1 始祖Lapithes (or Lapithus)
BC1387年、AeolusとStilbeとの間に、息子Lapithesが生まれた。[1]
Aeolusは、Deucalionの子Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの息子であり、Thessaly地方のArneの町に住んでいた。[2]
Stilbeは、Deucalionの子Hellenの子Dorusの子Tectamusの子Peneiusの娘であり、Peneius川の北側のDoris地方に住んでいた。[3]
つまり、Lapithesは、Aeolisの父とDoriansの母との間に生まれた。
BC1365年、LapithesはAeoliansを率いて、Arneの町からPeneius川の北側へ移住した。[4]
Lapithesに率いられたAeoliansは、Lapithsに名前を変えた。
Lapithesは、Eurynomusの娘Orsinomeと結婚して、3人の息子たち、Periphas、Lesbos、Phorbasと娘Diomedeが生まれた。[5]
Eurynomusの系譜については不明であるが、Lapithesの母StilbeがDorianであったことから、EurynomusもDoriansであったと思われる。
Lapithesには、その他にAeolusという息子もいたと思われる。
2 Lapiths誕生の地
Lapithesの定住地は、Heracles時代にDoriansとLapithsが争った土地、つまり、Gyrtonの町より西側の土地であったと推定される。[6]
その土地の西側は、Deucalionの子Hellenの子Dorusを始祖とするDoriansが住むDoris地方であった。
つまり、Lapithesは、彼の母の故郷Doris地方と、その東側のAenianiansやPerrhaebiansが住んでいた土地の間に定住した。
3 Lapithesの子Periphas
BC1331年、Periphasは、Doris地方からPeneiusの子Hypseusの娘Astyaguiaを妻に迎えた。PeriphasとAstyaguiaには、8人の息子たちが生まれた。Periphasの後裔は勢力を増してLapithsと呼ばれるようになった。[7]
8人の息子たちのうちで、史料に名前が記されているのは、Antionのみである。[8]
Antionの他に、Elatus、Andraemonという息子もいたと思われる。
3.1 Periphasの子Antion
BC1301年、Antionは、Thessaly地方のPhyllusの町に住むAmythaonの娘Perimelaを妻に迎えた。AntionとPerimelaには、息子Ixionが生まれた。[9]
また、Ixionには、異母兄弟Phlegyasがいた。[10]
3.1.1 Antionの子Ixion (or Gyrton)
BC1276年、Ixionは、Olympus山近くに住むMagnesの子Eioneus (or Deioneus)の娘Diaを妻に迎えた。IxionとDiaには、息子Peirithous (or Pirithous, Perithous)が生まれた。[11]
IxionとPhlegyasは、Lapithsを率いて、Peneius川流域に住んでいたPerrhaebiansを追い出した。[12]
IxionとDiaは、Arneの町のHippotesの子Aeolusを共通の先祖としていた。
Ixionには、もう一人の妻Nepheleがいた。[13]
Nepheleは、Centaurの女性で、Ixionとの間に2人の息子たち、EurytionとImbrusが生まれた。[14]
3.1.1.1 Ixionの子Peirithous
Peirithousの時代には、彼が率いるLapithsは、Peneius川流域に広く居住し、Aenianians、Perrhaebians、Centaursを他へ追い出して、居住地を広げた。[15]
IxionとNepheleの間には、Centaursと呼ばれる半身半獣の種族が生まれたと伝えられている。[16]
Centaursは、裸馬を乗りこなすThessaliansで、Lapithsに追われて、Arcadia地方へ移住したが、Heraclesに滅ぼされた。[17]
Peirithousは、第8代Athens王Pandionの子Teleonの子Butesの娘Hippodameiaと結婚した。彼らの祝宴には第9代Athens王Aegeusの子Theseusも招かれた。[18]
Peirithousの妻Hippodameiaは、Theseusの父方の従兄弟の娘であった。
また、PeirithousとTheseusは、親友であった。[19]
BC1186年、Peirithousの後裔がThessaly地方から追放されたとき、かつての先祖の友好関係によって、Atheniansは、彼らを受け入れた。Peirithousの後裔は、Athensの10部族の一つ、Oineis部族となった。[20]
3.1.1.2 Ixionの子Eurytion
Eurytionは、Centaursの指導者であり、Lapithsと戦った。[21]
3.1.2 Antionの子Phlegyas
