第42章 ミニュアス人の系譜

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Create:2023.5.26, Update:2025.7.31

1 はじめに
BC1750年、Parnassus山の北を流れるCephisus川の上流で大洪水が発生した。
Ogygusに率いられたEctenesは、Cephisus川の下流へ移住して、Copais湖の南東に定住した。[1]
BC1580年、Hellenの父Deucalionの祖父に率いられたEctenesの一部は、Hyantesなどの他の部族によって圧迫されて、Boeotia地方から北へ移動した。Deucalionは、Thessaly地方北部を流れるPeneius川に南から流れ込むEnipeus川の源流付近に、Pyrrha (後のMelitaea)の町を創建した。[2]
Deucalionには2人の息子たち、HellenとAmphictyonがいた。[3]
Hellenは、Phthiotis地方を治め、その地方の人々はHellenes、またはHellasと呼ばれた。[4]
Hellenには3人の息子たち、Aeolus、Xuthus、Dorusがいた。[5]
Aeolusは父の跡を継いでMelitaeaの町に住み、Phthiotis地方を治めた。[6]
Aeolusには5人の息子たち、Mimas、Cretheus、Hypseus、Sisyphus、Athamasが生まれた。[7]
Aeolusの後裔は、Aeolians (or Aeolis)と呼ばれるようになった。[8]
BC1420年、Sisyphusは、従兄弟Achaeusの息子たちと共に、Melitaeaの町からPeloponnesus北部のAegialus地方へ移住した。[9]
BC1407年、Sisyphusは、Aegialus地方からSicyonの町の東側へ移住して、Ephyra(後のCorinth)の町を創建した。[10]

2 Boeotiaへの移住
2.1 Sisyphusの子Almus
BC1365年、Almusは、Ephyraの町からBoeotia地方のCopais湖の北側へ移住して、Olmonesの町を創建した。[11]
Pausaniasは、Andreusの子EteoclesがAlmusに土地を与えたと伝えている。[12]
しかし、実際は、Eteoclesではなく、AthamasがAlmusに土地を分け与えたと思われる。
Eteoclesは、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Andreusの息子であり、Almusは、Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの息子であった。つまり、Almusは、Eteoclesの曾祖父Hippotesの従兄弟であった。
一方、Athamasは、Hellenの子Aeolusの息子であり、Almusの叔父であった。
Almusは、Eteoclesではなく、叔父Athamasを頼って移住してきたと考えた方が妥当である。

2.2 Copais周辺の状況
BC1390年、Aeolusの子Athamasは、Thessaly地方のHalusの町からCopais湖の東側へ移住して、Acraephniumの町を創建した。[13]
Athamasの子Phrixusは、Ephyraea (後のCorinth)の町のSisyphusの子Aeetesと共に、黒海東岸のColchis地方へ移住した。[14]
BC1380年、Aeolusの子Andreusは、Thessaly地方のArneの町からBoeotia地方へ移住して来て、Andreis (後のOrchomenus)の町を創建した。[15]
BC1370年、Phrixusの子Presbonは、Colchis地方から祖父Athamasが住むBoeotia地方のAcraephniumの町へ移住して来た。[16]
この時から、Boeotia地方とColchis地方との交易が始まり、航海術に優れた集団が誕生したと推定される。

2.3 Andreisの継承
Almusには2人の娘たち、ChrysogeneiaとChryseがいた。[17]
Chryseの子Phlegyasは、Andreusの子EteoclesからAndreisの町を継承した。[18]
Andreusは、初代Orchomenus王であり、Andreisの町の創建者であった。[19]
Phlegyasの跡を、Chrysogeneiaの子Chrysesが継いだ。[20]
Chrysesの時代にCopais湖の水位が上がってAndreisの町は人が住めなくなった。
BC1350年、Chrysesは、Copais湖西側のAcontius山の近くに新しいAndreis (後のOrchomenus)の町を建設した。[21]
Chrysesには、息子Minyasがいた。[22]
Chrysesには、Iasiusという名前の息子もいたと推定される。[23]

3 名祖Minyas
BC1335年、Chrysesの跡を、彼の息子Minyasが継いだ。[24]
Minyasには2人の息子たち、OrchomenusとCyparissusがいた。[25]
Minyasの跡を、彼の息子Orchomenusが継いだ。彼の時代に、Andreisの町は、Orchomenusの町と呼ばれるようになった。[26]
BC1305年、Minyasの子Cyparissusは、Delphiの近くへ移住して、Cyparissusの町を創建した。[27]
Minyasには娘たち、Clymene、Periclymene、Alcathoe、Arsinoe、Leucippeがいた。[28]
Minyas統治下の人々は、Minyasの名前に因んで、Minyansと呼ばれるようになった。[29]

