古拙の微笑

 暑い夏も過ぎ少し秋の気配を感じ始めた頃、ミュラーはフェザーン医科大学付属病院に愛妻エリスと共に来ていた。
 ミュラー夫妻は、もうすぐ結婚十年目を迎える。 軍の中では、ミッターマイヤー元帥夫妻が万年新婚状態と評される程の熱々振りで有名であったが、ミュラーとエリスも彼らに負けずに夫婦仲の良さは評判である。


「ナイトハルト、私は病気ではないのですから、一人で大丈夫ですよ」
「でも、今日ぐらいは・・・」
 エリスは軍務尚書という忙しい立場の夫を気遣ってそう言ったのだが、心配したミュラーは出勤の時間を遅らせて妻に付き添った。
 エリスが診察している間、ミュラーはすぐ隣の待合い室で妻を待とうとした。 しかし、ここは女性特有の病気を治療する産婦人科。女性達の視線をもろに感じてしまったミュラーはそこに座るのが憚れ、少し離れた廊下でエリスを待つことにした。
 この病院の産婦人科と小児科は、昔亡き先帝ラインハルトが妻のカイザーリンヒルダと生まれてくる我が子アレクの為、優秀なスタッフを集めさせるなど完璧な準備をさせた事で有名になった。十五年以上経った今でも評判は衰えず、女性や小さな子供を持つ親たちの間で人気があり、毎日数多くの患者達が訪れている。
 ミュラーは廊下の窓際に立って、行き交うスタッフや患者をぼんやりと見つめていた。病院の独特の匂いと雰囲気は、いつの時代も変わることがないらしい。 ミュラーはいつしか、若かりし頃入院していたあの懐かしい日々を思い出していた。


  


「悪いな!ここまで見送りに来てもらって・・・」
「いいえ、こうして歩き回るのはけっこういい気分転換になるんです。病院のベットで大人しくしているのは、もう飽きてきましたから・・・」
 見舞いに来た僚友のビッテンフェルトを、玄関ロビーまで送ったパジャマ姿のミュラーが、肩をすくめて笑った。
「その様子だと、体の方はもう大分回復したな」
「えぇ、こうして自分で歩けるようになりましたから・・・。一日も早く復帰したいです」
「ミュラー、無理するなよ、焦ることはない。それに、お前はまだ精神的なダメージからは、まだ回復していないような気がするぞ・・・」
「えっ?」
 驚いた顔を見せたミュラーに、ビッテンフェルトは少し苦笑気味に呟いた。
「卿の笑いは無理がある」
 ビッテンフェルトの鋭い指摘に、ミュラーは一瞬顔を引きつらせながら無口になる。
「だがまぁ、こればっかりは仕方ないだろう。お前、自分が指揮した戦闘の中で、ガイエスブルク要塞戦のような大きな敗戦は初めてなんだろう。・・・こういう問題は難しいよな。だが、時間が解決してくれるさ。あまり自分を思い詰めるなよ!」
「・・・」
「ミュラー、あの敗戦を忘れろとは言わない。だが振り返るのはやめるんだな!きりがないぞ!」
 言葉が出てこないミュラーに、ビッテンフェルトがウィンクして和ませる。そんな彼の顔を見て、ミュラーも少し表情を和ませる。
「ええ、・・・ビッテンフェルト提督、お気遣いありがとうございます」
「ミュラー、次は病院ではなくて、<海鷲>あたりで逢いたいな!」
「ええ、すぐそうなりますよ」


