第42章 レムノス島の青銅器時代の歴史

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Create:2025.4.29, Update:2025.4.29

1 はじめに
Lemnos島は、古くはAethaliaと呼ばれていた。[1]
Lemnos島には、Hephaestiaの町とMyrinaの町があった。[2]

2 Creteからの移住
BC1431年、Idaean DactylsとCabeiriは、Troad地方からImbros島、Samothrace島と共にLemnos島へ移住した。[3]
Idaean Dactylsは探鉱のため、Cabeiriは信仰を広めるために島へ移住した。
彼らは、BC1435年、Teucrusと共にCrete島のApteraの町からTroad地方へ移住して来たと推定される。[4]
Idaean DactylsとCabeiriは、Telchinesに属していた。[5]

3 Thessalyからの移住
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Aeolisに追われて各地へ移住した。Pelasgiansの一部は、Thessaly地方からLemnos島やImbros島へ移住した。[6]
その後、Lemnos島やImbros島のPelasgiansの一部は、Silenusの子Manesに率いられて本土へ移住して、Lydia地方に定住した。[7]
彼らは、PelasgiansからMaeoniansに名前を変えた。

4 Maeoniansの移住
4.1 Lydiaからの移住
BC1318年、Hittite王Mursili IIは、Lydia地方を含むArzawa地方を征服した。[8]
Atysの子Tyrrhenusが率いるMaeoniansは、Lydia地方からItaly半島の西海岸地方へ移住した。[9]
しかし、Tyrrhenusの移住には、18年程の時間のズレがある。
つぎのように、Italy半島とLemnos島の関係は深く、Tyrrhenusは、Lemnos島に一度定住した後で、Italy半島へ向かったと推定される。
1) Tyrrhenia海の島(現在のElba島)は、Lemnos島の古い名前と同じく、Aethaliaと呼ばれていた。[10]
2) 古代世界に4つあった迷宮が、Egypt とCrete島以外に、Lemnos島とEtruriaに迷宮があった。[11]
3) Lemnos島は、Tyrhenia島とも呼ばれていた。[12]

4.2 Italyへの移住
BC1300年、Atysの子Tyrrhenusは、Maeoniansと共にItaly半島の西海岸地方へ移住した。[13]
彼らには、Lemnos島に住んでいたIdaean Dactylsも同行したと推定される。
Idaean Dactylsは、Tyrrhenia海のAethalia島へ渡って銅山を発見した。[14]
島の鉱山は、銅が枯渇した後、鉄鉱石も産出するようになった。[15]

5 ThoasとHypsipyle
5.1 Naxosからの移住
BC1256年、Ariadneの子Thoasは、Naxos島からLemnos島へ移住した。[16]
Thoasには、娘Hypsipyleがいた。[17]
Lemnos島には、女たちが男たちを皆殺しにして、Hypsipyleのみが、父Thoasを助けたという伝承がある。[18]
Hypsipyleは、幼くして両親と死別しているが、彼らの死は、Lemnos島で発生した疫病が原因と推定される。
BC5世紀の歴史家Thucydidesは、人々に語り継がれる大規模な疫病災害がLemnos島であったことを伝えている。[19]

5.2 Peloponnesusへの移住
BC1250年、孤児になったHypsipyleは、Lemnos島に住むDionysusの信奉者と共に、Naxos島のDionysusの神官Oenarusと、彼の妻Ariadneの遠征に参加した。[20]
Minosの娘Ariadneは、Hypsipyleの祖母であった。[21]
Hypsipyleは、遠征に参加したAriadneの子Phliasusの養女になり、Phliusの町に住んだ。[22]
Hypsipyleは、Phliusの町からNemeaの町に住むTalausの子Pronaxに嫁いだ。[23]

6 Thessalyからの移住
6.1 Minyansの島
BC1236年、Iolcusの町に住んでいたMinyansが反乱を起こした。[24]
Minyansは、Thessaly地方から追放されて、Lemnos島やImbros島へ移住した。[25]
Minyansは、Argonautsの遠征参加者の代名詞になった。[26]
Lemnos島は、Argonautsが遠征したColchis地方とThessaly地方を結ぶ最短経路に位置していた。
Lemnos島は、Minyansの島になった。