BC1280年、PhlegyasとIxionは、Lapithsを率いて、Perrhaebiansを追い出して、Gyrtonの町を創建した。[22]
Gyrtonの町に住んでいたLapithsは、Phlegyasの名前に因んでPhlegyaeと呼ばれていたが、Gyrtoniansと呼ばれるようになった。[23]
Gyrtonの町の名前は、Phlegyasの兄弟Gyrtonに因んで名付けられたとも伝えられている。[24]
しかし、Ixionと、彼の息子Peirithousが、Gyrtonの町を支配していたことから、Gyrtonは、Ixionの別名であったと思われる。[25]
つまり、Phlegyasの時代は、町はPhlegyasと呼ばれていたが、IxionがPhlegyasの跡を継いで、町はGyrtonという名前で呼ばれるようになった。
Phlegyasには、息子Eilatidasと娘Coronisがいた。[26]
3.1.2.1 Phlegyasの子Eilatidas
Eilatidasの娘Coronis (or Epione)は、Triccaの町のAsclepiusに嫁いだ。[27]
Eilatidasが父Phlegyasの跡を継がず、IxionがPhlegyasの跡を継いでいることから、Eilatidasは父より先に死んだと推定される。
3.2 Periphasの息子と思われるElatus
Elatusの子PolyphemusはLapithsであり、Elatusの後裔は、Larissaの町やGyrtonの町に住んでいた。[28]
したがって、Elatusは、Lapithesの子Periphasの息子であったと推定される。[29]
Elatusには、4人の息子たち、Caeneus、Ampycus、Polyphemus、Ischys、それに、2人の娘たち、Dotia、Caenisがいた。
3.2.1 Elatusの子Caeneus
Caeneusの子Coronusは、Lapithsを率いて、Doriansと戦って、Heraclesによって殺された。[30]
Caeneusの後裔Lysidiceは、Telamonの子Ajax (or Aias)と結婚して、Philaeus (or Philius)が生まれた。[31]
Herodotusは、Corinthの町のEetionの子CypselusがPhilaeusの後裔だと2か所で記しているが間違っている。[32]
Corinthの町のCypselusの父方の先祖は、Antasusの子Melasであった。[33]
また、Cypselusの母方の先祖は、DoriansのCorinthの町の最初の支配者Aletesであった。[34]
Herodotusは、Athensの町のMiltiadesの父CypselusをPhilaeusの後裔だと記しており、Athensの町のCypselusとCorinthの町のCypselusとを混同している。[35]
3.2.2 Elatusの子Ampycus
BC1264年、Ampycusは、従兄弟Aeolusの子Melaneusが創建したOechaliaの町へ移住した。[36]
BC1305年にMelaneusがMessenia地方へ移住した後で、住人が少なくなったOechaliaの町へAmpycusが移住して、町を再建したと思われる。[37]
Ampycusは、息子Mopsusと共に予言者であった。彼に予言術を伝授したのは、彼の叔父Antionの妻Perimelaの兄弟Melampusであったと推定される。[38]
3.2.2.1 Ampycusの子Mopsus
BC1243年、Mopsusは、Oechaliaの町からGyrtonの町の北北東へ移住して、Mopsiumの町を創建した。[39]
Mopsusは、Argonautsの遠征の物語に登場する。[40]
3.2.3 Elatusの子Polyphemus
PolyphemusはLarissaの町に住み、Argonautsの遠征の物語に登場する。[41]
3.2.4 Elatusの子Ischys
Ischysは、Gyrtonの町からPhlegyasの娘Coronisを妻に迎え、息子Asclepius (or Aesculapius)が生まれた。[42]
Coronisは、Dotium平原のBoebian lakeのほとりのAmyrusの町で育った。[43]
BC1260年、Ischysは、Triccaの町へ移住した。
Triccaの町は、Dorusの子Tectamusの子Peneiusの娘Triccaの名前に因んで名付けられた町であり、Doriansが住んでいた。[44]
そして、IschysがTriccaの町へ移住した頃、それまで町に住んでいたDeimachusの子Autolycusが黒海南岸のSinopeの町へ移住した。[45]
DorianのAutolycusが去った後、LapithsのIschysがTriccaの町に住んだが、町の住人の多くはDoriansであったと思われる。後のHeraclesとLapithsとの戦いに、Triccaの町は登場しない。
3.2.4.1 Ischysの息子Asclepius
Asclepiusは、Argolis地方のEpidaurusの町で生まれたという伝承がある。[46]
Asclepiusの祖父Phlegyasの母が、Epidaurusの町の出身であった。[47]