 ビッテンフェルトを見送り病室に戻ろうとしたミュラーに、誰かが声を掛けた。
「あの~、ガイエスブルク要塞を伴って出兵したイゼルローン回廊派遣軍の副司令官であったミュラー閣下ですか?」
「ええ・・・そうですが?」
 ミュラーが振り返ると、そこには見知らぬ女性が小さな赤ん坊を抱いて立っていた。
「・・・戦地では、将校と兵士は天と地ほどの差があるそうですね・・・」
 突然の言葉に、ミュラーは思わずこの女性の顔を見つめた。
「あの大戦で、兵士であった私の夫と弟は戦場から戻って来ませんでした。 でも、将校であるミュラー閣下はこうして生還して私の目の前にいる」
 その女性は表情を変えず能面のような顔で淡々と話していたが、その目は睨むように砂色の瞳を見つめ、全身から怒りの感情を出してミュラーを責めていた。
「娘の婿と息子を同時に亡くした私の母は、あっという間に老け込んでしまって見るのも辛いほどなのに、あなたはここでお友達と笑顔で話している。本当に、将校と兵士では雲底の差があるんですね・・・」
 女性は冷ややかな声で皮肉を込めて言い放った。ミュラーは言葉なく目の前の女性を見つめたまま青ざめた。
 その姿は、女性が噂で聞いていた戦場での凛々しい副司令官の様子は微塵も感じられず、自分のきつい言葉で傷ついているナイーブな青年そのものであった。
 力無くうなだれて落ち込むミュラーに、その女性は無抵抗な一人の人間に、言葉の暴力をふるってしまった罪悪感に捕らわれた。
「あの・・・私、今、気持ちに余裕がなくて・・・」
 『ごめんなさい』という言葉を飲み込んで、その女性は項垂れるミュラーの横を足早に通り過ぎた。



 病室に戻ったミュラーは、ベットに横たわり虚ろな目であの敗戦を振り返っていた。

あの戦いでの私の采配は、正しかったのだろうか・・・
私が、こうしておめおめと生き長らえていることは
罪といえるのでは・・・
総司令官のケンプ提督だって、艦と運命を共にした・・・
上に立つ者として、責任を果たすということは・・・

 悶々とした表情で考え事をするミュラーのベットの傍らに、いつの間にか参謀のオルラウが立っていた。
「閣下・・・今日はビッテンフェルト提督がお見舞いに来られたそうですが、なにか言われましたか?」
「いや・・・なぜそんなことを訊く?」
「閣下の様子が、いつにもまして暗そうですから・・・」
 冗談とも本気ともとれる言い方で、オルラウはミュラーに伝える。
「ビッテンフェルト提督からは何も・・・」
「ほう、では、誰に?」
 ミュラーは先ほど見知らぬ女性から言われたことを、参謀長に打ち明けたい衝動に駆られた。部下とはいえ、オルラウは自分にとって年上の兄のような存在になっている。職務以外のことでも、頼ってしまうというか甘えたくなるときがある。 そんな自分を見透かしているように見つめるオルラウに、ついミュラーは拗ねてみる。
「今日はいったいなんの用だ!」
 少しばかり不機嫌に問いかけた。
「閣下に、この本を差し上げたくて持ってきました。気が向いたときにでもご覧なってください」
 オルラウは、一冊の本をベット脇のサイドテーブルの上に置いた。
「実は、この本は私の妻が気に入っていた本でした」
「妻?・・・奥方の本なら形見の品じゃないか!そんな大事な物は受け取れないよ」
「昨夜妻から、『ミュラー閣下に是非、渡して欲しい・・・』と、夢の中で頼まれたのです」
「私に?」
「ええ、だから私からではなく、妻から閣下へのお見舞いの品と思って受け取ってください」
「どうしてだろう?君の奥方と私は一度も面識がなかったのに・・・。不思議だと思わないかい・・・」
「ええ、そうですね・・・」
 ミュラーの質問を、オルラウはさらりと受け流す。そんな彼に、ミュラーが問いかけた。
「そもそも、この本は一体どういう本なんだい?」
「人によってそれぞれ感じ方が違うと思いますが、私の妻はこの本を見ると、よく『心が安らぐ』と言っていたものです・・・」
(心が安らぐ?)
 意外に思ったミュラーが、その本を軽くめくり始めた。
 その様子を見ていたオルラウは、一礼すると静かに病室を出ていった。