6.2 移住の規模
Cretheusの子NeleusがBoeotia地方のOrchomenusの町からAmphionの娘Chlorisを妻に迎えたとき、多くのMinyansがEleia地方へ移住した。[27]
これと同じく、Orchomenusの町からThessaly地方へ嫁いだ花嫁と共に多くのMinyansがIolcusの町やその周辺の町に移住した。[28]
Orchomenusの町からThessaly地方へ、つぎのような嫁入りがあった。
1) BC1317年、Minyasの娘Clymeneは、Phylaceの町に住むPhylacusのもとへ嫁いだ。[29]
2) BC1301年、Minyasの娘Periclymeneは、Pheraeの町に住むPheresのもとへ嫁いだ。[30]
3) BC1299年、Iasiusの子Amphionの娘Phylomacheは、Iolcusの町に住むCretheusの子Peliasのもとへ嫁いだ。[31]
4) BC1291年、Minyasの娘Clymeneの娘Alcimedeは、Aesonis(or Aeson)の町に住むHippocoonの子Aesonのもとへ嫁いだ。[32]
Iolcusの町やその周辺の町に住んでいて、Lemnos島へ移住したMinyansは、物凄い数であった。後に、PelasgiansにLemnos島から追い出されて、Lacedaemonの町を経由して、Eleia地方へ移住したMinyansは、6つの町を建設した。[33]

7 Dryopiaからの移住
BC1230年、Heraclesとの戦いに敗れたDryopesは、Dryopia地方からEuboea島やArgolis地方へ移住した。[34]
この時、Theiodamas (or Theodamas)の子Euphemusは、Lemnos島へ逃れた。[35]
Euphemusは、Lemnos島で結婚したLamacheとの間に、息子Leukophanesが生まれた。[36]

8 Nemeaからの移住
BC1188年、Hypsipyleの子Euneusは、Achilles率いるAchaeansによるTroy遠征に、Argolis地方のNemeaの町から参加した。
BC1186年、Achaeansは、Iliumの町との戦いに敗れて、各地へ移住した。
Euneusは、Peloponnesusへ帰らず、Lemnos島に定住した。[37]
Euneusの祖父Thoasは、Lemnos島の支配者であった。[38]
Euneusは、当時、Lemnos島に住んでいたMinyansを従わせるために、自分は、JasonとHypsipyleの間の息子だという噂を広めた。[39]

9 Athensからの移住
BC1115年、Pelasgiansは、Athensの町から追放されて、Lemnos島へ移住して来た。[40]

9.1 移住の経緯
それより前、彼らは、Boeotia地方から追放されて、AgrolasとHyperbius率いられて、Athensの町へ逃れた。彼らは、Athensの町で、城壁を築造したり、土地を開墾したりしたが、Atheniansに嫉妬されて追放された。[41]

9.2 Sintians
Pelasgiansは、Atheniansを恨んで、Attica地方のBrauronの町から乙女たちを略奪して、Lemnos島へ連れ帰った。[42]
それ以降、Lemnos島の住人は、「sinesthai」(害する)という意味のあるSintiansと呼ばれるようになった。[43]
Straboは、Thracia地方のThraciansがLemnos島へ渡って、Sintiansと呼ばれるようになったと記している。[44]
Straboは、HomerやThucydidesから情報を得て、そのように理解したようである。
Homerは、SintiansをLemnos島の原住民のように伝えている。[45]
Thucydidesは、Paeonia地方の隣りにSintiansが住んでいたと記している。[46]
実際は、Lemnos島でSintiansと呼ばれたPelasgiansが、Chalcidice半島を経由して、Paeonia地方の近くへ移住したと思われる。

10 Laconiaへの移住
BC1115年、Lemnos島に住んでいたMinyansは、Pelasgiansに追われてLaconia地方へ移住した。[47]

10.1 Herodotusの記述
Herodotusは、「Lacedaemoniansは、MinyansがDioscuriと一緒にArgonautsの遠征に参加した人々の子孫であるという理由で彼らを受け入れた」と伝えている。[48]
Dioscuriは、Lacedaemoniansの王Tisamenusの母Hermioneの母Helenの兄弟であった。[49]
しかし、このHerodotusの記述は、次のことから、作り話と思われる。
1) Argonautsの遠征は、物語であって、Dioscuriは航海していない。
2) Minyansは、Argonautsの遠征物語に登場する英雄たちの子孫ではない。
3) Lemnos島で、Argonautsが子孫を残したという伝承も作り話である。[50]