Epidaurusの町の人々が、町に縁のあるAsclepiusを信仰して、Asclepiusがその町で生まれたという伝承が生まれたと考えられる。
Straboは、AsclepiusがThessaly地方のTriccaの町を流れるLethaeus川の畔で生まれたと伝えている。[48]
Triccaの町には、Asclepiusの最古の神域があった。[49]
3.2.4.1.1 Asclepiusと医術
ギリシアに医学をもたらしたのは、EgyptianのApisであった。[50]
Apisは、EgyptからArgosの町のAcrisiusに同行して、Argosの町の近くのNaupliaの町へ移住して来た。[51]
Acrisiusの妻Eurydiceの兄弟Amyclasの妻は、Lapithesの娘Diomedeであった。[52]
つまり、Egyptから伝来した医術を最初に習得したのは、Lapithsであったと思われる。
そして、Asclepiusは、その医術をさらに進化させた。[53]
3.2.4.1.2 Asclepiusの息子Machaon
3.2.4.1.2.1 Machaonの妻Anticleia
BC1200年、Machaonは、Messenia地方のPharaeの町に住んでいたDioclesの娘Anticleiaを妻に迎えた。[54]
Machaonが住むThessaly地方北部Triccaの町と、Anticleiaが住むMessenia地方のPharaeの町は、直線距離で280km以上離れていた。
MachaonとAnticleiaとの婚姻は、つぎのようにして成立したと推定される。
Aphareusの子Idasの死後、Neleusの子NestorがMessenia地方を継承したとき、彼に従おうとしない住人がいた。[55]
その住人とは、Aeolusの子PerieresがMessenia地方のAndaniaの町から、統治者として迎えられたとき、Thessaly地方からAndaniaの町へ移住したLapithsと思われる。[56]
Lapithsは、Perieresの子ApahareusがMessenia地方の西海岸に創建したAreneの町にも住んでいた。[57]
Areneの町の近くに、Pylusの町を創建したNestorは、Lapithsを従わせるために、Thessaly地方に住むLapithsの有力者の影響力を利用しようとした。
このとき、Messenia地方のPharaeの町のOrtilochusの子Dioclesも、Spartaの町のTyndareusに脅威を感じていた。[58]
そのため、Messenia地方の盟主Nestorは、Dioclesの娘AnticleiaをLapithsの有力者と結婚させ、その仲介をすることで、Lapithsの支持を得ようとした。
これより少し前に、Thessaly地方のほとんどのLapithsは、Heraclesとの戦いに敗れて、勢力を失い、Triccaの町のAsclepiusのみが勢力を保持していた。[59]
BC1208年、Nestorは、Triccaの町を訪問し、Asclepiusから歓待された。[60]
Asclepiusには、2人の息子たち、MachaonとPodalirusがいたが、Podalirusは結婚適齢期に達していなかった。Machaonには既に3人の息子がいたが、Anticleiaを嫁に迎えることに決まった。[61]
3.2.4.1.2.2 Machaonの後裔
Machaonと最初の妻との息子たち、Polemocrates、Alexanor、Sphyrusは、Argolis地方に住んだ。Anticleiaの2人の息子たち、NicomachusとGorgasusは、祖父Dioclesの跡を継いで、Messenia地方のPharaeの町に住んだ。[63]
Nicomachusの後裔Nicomachusは、Euboea島のChalcisの町からChalcidice半島近くのStageiraの町に植民団を導いた指導者たちの一人の子孫Phaestisと結婚した。
BC384年、NicomachusとPhaestisには、息子Aristotleが生まれた。[64]
3.2.4.1.3 Asclepiusの子Podalirus (or Podalirius or Podaleirius)
3.2.4.1.3.1 Syrnusの創建
Podalirusは、Troyへ遠征して、Achaeansが戦いに敗れた後、予言者Calchas、Peirithousの子Polypoetes、Coronusの子Leonteusと共にAsia Minorを放浪した。[65]
PolypoetesやLeonteusは、Colophonの町に定住した。[66]
Podalirusは、Caria地方のBybastusの町で、Damaethusの娘Syrnaと結婚した。Damaethusは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの息子と推定される。
その後、Podalirusは、Caria地方にSyrnusの町を創建した。[67]
3.2.4.1.3.2 Podalirusの後裔
Asclepiusの子Podalirusの医術を伝える子孫は、Syrnusの町の近くのCos島で生き続けた。医学の父と呼ばれたBC4世紀初頭のHippocratesは、Heraclesから20代目、Asclepiusから19代目の子孫であった。[68]