深い霧が立ちこめるいつもの光景・・・
今夜も、ミュラーの悪夢が始まる。
蜃気楼のように、あの要塞戦の最期が映し出される
人々の断末魔の叫び、苦しむうめき声
地獄絵のような光景・・・


 全身に脂汗をかいたミュラーが起きあがる
(また、あの夢か・・・)
 暗闇に耐えかねて、ミュラーはベットに備え付けてある小さな明かりを付けた。
「ふう・・・」
 深い溜息をついたミュラーは、頭を抱える。
(いつになったら、あの夢から解放されるのか・・・)
 負傷した体の回復とは反比例するかのように、ミュラーの中の要塞戦での精神的な痛手は深まるばかりだった。
 喉の渇きを潤す為、サイドテーブルに置いてあるミネラルウォーターにミュラーは手を伸ばした。ふと、彼の目に一冊の本が目に入った。 昼、オルラウが置いていった本であった。
 その本には、人類が地球に住んでいた遠い昔の時代の美術品や絵画などの写真が載っていた。ミュラーは本を手にして、目が覚めてしまった夜の時間つぶしに眺めることにした。
 ぽっかり空いた心の隙間に、一枚の写真が飛び込んできた。
 神秘的な顔を持つ彫刻の写真で、説明書きには<仏像と言われ、古来の人々の信仰の対象になった美術品>と記されていた。
 ミュラーは不思議な魅力のするその顔に、目が釘付けになった。
 何とも言えない穏やかな表情、そして全てを包み込むような優しさを備えた微笑み・・・。
 じっと見つめていたミュラーに、どこからか透明感溢れる声が聞こえた。

『弱い自分にも、優しくしてあげて・・・』
(えっ、弱い自分?)
『そう、苦しんで悩んでいる己も自分です・・・
ありのままの全てを受け入れてあげて・・・』

 ミュラーは、まるでその仏像が自分の心にメッセージを送っているような感覚に陥った。

『自分自身を否定しないで・・・
あなたは、もてる力を充分尽くしました
頑張りましたよ
だからもう、自分を苦しみから解放してあげて・・・
自分を労いなさい
そして、自分をいたわりなさい』

 ミュラーの砂色の瞳から、涙がどんどん溢れてきた。
 誰かにそう言ってもらいたかったのか、或いは弱い自分を認めていなかった己に気が付いたのかよく判らなかったが、涙が止まらなかった。
 そして思いっきり泣いた後、全てから解放されたようにすっきりとした気持ちになっていた。ミュラーはこの不思議な微笑み<アルカイック・スマイル>の仏像に引き付けられた。
 その後、入院中の彼の手元にはいつもその本があった。 寝る前にあの写真を見つめていると、不思議と気持ちが落ち着いた。心穏やかに眠るようになって、いつしか悪夢に魘される事もなくなっていた。
 ミュラーのなかで、自己暗示的なものが作用したのかも知れない。しかし、もがいていた苦しみから逃れるきっかけをくれたのは、確かにこの微笑みのような気がした。 大昔この仏像というものが人々の信仰の対象になったというのも、何だか判るような気持ちにもなっていた。
(無理はしない。そして、どんな自分も受け入れよう)
ミュラーがそんなふうに心がけるようにしていたら、いつの間にか気持ちに余裕が生まれ、周りにも優しく接する事が出来るようになっていた。
 少しずつ活力が甦り、ミュラーは何だか新しい自分に生まれ変わったように感じた。


