いを断ち切る為、右手に剣、左手に 羂索をもっている。加持祈祷を中心とする密教において、力を得た僧や修験者 の布教活動により、息災と調伏を祈願する尊像として信仰が盛んになり、 民間に親しまれた神である。二十一世紀の世界平和を願うネブタである。

■青森板金工業組合
「周瑜・曹操を討つ」
建安十三年、北中国を制覇した曹操は天下統一を狙って、矛先を南に 転じ呉軍を標的とした。漢王朝の将軍より指揮官に任じられた周瑜は、 曹操の八十万の水軍に立ち向かうべく、二万の軍勢を率い長江の西方へ 向けて進撃を開始した。多勢に無勢を絵に画いたような勢力さがあった。 しかし、数は少ないが呉の精鋭軍は有利に戦略を展開した。曹操軍は 退却し、おびただしい軍船を並べ、陣を固め、呉軍の入る隙を与えなかった。 周瑜は敵陣が前後連なっている事に目をつけ、陣営に接近すると、 軍船に火をはなち焼き討ちにした。曹操軍は次々と燃え上がり、激しい 風に煽られ、一面火の海となった。周瑜率いる呉軍は、わずかな軍勢を 以って、八十万の大軍を撃破し、曹操の天下統一の野望を打ち砕いたという。

1999年風神・雷神 2000年奥内伝説・貝倉明神と龍
1997年三国志 1998年自来也
1995年忠臣忠信風雪吉野山 1996年静観僧正雨乞いの法験
1993年魔界天昇天草四郎 1994年舜天丸矇雲を討つ
1991年仁田四郎神霊を見る 1992年奮戦河野通有
1989年碇知盛 1990年国性爺合戦
1987年浪裏白跳張順 1988年源頼光鬼同丸を討つ


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