Cos島には、Heraclesの子Thessalus (or Thettalus)の後裔が住んでいたが、彼らとSyrnusの町に住むPodalirusの後裔と姻戚関係が生じたと思われる。
Hippocratesは、Macedonia王Perdiccasと交友があった。[69]
Hippocratesの子Dracoの子Hippocratesは、Alexander the Greatの死後、Amphipolisの町に幽閉されたRoxaneを治療して、Antipaterの子Cassanderに殺された。[70]
4 Lapithesの子Lesbos
BC1350年、Lesbosは、彼の伯父Macareusが既に入植していたPelasgia島へLapithsを率いて移住し、Macareusの娘Methymaと結婚した。[71]
Pelasgia島は、Macareus入植後、Macareusの家とも呼ばれていたが、Lesbosの名前に因んでLesbos島と呼ばれるようになった。[72]
5 Lapithesの子Phorbas
BC1320年、Lapithesの子Phorbasは、Thessaly地方からRhodes島へ移住した。[73]
PhorbasをRhodes島へ呼び寄せたのは、Macareusの子Leucippusであったと推定される。Phorbasは、Leucippusの父Macareusの兄弟Lapithesの息子であり、PhorbasとLeucippusは、従兄弟同士であった。
Phorbasは、Phoeniciansとの争いに苦しめられていたLeucippus率いるAeoliansに加勢するために、Rhodes島へ渡ったと推定される。
BC1306年、Phorbasは、Rhodes島からPeloponnesus北西部のOlenusの町へ移住した。[74]
Diodorusは、Elis王AlectorがPhorbasを呼び寄せたと伝えている。[75]
しかし、Phorbasは、HeliadaeやAeoliansと共に、Phoeniciansと戦ったが、戦いに敗れて、島から追放されたと推定される。
Leucippusと共にLesbos島からRhodes島へ移住したAeoliansの中には、Aeolusの子Macareusと共にOlenusの町からLesbos島へ移住したAeoliansがいた。[76]
Phorbasは、Aeoliansと共に、Olenusの町へ移住したと考えられる。
Phorbasは、Rhodes島へ移住する前に、娘Pronoeをもうけていた。
Phorbasは、Olenusの町へ移住後、Elisの町のEpeiusの娘Hyrminaを妻に迎えて、息子Actor、娘Astydameiaが生まれた。また、DexamenusもPhorbasの息子と思われる。[77]
5.1 Phorbasの子Actor
BC1285年、Actorは、Olenusの町からElisの町の西の海の近くへ移住して母の名前に因んだHyrminaの町を創建した。[78]
Actorは、Pleuronの町からMolusの娘Molioneを妻に迎え、双子の息子たち、CteatusとEurytusが生まれた。[79]
BC1265年、Actorの兄弟Dexamenusの子Hipponousは、Aetolia地方のPleuronの町とCalydonの町の間に、Olenusの町を創建した。
Aetolia地方に町を建設できたのは、Hipponousの叔父Actorの妻MolioneがPleuronの町の出身であったからであった。[80]
5.1.1 Actorの双子の息子たち
Actorの双子の息子たちは、Olenusの町からDexamenusの双子の娘たち、TheroniceとTheraephoneをそれぞれ妻に迎えた。CteatusとTheroniceからは息子Amphimachus、EurytusとTheraephoneからは息子Thalpiusが生まれた。[81]
CteatusとEurytusは、HeraclesがElisの町を攻める準備をしていると知ったElisの町のAugeasによって、将に任命された。[82]
兄弟は勇猛な戦士であり、HeraclesはElisの町を攻めたが敗北を重ね、勝敗がつかぬままに休戦した。[83]
兄弟は、Heraclesが病気であることを知って攻撃を仕掛けて、多くの者を殺した。 [84]
その中には、Heraclesの異母兄Iphiclesも含まれていた。[85]
休戦中に身内を殺されたHeraclesは、Eleia地方のHyrminaの町からIsthmusの町へ向かう途中の兄弟をArgolis地方のCleonaeの町で襲撃して殺した。[86]
この襲撃で、Heraclesに加勢したCleonaeans 360人が戦死したと伝えられている。
しかし、兄弟の母Molioneが犯人捜しをしたという伝承があることから、少人数による襲撃であったと思われる。[87]
当時、Cleonaeの町には、その町の創建者Pelopsの子Atreusが住んでいた。
Pelopsの娘Eurydice (or Lysidice)の娘Alcmenaの子Heraclesに、Atreusが加勢したと推定される。[88]
