山谷清文の信条(五常の徳)

人を愛し思いやる

人としての道、守るべき徳を説いた儒教の教え「五常の徳」。孔子・孟子が説いた、仁・義・礼・智に、信を加えてまとめられたものを五常といいます。
そのうちの仁は、人間が守るべき理想の姿です。自分の生きている役割を理解し、自分を愛すること、そして身近な人間を愛し、ひいては広く人を愛することです。義・礼・智・信それぞれの徳を守り、真心と思いやりを持ち誠実に人と接するのが、仁を実践する生き方です。
「武士の情け」という言葉がありますが、これは、仁から生じているものです。単純に情け深いのではなく、自分には厳しく周囲には寛容に、かつ正義に基づいた慈愛を持って接することが大切とされていました。戦国武将・織田信長にはこの点が欠けており、敵ばかりでなく味方にも非情であった故に、天下統一はかないませんでした。

 

 

政治家にとって最も必要なことは、人の話をよく聞き、相手の立場に立って物事を考えることだと私は考えます。 孔子・孟子の時代から尊ばれている、人を愛して思いやる心すなわち仁の精神。それは諸々の問題を抱え、殺伐としがちなこの現代においてこそ、見直し、大切にされるべき価値観ではないでしょうか。
私も、どのような局面にあっても県民の声をよく聞き、県民ひとりひとりの立場に立って行動したいと思います。


 

正義を貫く心

義とは、人の歩んでいく正しい道のことです。義をおろそかにすることは、道を踏み外すことになります。仁を実践する基本として、義を貫くことが必要です。本当に人を愛し思いやる生き方は、正義を貫いてこそ成り立つのです。
武士道では、義の精神が重く考えられていました。武田信玄と上杉謙信の「川中島の合戦」のとき、海のない山間部を領土とする武田方が、敵対する今川・北条側より商人の往来を制限され、塩の供給を絶たれました。これを聞いた上杉謙信は、塩を自国から供給すると申し出ます。
「武士が雌雄を決するのは弓矢と刀である。敵であっても窮状では助けるのが武士であり、弱みにつけこむのは卑怯」と考えたからです。謙信は、義を貫いたのでした。

 

 

正義を貫くには勇気も必要です。私も様々な局面で賛否を問われ、決断を迫られます。
戦国武将が雌雄を決する大事な局面においても、踏み外さなかった正義の道を貫き通すために、迷い悩むこともしばしばです。
しかし、そのような屈強でこそ人の真価は問われるもの。私は、常に「青森県全体のためになるのか」、「社会正義に反していないか」という判断基準を見失わずに行動することにしています。


 

 

 

礼儀礼節を尊ぶ

人の世に秩序を与える礼儀礼節は、仁を実践する上で大切なことです。
親や目上の人に礼儀を尽くすこと、自分を謙遜し、相手に敬意を持って接することが礼、場合に応じて自分を律し、節度を持って行動することが節といえます。
礼節を尽くして人を訪ねるという意味の「三顧の礼」という故事があります。この言葉の元は、三国志でした。
劉備玄徳は、戦いで優位に立つために、優秀な軍師として諸葛亮孔明を迎えようと考え、彼の草庵を訪れます。しかし、一度目、二度目の訪問時は留守のため会うことができず、三度目、長いこと待った末にようやく会うことがかないました。その後諸葛亮は、自分が劉備のために奔走することになったのは、劉備が自分を目下とみなさず、礼を尽くして何度も訪ねてくれたからだと語ったそうです。

 

 

人は大人になると、自分の力で生きていると錯覚しがちです。しかし今の自分は、進むべき道を示し、導いてくれた人生の先輩方の存在があってのもの。
私は幼少時から現在に至るまで、この青森において多くの方々のお世話になりました。そして今、その恩返しができる場に立たせていただいていると感じます。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉もありますが、どういう立場になってもおごることなく礼を尽くして人と接していこうと思っています。


 

 

 

善悪を真に理解する知恵

智とは、人や物事の善悪を正しく判断する知恵です。さまざまな経験を積むうちに培った知識はやがて変容をとげ、智となって正しい判断を支えます。より智を高めるには、偏りのない考え方や、物事との接し方に基づいた知識を蓄えることが必要です。
中国の儒学者洪応明(こうおうめい)は、「菜根譚(さいこんたん)」という書を残しました。儒教、道教、仏教の教えを踏まえ、処世の道、よりよく生きる知恵を書いた随想集です。「菜根譚」には、「あまり暇があると、つまらぬ雑念が生じる。あまり忙しすぎると、本来の自分を見失ってしまう」というように、偏った生き方を戒める言葉がいくつも書かれています。
儒教では「中庸」といって、よいバランスを保って生きることが大切とされており、これは、正しい判断力すなわち智を高めるにおいても同様といえるでしょう。

 

 

政治家にとって物事の善悪を判断する能力は、非常に重要だと思います。正しい判断が出来るように、私は普段から常にいろいろな角度で情報を収集しています。
どんなに重大と思われる情報であっても、ひとつの観点から得た情報にこだわりすぎると、正しい判断を曇らせることになりかねません。
偏った見方をせず情報を集め、それに基づいて、何事にも惑わされることなく正しい判断を下す。そこには、儒教でいう「中庸」の精神に通じる心持ちがあると思います。


 

 

偽りなく信頼されること

信とは、心と言葉、行いが一致し、嘘がないことで得られる信頼です。
嘘のために一度損なわれた信頼を、取り戻すのは難しいことです。たとえ、仁なる生き方を実践していても、人に信頼されないことには社会で生きていけません。信頼は、全ての徳を支えるほどに大切なのです。
二宮尊徳は、生活が苦しい藩士のために、「五常講」という金融の仕組みを作りました。仁・義・礼・智・信(五常)の徳を実践するものであれば、その心を担保にお金を借りられるというものです。
借りた者は、借りたときの感謝の気持ちを忘れずにきちんと返せば、五常の徳を実行したことになるというこの制度は、後の信用組合の原型となりました。

 

 

「信頼される政治」を作り上げて行くことは、平成の世に生きる政治家にとって大きな課題であると思います。
儒教の精神を見直すと、今も昔も変わらず人間を決めるのは心の持ち様であるということがわかります。そして政治家は、築き上げてきた信頼を一瞬で失わせる嘘や不誠実な発言が、取り返しのつかないものだということを肝に命じ、今一度初心に立ち返る必要があると感じます。私の目指す「県民に心から信頼される県政」は、その先にあると信じて。