 いつしか「一億人・百万隻体制」という言葉が街に満ち溢れ、新たな戦いの予感に、ミュラーの周辺も慌ただしく動き始めるようになっていた。



 その後、無事退院の日を迎えたミュラーは、玄関ロビーの片隅に、以前彼に非難の言葉を浴びせた女性の姿を見つけた。
 その女性は心配そうな顔で立っていたが、自分を見つめるミュラーの笑顔にほっとしたのか、ミュラーのいるほうに近づいてきた。
「ミュラー閣下、退院おめでとうございます。先日は、閣下に大変失礼な事を申しまして・・・。今日はあのときの無礼を謝りに来たのです」
「私はもう気にしていません。だから、あなたも気になさらないように・・・」
 ミュラーが温和な笑顔を見せて、女性に伝える。
「いいえ、閣下、言わせてください。・・・戦争の勝ち負けはときの運、決して閣下の責任ではありません。私にも充分判っています。なのに私は・・・あのときはどうかしていたんです」
 ミュラーは少し気になって訊いてみた。
「あの日、何があったのです?もしよろしかったら、私に話してみませんか?」
 その女性は少し躊躇っていたが、ミュラーの穏やかな瞳に誘われて、あの日のことを話し始めた。
「今考えれば些細なことです。・・・あの日、子供の検診で、この病院を訪れていました。夫に付き添われて検診に来た幸せそうな母と子を目の辺りにして、一度も父親に抱かれなかった我が子が不憫になったのです。そして、生まれてくる子供に逢うのを楽しみにしていた夫が、我が子に逢えずに逝ってしまったことが切なくて、何とも言い難い感情が心の中で渦巻いていました。自分でもどうしていいか判らない程苦しかったのです。そんな感情を持て余していたとき、偶々あの場所にいた閣下を見て、私は自分を抑えられずについ八つ当たりをしてしまいました」
「そうだったんですか・・・」
「憤った心を、そのまま閣下にぶつけてしまった私をお許しください。あのときの言葉で、閣下を深く傷つけてしまったような気がして・・・」
「心遣いありがとうございます。でも、もう大丈夫ですよ・・・」
 以前とは別人のように落ち着いているミュラーに、その女性は安心したようだった。
「そのようですね。ほっとしました」
「世の中は変わりますよ。いつか戦争を必要としない時代になるでしょう・・・。ローエングラム公はそれが出来るお方です。私も彼の元で、その手助けのため力を尽くします」
 軍人という立場で人と話すとき、ミュラーはいつも肩に力が入っているのを自覚していた。年上の部下を持つ地位になってからは、自分の甘さや弱さを見せぬよう気が張っていたのかも知れない。だが現在<いま>、自然体で話している自分がいる。
「あなたのような想いをする女性が、もうこれ以上増えないように・・・。あなたのお母上や子供のように、戦場で息子や父親を喪わなくてもすむように・・・。私たちは争いの終結を目指して戦っているのです。次の世代には、きっと戦争を経験しなくて済むようになります!」
 ミュラーは砂色の瞳に決意を込めながらも、優しい表情で話した。そして、そんなミュラーを見つめる目の前の女性も、吹っ切れたように穏やかに話す。
「本当にそんな世の中になれば・・・夫や弟の死が無駄にならずに済むような気がします。今日、思い切ってここに来てよかった。閣下のその言葉を聞くことが出来て本当によかった・・・」
 その女性は満足そうに頷くと、一礼してミュラーの元を去った。 そしてミュラーは、彼女の姿が見えなくなるまで見送った。





「ナイトハルト・・・」
 自分の名を呼ばれて、一瞬で過去の思い出から戻ったミュラーは、目の前の妻の顔に驚いた。診察を終えたエリスが、暗い顔で立ちすくんでいる。
「エリス、どうしたんだい?泣きそうな顔になっているよ・・・」
「ナイトハルト、ごめんなさい!私、すっかり勘違いして・・・」
「勘違い?」
「・・・赤ちゃん、出来ていなかったの・・・。私の思い違いだったようで・・・」
(へっ!?)
 一瞬、ミュラーは拍子抜けしたような表情になってしまった。
「期待させるような事を言ってしまって、本当にごめんなさい!」
「はは、謝る必要はないよ・・・。でも実際、エリスはずっと体調が悪かっただろう?その原因はなんだったんだい?」
「・・・私が妊娠と思い込んでしまったから、それらしい兆候が現れたようだってお医者様から言われました。想像妊娠だったらしくて・・・」
「はあ~?」
「私ったら、恥ずかしい・・・」
 エリスは顔を真っ赤にして俯いてしまった。