5.2 Phorbasの息子と思われるDexamenus
DexamenusがPhorbasの息子であったという伝承はない。しかし、次のことからDexamenusはPhorbasの息子であったと推定される。
1) Phorbasの子Actorの双子の息子たちが、Dexamenusの双子の娘たちと結婚した。[89]
つまり、Dexamenusは、Phorbasより1世代後の人物であった。
2) Dexamenusは、Phorbasと同じくOlenusの町を治めていた。[90]
5.2.1 Dexamenusの子Eurypylus
Eurypylusは、HeraclesのIlium遠征物語に登場する。[91]
5.2.2 Dexamenusの息子と思われるHipponous
AD2世紀の神話作家Apollodorusは、Calydonの町のOeneusが、Olenusの町を攻め落として、Hipponousの娘Periboeaを戦利品として得たと伝えている。[92]
この戦いは、Calydonの町とPleuronの町との戦いの一つと思われるが、海を越えてAchaia地方のOlenusの町がPleuronの町に味方したとは考えられない。このOlenusの町は、Calydonの町とPleuronの町の間にあったAetolia地方のOlenusの町であった。[93]
BC1265年、Hipponousは、Achaia地方のOlenusの町からAetolia地方へ移住して、Olenusの町を創建した。[94]
Hipponousは、彼の義理の叔母Molioneとの関係で、Pleuronの町の近くに町を建設することができた。[95]
Molioneは、Pleuronの町に住むMolusの娘であった。[96]
6 Lapithesの息子と思われるAeolus
Aeolusは、次の理由で、Lapithesの息子と推定される。
1) Aeolusの子Cercaphusの子Ormenusと、彼の息子Amyntorは、Heraclesに攻められて殺された。[97]
Ormenusとの戦いは、HeraclesとLapithsとの戦いの中での出来事であり、OrmenusはLapithsの一員であったと思われる。
2) 系図を作成するとAeolusとLapithsの始祖Lapithesとの生年は、20年しかない。
つまり、AeolusはLapithesの息子であったと推定される。
Aeolusは、Peneius川付近に住み、2人の息子たち、CercaphusとPerieres、それに2人の娘たち、PerimedeとPisidiceをもうけた。[98]
また、Aeolusには、Melaneusという息子もいたと推定される。[99]
6.1 Aeolusの子Cercaphus
BC1293年、Cercaphusは、Peneius川付近からItonusの町へ移住して、Phthia地方からMyrmidonの娘Eupolemeiaを妻に迎えた。CercaphusとEupolemeiaには、息子Ormenusが生まれた。[100]
Cercaphusは、彼の姉PisidiceとMyrmidonの結婚が縁で、Phthia地方へ進出した。[101]
Myrmidonの娘Eupolemeiaの子Aethalidesは、Phthia地方のAmphrysus川近くからArgonautsの遠征に参加した。
Aethalidesが住んでいたのはItonusの町であり、彼はCercaphusの後継者であった。[102]
6.1.1 Cercaphusの息子と思われるAethalides
BC1268年、Aethalidesは、父からItonusの町を継ぎ、Iolcusの町のPeliasの娘Pelopiaを妻に迎えた。AethalidesとPelopiaには、息子Cycnus (or Cygnus)が生まれた。[103]
BC1227年、Cycnusは、Heraclesに攻められて討ち取られた。[104]
6.1.2 Cercaphusの子Ormenus (or Ormenius)
BC1236年、Iolcusの町のMinyansが反乱を起こして、町を破壊した。[105]
BC1235年、Ormenusは、Itonusの町からIolcusの町の東側へ移住して、Ormenionの町を創建した。[106]
BC1227年、Ormenusは、Heraclesに攻められて、息子Amyntorと共に殺された。[107]
Ormenusには、2人の息子たち、AmyntorとEuaemon、娘Astydameia (or Astydamia)がいた。
6.1.2.1 Ormenusの子Amyntor
BC1230年、Amyntorの子Phoenixは、父子の争いが原因で、Phthia地方を治めるPeleusのもとへ亡命し、Dolopia地方を与えられた。[108]
Peleusは、Phoenixの父Amyntorの父Ormenusの母Eupolemeiaの兄弟Actorの子Aeacusの息子であった。つまり、Peleusは、Phoenixの父Amyntorの又従兄弟であった。
BC1227年、Amyntorは、Ormenionの町を攻めたHeraclesと戦って、父Ormeniusと共に殺された。[109]
Phoenixは、Troyへ遠征し、Achillesの配下の5人の将の一人として、第4隊を指揮した。[110]