3.1 Minyansの種族
Minyasの父Chrysesの父の種族は、不明である。
しかし、AeolianであるAndreusの子Eteoclesの跡を、Phlegyasが継ぎ、Phlegyasの跡を、Chrysesが継いでいることから、Chrysesの父もAeoliansに属していたと推定される。
つまり、Minyansは、Aeoliansの支族であった。

3.2 Minyansの富
Minyas王は、莫大な収入を受け取り、初めて宝庫が建てられた。[30]
Minyansの富の源泉について、伝承は明示していないが、Cephisus川が流入するCopais湖周辺の肥沃な土地から得られたと思われる。
また、黒海方面との交易活動で得られる収入も大きかった。
その交易活動は、Phrixusの子Presbonが黒海東岸のColchis地方からBoeotia地方へ移住して来てから、本格的に始まった。

4 Minyansの盛衰
4.1 Minyasの後裔
Minyasの跡を、彼の息子Orchomenusが継ぎ、Andreisの町は、Orchomenusの町と呼ばれるようになった。[31]
Orchomenusには、息子がいなかったため、Acraephiumの町に住むAthamasの子Phrixusの子Presbonの子Clymenusが、Orchomenusの跡を継いだ。[32]
Clymenusは、初代Orchomenus王Andreusの妻Euippeの従兄Presbonの息子であった。[33]
Athamasの後裔がOrchomenus王になったことで、Boeotia地方の西半分がMinyansの勢力範囲になり、東半分を勢力下に置くThebansと争うことになった。

4.2 Thebansとの戦い
BC1256年、Clymenusは、Onchestusの町で、Thebesの町の支配者Creonの息子Menoeceusの御者Perieresに殺された。[34]
Clymenusの子Erginusは、Thebesの町を攻めて、Thebansに勝利した。[35]
その後、Thebansは、Minyansを攻めて、Erginusに勝利した。[36]
この戦いの後、Boeotia地方のMinyansは、勢力を失った。

4.3 Thraciansによる占拠と奪還
BC1188年、Minyansが住んでいたOrchomenusの町がThraciansによって占拠された。
Minyansは、Aeolusの子Athamasの後裔Athamasに率いられて、Asia MinorのIonia地方へ移住して、Teosの町を創建した。[37]
また、Minyansの一部は、Athensの町のMunychiaへ逃れた。[38]
BC1126年、Munychiaに住んでいたMinyansは、Boeotiansの助けを借りて、Orchomenusの町を占拠していたThraciansを追い出して、町へ帰還した。
しかし、この時から、Orchomenusの町のMinyansは、Boeotiansの支配下に入ることになった。
その後、Orchomenusの町のMinyansの一部は、Theroの子Chaeronに率いられて、Boeotia地方西部のArne (後のChaeroneia)の町へ移住した。

4.4 Sauromataeの地への移住
BC1186年、Troyへ遠征したAchaeansは、Iliumの町との戦いに敗れて、各地へ逃れた。
Minyansは、Astyoche (or Pernis)の子Ialmenusに率いられて、黒海の北のSauromataeの地へ移住した。[39]
Ialmenusの先祖Phrixusの孫娘Perseis (or Perse)の子Persesは、Tauric Chersonese (現在のCrimea)の支配者であった。[40]
また、Persesの娘Hecate (or Idyia)の娘Circeは、Sauromatiansの王に嫁いでいた。[41]
つまり、古い時代から、Minyansは、黒海方面と、活発に交易していたと推定される。

5 婚姻に伴う移住
Minyasの時代、Minyansの富は広く知れ渡り、各地の有力者の息子たちが、Minyansの町から妻を迎えるようになった。[42]
花嫁には、大勢のMinyansが同行して、Minyansの居住地は、各地へ広がった。

5.1 Thessalyへの移住
BC1317年、Minyasの娘Clymeneは、Thessaly地方のPhylaceの町に住むPhylacusに嫁いだ。[43]
BC1301年、Minyasの娘Periclymeneは、Thessaly地方のPheraeの町に住むPheresに嫁いだ。[44]
BC1299年、Iasiusの子Amphionの娘Phylomacheは、Thessaly地方のIolcusの町に住むCretheusの子Peliasに嫁いだ。[45]
BC1291年、Minyasの娘Clymeneの娘Alcimedeは、Thessaly地方にAesonis (or Aeson)の町を創建したAesonに嫁いだ。[46]
以上の結婚によって、Thessaly地方のPagasetic Gulf周辺の町には、多くのMinyansが居住するようになった。

5.1.1 Iolcusの発展
Minyansは、黒海方面との交易を行い、Pagasetic Gulf北岸のIolcusの町は、急速に発展した。Iolcusの町は、Cretheusの子Peliasの時代に黄金期を迎え、Argonautsの遠征物語の舞台の一つとして登場するほどになった。[47]