 妊娠が勘違いであった事が判った直後は少しショックを見せていたエリスだが、すぐ立ち直って病院内で偶然出会った知人にも笑顔を見せていた。
 帰り道、地上車の中でエリスは夫のミュラーに再び謝り始めた。
「今日はごめんなさい。・・・私、母親になれるってそればかり先に立ってしまって、はしゃぎすぎていました。ルイーゼやフィーネにも『赤ちゃんが生まれたらベビーシッター宜しくね!』なんて台詞まで用意していたんです。・・・バカみたい。ナイトハルトにもぬか喜びをさせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
 照れ笑いのように笑顔を見せたエリスの目から、涙がポロリと零れた。
「あら、いやだ。泣くつもりなんてなかったのに・・・」
 言い訳をして、エリスは自分の指で涙を拭ぐ。
「エリス、ここでは二人っきりだよ!遠慮しなくていいから・・・」
 ミュラーは頷きながら優しく微笑んだ。
「ナイトハルト・・・。今だけ・・・すぐ立ち直るから・・・」
 そう言ったきりエリスは目をハンカチで覆い、肩を震わせた。

結婚して十年
二人とも、どこも悪くないというのは判っている
ただ、赤ん坊を運ぶコウノトリが気まぐれなだけ・・・
子供は自然に任せようと話し合っていた
お互い子供のいない将来を考えるようになったが、
その事を不運とは全く思わなかった
アマンダさんが逝ってから、
エリスは、ルイーゼやヨゼフィーネの母親代わりに一生懸命だった
子供がいない寂しさということも、あまり感じていなかった筈だ
私もエリスも、今のこの暮らしに充分満足していた

なのに・・・
思いがけない体調の変化が
エリスに大きな期待を抱かせた
楽しい未来をいろいろ想像して、気持ちが舞い上がった分
エリスにはショックが大きかった・・・

 エリスの肩に手を添えていたミュラーが、落ち着き始めた妻に伝える。
「エリス!今日は休んで、私はこのまま君と過ごすよ!」
「えっ、でも・・・。あなたはこの後、仕事に向かうつもりだったのでしょう?」
「予定はキャンセルする・・・」
「ナイトハルト、心配なさらないで!私ったら自分の望んだ結果でなかったからといって泣き出すなんて、小さな子供みたいでしたね。本当に恥ずかしい・・・。でも、もう大丈夫ですから・・・」
「エリス、たまには二人でゆっくりするもいいだろう!このところずっと忙しくて休みがなかったし・・・。ドレウェンツが上手くスケジュールを調節してくれるさ」
 ミュラーはすぐさま、副官ドレウェンツに連絡を入れる。
「これで大丈夫!今日一日、夫婦でのんびり過ごそう」
 ミュラーの申し出に、エリスは溜息混じりに告げた。
「ナイトハルト・・・私、いい方に考えすぎていました。でっきり赤ちゃんが出来たものだと思い込んで、随分浮かれてしまって・・・。もう少し様子を見て、きちんと確認してからあなたに話すべきでした。あなたまでこんなことに巻き込んでしまって・・・。先走ってしまった事、後悔しています」
「いや、エリス、これでいいんだよ!こういう事は夫婦の問題なんだから・・・。もし、この一件を話してくれなかったら、私はその事にがっかりしたと思うよ。エリスとは、どんなことでも分かち合いたい。例えそれが、君の勘違いだったとしてもだ!」
 ミュラーは笑顔で見せて、エリスに伝えた。
「今回、いい方に考えるエリスの前向きな思考が裏目に出てしまったけれど、だからと言ってそれを改める必要はないよ。君のその性格、私はかなり気に入っているんだからね!」
 泣いたばかりのエリスの赤い目に、少しばかり笑顔が戻った。