Troyから帰還したPhoenixは、Achillesの子Neoptolemusと行動を共にし、新天地へ向かう途中、Thermopylae付近で客死した。[111]
6.1.2.2 Ormenusの子Euaemon
Euaemonと彼の息子Eurypylusは、Ormenionの町に住み、Eurypylusは、伯父Amyntorが死に、彼の息子Phoenixが町を出て行った後で、Ormenionの町を継承した。[112]
BC1186年、Eurypylusは、Troyに遠征したが、故郷をThesprotiansに奪われ、Achaia地方のPatraeの町に住み着いた。EurypylusとPatraeの町を結びつけるものはなく、伝承通り、Delphiの神託に従って、その地を決めたのかもしれない。[113]
6.2 Aeolusの子Perieres
BC1310年、Perieresは、跡継ぎが絶えたMessenia地方のAndaniaの町から招かれて、Peneius川付近からAndaniaの町へ移住した。[114]
LacedaemonのLelexの子Polycaonは、彼の妻Messeneの出身地Argosの町から大勢の人々を参加させて、Andaniaの町を創建した。[115]
Andaniaの町の住人は、少し前にAchaeusの息子たちと共にThessaly地方からArgos周辺へ移住したAchaeansであった。[116]
Andaniaの町は、Lacedaemonの分家であった。しかし、住民は自分たちの住む地方をLacedaemonではなく、Polycaonの妻Messeneに因んでMesseniaと呼ぶようになった。Polycaonの後裔が絶えたとき、住民は跡継ぎをLacedaemonからではなく、Thessaly地方から求めた。[117]
Perieresは、Perseusの娘Gorgophoneを娶って、2人の息子たち、AphareusとLeucippusが生まれた。[118]
6.2.1 Perieresの子Aphareus
BC1280年、Aphareusは、Andaniaの町から西海岸へ移住して、Areneの町を創建した。AreneはAphareusの母Gorgophoneが再婚して生まれた娘であり、Aphareusの妻の名前であった。[119]
Pausaniasは、AphareusのもとへThessaly地方のIolcusの町から、彼の従兄弟Neleusが逃れて来て、Pylusの町を含む海沿いの土地を分け与えたと伝えている。[120]
しかし、Pausaniasは別な箇所で、Neleusが住んでいたPylusの町は、Messenia地方ではなく、Eleia地方のElisの町の近くにあったと記している。[121]
また、Pausaniasは、PerieresをHippotesの子Aeolusの息子であったと誤って認識している。AphareusとNeleusは同時代人ではあったが、会うことはなかったと思われる。
AphareusとAreneとの間には、2人の息子たち、IdasとLynceusが生まれた。[122]
6.2.1.1 Aphareusの子Idas
Idasが成人した頃、Spartaの町のTyndareusが、異父兄弟であるAphareusを頼って、Areneの町を訪れた。[123]
その後、Tyndareusは、Aetolia地方のPleuronの町のThestiusのもとへ移住することになり、Idasも一緒に移住した。[124]
Pleuronの町で、Tyndareusは、Thestiusの娘Ledaと結婚し、IdasはEvenusの娘Marpessaと結婚した。[125]
Idasは、娘Cleopatra (or Halcyone)が、Calydonの町のOeneusの子Meleagerと結婚するまで、Aetolia地方に住んでいた。その間、Pleuronの町とCalydonの町との争いが起こり、TyndareusはPleuronの町、IdasはCalydonの町に分かれて戦った。
Aphareusの死後、Idasは父の跡を継ぐために、Areneの町へ戻った。[126]
その後、Tyndareusは、彼の2人の息子たち、CastorとPolydeuces (or Pollux)と共にSpartaの町へ帰還した。[127]
TyndareusとIdasは、Pleuronの町とCalydonの町の敵対関係をそのままPeloponnesusへ持ち込み、Laconia地方とMessenia地方との争いとなった。[128]
まず、Tyndareusは、Andaniaの町のLeucippusを攻めた。Tyndareusの2人の息子たち、CastorとPolydeucesは、捕虜になったLeucippusの2人の娘たちを妻にした。[129]
Andaniaの町への攻撃は、その町がLacedaemonのLelexの子Polycaonにより創建されたからという大義を掲げて行われたと思われる。[130]
つぎに、Tyndareusは、Andaniaの町の近くのOechaliaの町を攻め、Melaneusの子Eurytusを町から追い出した。[131]
徐々にMessenia地方に勢力を拡大するTyndareusに対して、Idasは、Tyndareusの娘Helenを誘拐して、Athensの町のTheseusに預けた。[132]