5.1.2 Jasonの遠征
BC1268年、Aesonの子Jasonは、Aesonisの町に住むMinyansと共にColchis地方へ遠征した。[48]
Jasonの母Alcimedeは、Minyasの娘Clymeneの娘であり、Alcimedeの嫁入りに際して、多くのMinyansが移住して来て、Aesonisの町に住んでいた。
この遠征で、Jasonは、Colchis地方に住んでいたAeetesの娘Medeaと結婚した。[49]

5.1.3 Lemnosへの移住
BC1236年、Iolcusの町やPheraeの町に居住していたMinyansが反乱を起こした。[50]
Minyansは、Aeacusの子Peleusによって、Thessaly地方から追放されて、Lemnos島やImbros島へ移住した。[51]
Lemnos島は、Pagasetic GulfとColchis地方を結ぶ航路の中継地であり、既に、Minyansが住んでいた。

5.1.4 Lemnosからの退去
BC1115年、Lemnos島やImbros島に住んでいたMinyansは、Athensの町から移住して来たPelasgiansによって、島から追放された。[52]

5.1.4.1 Lacedaemonへの移住
Lemnos島やImbros島から追放されたMinyansの大部分は、Lacedaemonの町へ移住した。[53]
BC1099年、Minyansの一部は、Autesionの子Therasと共に、Thera島へ移住した。[54]
BC630年、Thera島に住んでいたMinyansの一部は、Polymnestusの子Battusに率いられて、Libyaへ移住して、Cyreneの町を創建した。[55]
BC780年、Laconia地方のAmyclaeの町に住み続けていたMinyansは、Doriansとの戦いに敗れて、Peloponnesusから退去した。[56]

5.1.4.2 Cyzicusへの移住
Lemnos島やImbros島から追放されたMinyansの一部は、Cyzicusの町へ移住した。[57]
Cyzicusの住人は、Pelasgiansから名前を変えたDolioniansであった。[58]
Dolioniansは、Ida山南のAntandrosの町へ移住した。[59]

5.2 Eleiaへの移住
BC1277年、Iasiusの子Amphionの娘Chlorisは、Orchomenusの町からEleia地方のPylusの町に住むCretheusの子Neleusに嫁いだ。[60]
Chlorisには、多くのMinyansが同行して、Pylusの町へ移住した。[61]
BC1270年、Minyansは、Pylusの町からEleia地方南部のTriphylia地方のAreneの町へ移住した。[62]
BC1250年、Triphylia地方のAreneの町のAreithousは土地の問題で、Tegeaの町のAleusの子Lycurgusと戦って討ち取られた。[63]
Areithousは、Neleusのもとへ嫁いだChlorisに同行してBoeotia地方のOrchomenusの町からEleia地方へ移住して来たMinyanであった。[64]
Areithousの子Menesthiusは、Minyansを率いて、Troyへ遠征した。[65]

6 Minyansの居住地の広がり
BC1335年、Minyansは、Boeotia地方のAndreis (後のOrchomenus)の町で誕生した。
BC1317年、Orchomenusの町に住んでいたMinyansは、Thessaly地方のPhylaceの町へ移住した。
BC1301年、Orchomenusの町に住んでいたMinyansは、Thessaly地方のPheraeの町へ移住した。
BC1299年、Orchomenusの町に住んでいたMinyansは、Thessaly地方のIolcusの町へ移住した。
BC1277年、Orchomenusの町に住んでいたMinyansは、Eleia地方のPylusの町へ移住した。
BC1270年、Pylusの町に住んでいたMinyansは、Triphylia地方のAreneの町へ移住した。
BC1236年、Thessaly地方に住んでいたMinyansは、Lemnos島やImbros島へ移住した。
BC1188年、Orchomenusの町に住んでいたMinyansは、Athensの町やIonia地方のTeosの町へ移住した。
BC1186年、Troyへ遠征したMinyansは、Sauromataeの地へ移住した。
BC1126年、Athensの町に住んでいたMinyansは、Orchomenusの町へ帰還した。
この時、Minyansの一部は、Arne (後のChaeroneia)の町へ移住した。
BC1115年、Lemnos島やImbros島に住んでいたMinyansは、Laconia地方へ移住した。
BC1115年、Lemnos島に住んでいたMinyansは、Cyzicusの町へ移住した。
BC1099年、Laconia地方に住んでいたMinyansは、Thera島へ移住した。
た。

7 ギリシア暗黒時代
Minyansの大部分は、Boeotia地方西部に住んでいた。
Minyansは、Cyzicusの町、Eleia地方、Ionia地方、Sauromataeの地、Thera島にも住んでいた。

おわり