 この時間、自宅でゆっくり過ごすのは、本当に久しぶりの事だった。
「たまには私の煎れたコーヒーを飲むのも、新鮮でいいだろう?」
 ミュラーはコーヒーと共に、一冊の本を持ってきた。
「この本、私が昔よく読んでいたんだ。よかったら、エリスも読んでみないか?気張らしになるかも知れない・・・」
「あら、どんな本?」
 エリスが手にとって読み始めた。 絵画や美術品の写真が多いこの本に、画家でもあるエリスも引き付けられたようで興味深く見入っていた。
 あるページを暫く見つめていたエリスは、隣でコーヒーを飲みながらくつろいでいるミュラーに話しかけてきた。
「ナイトハルト、このページの写真を見て!この仏像って、何となく表情がアマンダさんに似ていると思いませんか?」
 その写真から目を離さないまま、エリスがミュラーに話しかける。
「この安らかな微笑み・・・何となくほっとするような雰囲気が特に・・・」
「エリスもそう思うかい。実は私も昔からずっとそう思っていたんだ。この写真を見るたびアマンダさんの微笑みを思い出す」
「この微笑み・・・<アルカイック・スマイル>って言われているんですね」
 じっと本を見つめていたエリスが、ミュラーに向かって少し照れくさそうな顔で話した。
「今回の早とちりの一件、アマンダさんに話したらこんなふうに微笑むのでしょうね・・・」
「うん、きっとそうだね」
「私、何だかアマンダさんを描きたくなりました。こんな感じの<アルカイック・スマイル>のアマンダさんを描きたい!」
「創作意欲が湧いてきたかい?」
「ええ、ナイトハルト、すぐ、描き始めてもいいかしら?」
「相変わらず<思いついたら即実行!>なんだね」
 すっかり画家の目になっているエリスに、ミュラーが笑った。
「そうよ!だって私は、ビッテンフェルト提督の<思いついたら即実行!>の教えのお陰で、あなたを手に入れることができたんですもの」
(手に入れた・・・か)
 ミュラーは思わず苦笑いをしていた。
 昔、確かにビッテンフェルトに急かされたエリスの方が先に、ミュラーに愛の告白をしたのだ。 二人の出発点となったあの朝のエリスの姿と、目の前で身支度をしてアトリエに向かうエリスが、ミュラーの砂色の瞳に重なって見える。 すっかりいつものエリスに戻った妻に、ミュラーは一安心していた。

よかった
エリスが立ち直って・・・

ありがとう・・・
また、あなたのお世話になりました

 ミュラーは、エリスが見ていた写真に心の中でそっと呟いた。
 その写真には、<アルカイック・スマイル・・・古拙の微笑>と言われる微笑みを浮かべている仏像が、ミュラーを優しく見守っていた。


<END>

 


~あとがき~
以前書いた小説<アルカイック・スマイル>は、私の処女作でビッテンフェルトシリーズの原点です。
「アルカイック・スマイル」とは、「古拙の微笑」又は「古典的微笑」と訳され、唇の両端を少しだけ上げた不思議な微笑みの事を言います。
日本では、飛鳥時代に作られた仏像によく見られるお顔です。
小説<アルカイック・スマイル>の最後の方に、少しだけミュラーさんの入院生活の事が書かれています。
ミュラーさんが長い入院生活の際、心の空白を埋めたくて読んだ本とは、参謀長オルラウからのお見舞いの本でした。
その辺のお話も、いつか詳しく書きたいなぁ~と思っていました。
最初、この小説のタイトルは<アルカイック・スマイル2>にしようと思ったんです。
でも、ちょっと紛らわしいかな?と思い、同じ意味である<古拙の微笑>にしました。
時代の隔たりがある二つの場面を、一つの小説にまとめるというのは難しかったです。
読んだ方はスムーズに時代の流れを受けとめる事が出来たでしょうか?(心配)
参謀長オルラウはミュラーさんの部下ですが、<中年の渋いおじさま>といったイメージで書いています。
職場にこんなさり気ない気配りをする上司がいたら、きっと憧れますね(笑)
そして、エリスの微妙な女性心理を優しく包み込みミュラーさんは、理想の旦那様です♪