IdasとTheseusの友Peirithousとは、Lapithsの始祖Aeolusの子Lapithesを共通の祖とする同族であり、IdasとTheseusにも親交があったと推定される。[133]
Tyndareusの2人の息子たちは、Helenを奪い返した。この事件は、Idas兄弟と、Tyndareusや息子たちとの間での直接対決に発展して、彼らは死に絶えた。[134]
6.2.1.2 Aphareusの子Lynceus
Lynceusの妻子については、伝えられておらず、Tyndareusの息子たちとの戦いで、LynceusはPolydeucesに殺された。[135]
AD2世紀のPhilo of Byblosは、LynceusがMessenia地方のPapaeの町に住み、その町の植民市がCrete島にあったと伝えている。[136]
6.2.2 Perieresの子Leucippus
Leucippusは、兄弟Aphareusが沿岸部へ移住してAreneの町を創建した後で、Andaniaの町を継承した。[137]
Leucippusには、3人の娘たち、Hilaira(or Hilaeira)、Phoebe、Arsinoeが生まれた。[138]
Andaniaの町のLeucippusは、Tyndareusに攻められて、HilairaとPhoebeは捕虜となり、Tyndareusの2人の息子たち、CastorとPolydeucesの妻になった。[139]
6.3 Aeolusの息子と思われるMelaneus
BC6世紀の思想家Pherecydesは、Melaneusの父をArcesilausとしている。しかし、一緒に記されている内容が他の史料との相違点が多く、信用できない。[140]
Melaneusは、Lapithesの子Aeolusの息子と思われ、つぎのように居住地を変えたものと思われる。
BC1310年、Melaneusは、Triccaの町の近くにOechaliaの町を創建した。
BC1305年、Melaneusは、Andaniaの町に住むPerieresから招かれてMessenia地方へ移住し、Andaniaの町の近くにOechaliaの町を創建した。
PerieresとMelaneusは、兄弟であったと思われる。[141]
Melaneusには、妻Oechalia (or Stratonica)との間に、息子Eurytusが生まれた。[142]
MelaneusがAeolusの息子と推定される理由は、つぎのとおりである。
1) Melaneusの子Eurytusは、Heraclesに攻められて殺された。[143]
HeraclesとEurytusの戦いは、HeraclesとLapithsとの一連の戦いの中の最後の戦いであった。つまり、Melaneusは、Lapithsの一員であった。
2) 系図を作成するとMelaneusとLapithsの始祖Lapithesとの生年は、59年しかない。
つまり、Melaneusは、Lapithesの孫であったと推定される。
3) Melaneusは、Lapithesの子Aeolusの子Perieresに頼られていたことから、Perieresの兄弟と思われる。
つまり、Melaneusは、Lapithesの子Aeolusの息子と推定される。
6.3.1 Melaneusの子Eurytus
Eurytusは、Messenia地方のOechaliaの町で生まれた。彼は、Argolis地方のNaupliaの町からPyloの娘Antiopeを妻に迎えて、6人の息子たち、Iphitus、Clytius、Deioneus (or Didaeon)、Hippasus、Toxeus、Molion、それに娘のIole (or Iolea)が生まれた。
BC1237年、Eurytusは、Aetolia地方からSpartaの町に戻ったTyndareusに追われてEuboea島へ移住して、Oechaliaの町を創建した。[144]
Euboea島のEretriaの町の古い名前は、Melaneisであり、Eurytusの父Melaneusに因む名前であったと伝えられる。[145]
Euboea島へ移住したEurytusは、Melaneisの町を創建した後で、東北東へ移住して、Oechaliaの町を創建したと推定される。
その後、Thessaly地方で、LapithsはPeneius川近くから勢力を伸ばして、Dotium平原からAenianiansを追い出した。さらに、LapithsはGyrtonの町やLarissaの町にいたPerrhaebiansを追いやり、さらに、Doriansが古くから住み、古くはDoris地方と呼ばれたHistiaeotis地方をも圧迫した。そして、HeraclesがDoriansを助けて、Lapithsとの戦いが始まった。[146]
Thessaly地方でHeraclesに敗れて、居住地を追われて、Euboea島のOechaliaの町のEurytusのもとへ逃げ込んだLapithsは、相当な数であった。Euboea島では、HeraclesとLapithsの最後の戦いとなり、双方ともに多くの犠牲者を出した。Eurytus本人もその中のひとりであり、3人の息子たちも戦死した。[147]
6.3.1.1 Eurytusの子Iphitus
Iphitusは、偶発的な出来事により、Tirynsの町でHeraclesに殺されたと伝えられる。[148]
当時、Iphitusの父Eurytusは、Messenia地方のOechaliaの町にいたが、Iphitus本人は、母の生地であるArgolis地方のNaupliaの町にいたと思われる。[149]
一方、Heraclesは、Naupliaの町のすぐ近くのTirynsの町に住んでいて、Iphitusとは親交があったと推定される。Heraclesは罪を悔い、LydiaのOmphaleの下で3年間奉仕した。[150]
当時、誤って人を殺した者は、他人の家庭に入って、一定期間奉仕するという決まり事があった。[151]
6.3.1.2 Eurytusの子Clytius
Clytiusは、Messenia地方のOechaliaの町からArgonautsの遠征に参加し、Aeetesに殺されたとも伝えられる。[152]
しかし、Euboea島のOechaliaの町でのHeraclesとの戦いで死んだとする伝承もあり、こちらの方が信用できる。[153]
6.3.1.3 Eurytusの子Deioneus(or Didaeon)
Deioneusは、Athensの町のTheseusの妻であったIsthmusの町のSinisの娘Periguneを譲り受けて妻とした。[154]
この結婚の当時、Deioneusは、Messenia地方のOechaliaの町に住んでいたと思われるが、DeioneusとTheseusの関係は不明である。
6.3.1.4 Eurytusの子Hippasus
Hippasusは、Iolcusの町のPeliasの娘Alcestisを妻に迎え、息子Theseusが生まれた。[155]
Hippasusの死後、彼の妻Alcestisは、彼女の息子Theseusを連れて、Pheraeの町のPheresの子Admetusと再婚した。[156]
TheseusはAdmetusのもとで育てられたが、後に、Euboea島の祖父Eurytusの近くで暮らした。[157]
6.3.1.5 Eurytusの2人の息子たち、ToxeusとMolion
ToxeusとMolionは、Heraclesに攻められたEuboea島のOechaliaの町を守って、父や兄弟と共に戦死した。[158]
7 Lapithsの居住地の広がり
BC1365年、Lapithsは、Thessaly地方北部のPeneius川の北側で誕生した。
BC1340年、Peneius川の北側に住んでいたLapithsは、Lesbos島へ移住した。
BC1320年、Peneius川の北側に住んでいたLapithsは、Rhodes島へ移住した。
BC1310年、Peneius川の北側に住んでいたLapithsは、Messenia地方のAndaniaの町へ移住した。
BC1310年、Peneius川の北側に住んでいたLapithsは、Peneius川の上流へ移住して、Oechaliaの町を創建した。
BC1306年、Rhodes島に住んでいたLapithsは、Achaia地方のOlenusの町へ移住した。
BC1305年、Oechaliaの町に住んでいたLapithsは、Messenia地方へ移住して、Oechaliaの町を創建した。
BC1293年、Peneius川の北側に住んでいたLapithsは、Pagasetic Gulf西岸のItonusの町へ移住した。
BC1285年、Achaia地方のOlenusの町に住んでいたLapithsは、Eleia地方へ移住して、Hyrminaの町を創建した。
BC1280年、Andaniaの町に住んでいたLapithsは、Messenia地方の西海岸へ移住して、Areneの町を創建した。
BC1265年、Achaia地方のOlenusの町に住んでいたLapithsは、Aetolia地方へ移住して、Olenusの町を創建した。
BC1260年、Peneius川の北側に住んでいたLapithsは、Peneius川の上流のTriccaの町へ移住した。
BC1247年、Peneius川の北側に住んでいたLapithsは、Peneius川の東側へ移住して、Gyrtonの町を創建した。
BC1246年、Lapithsは、Pelion山周辺へ居住地を広げた。
BC1243年、Oechaliaの町に住んでいたLapithsは、Gyrtonの町の近くへ移住して、Mopsiumの町を創建した。
BC1237年、Messenia地方のOechaliaの町に住んでいたLapithsは、Euboea島へ移住して、Oechaliaの町を創建した。
BC1235年、Itonusの町に住んでいたLapithsは、Iolcusの町の東側へ移住して、Ormenionの町を創建した。
BC1186年、Thessaly地方に住んでいたLapithsは、Argolis地方、Messenia地方のPharaeの町、Achaia地方のPatraeの町、Caria地方、Ionia地方のColophonの町へ移住した。
BC1111年、Thessaly地方に住んでいたLapithsは、Athensの町へ移住した。
8 ギリシア暗黒時代
Lapithsは、Athensの町、Argolis地方、Messenia地方、Ionia地方のColophonの町、Cos島に住んでいた。
おわり