10.2 Philonomus
この時、移住したMinyansの中に、Philonomusがいた。[51]
PhilonomusはTisamenusの側近となり、Heracleidaeの帰還時には、彼らと裏取引して、TisamenusにAchaia地方への移住を説得した。[52]
Tisamenusが退去した後、Laconia地方は、EurysthenesとProclesに割り当てられた。[53]
Philonomusは、彼らからAmyclaeの町を任せられた。[54]

10.3 Leukophanesの後裔
また、Lemnos島からLaconia地方へ移住したMinyansの中に、Euphemusの子Leukophanesの後裔がいた。[55]
Leukophanesの後裔は、Lacedaemoniansに受け入れられて、Therasの移民団に参加して、Thera島へ入植した。[56]
Euphemus から17世代目の子孫、Polymnestusの子Battusは、Thera島から植民団を率いてLibyaへ移住してCyreneの町を創建した。[57]

11 Cyzicusへの移住
BC1115年、Lemnos島に住んでいたMinyansの一部は、Anatolia半島北西部のCyzicusの町へ移住した。[58]
Cyzicusの町の 住人は、Dolionesであり、彼らの先祖は、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansであった。[59]
BC1248年、Cyzicusの町に逗留したMinyansの船がCyzicusの町の住人に襲撃されるという事件が発生した。[60]
Lemnos島を追い出されたMinyansは、その事件を覚えていて、自分たちの先祖を襲撃したDolionesが住むCyzicusの町へ移住して、彼らを追い出した。[61]
Cyzicusの町を追われたDolionesは、Ida山南側のAntandrosの町へ移住した。[62]

12 Pelasgiansの退去
12.1 Miltiadesの攻撃
BC495年、Lemnos島は、Hellespontian Chersoneseの僭主であるCimonの子Miltiadesの攻撃を受けた。[63]
Herodotusは、Athensの町からLemnos島へ移住して、悪事を働いたPelasgiansがAthensの町に謝罪して、Atheniansから島を要求されたと伝えている。その際、Pelasgiansは、北風を受けた船に乗って、1日で島に到達できたら島を明け渡すと約束したという。[64]
Miltiadesは、Lemnos島の住人に、島からの退去を迫った。[65]
Hephaestiaの町の住人はMiltiadesの要求に従ったが、Myrinaの町の住人は、門を閉ざして、Miltiadesに抵抗した。[66]
結局、Myrinaの町の住人もMiltiadesに屈服した。[67]
Diodorusは、Persiaに対する恐怖心から、住人自らMiltiadesに島を引き渡したと伝えている。[68]

12.2 逸話の真偽
次のことから、Herodotusが伝えているPelasgiansとAtheniansの約束は、作り話と思われる。
1) 620年前の約束を双方が覚えているとは思えない。
2) Miltiadesが出航したChersoneseのElaeusから北風に吹かれてLemnos島には到達しない。Lemnos島は、Elaeusの西南西方向にある。
3) Lemnos島の住人は、Persiaに対する恐怖心から島を捨てたという伝承がある。[69]

12.3 Chalcidiceへの移住
Lemnos島に住んでいたPelasgiansは、Hermonに率いられて、Chalcidice半島へ移住した。[70]
Pelasgiansは、Cleonae, Olophyxis, Acrothoi, Dium, Thyssusの町に定住した。 [71]
この後、5つの町に定住したPelasgiansの一部は、Scyros島へ渡った。[72]
また、Pelasgiansの一部は、Paeonia地方の近くへ移住した。
BC429年、Paeoniansの隣には、Sintiansが住んでいた。[73]

13 Lemnosの住人の変遷
BC1431年、TelchinesがLemnos島の最初の住人になった。
BC1390年、Thessaly地方からPelasgiansが移住して来て、Telchinesと共住した。
その後、Pelasgiansの一部は、本土へ移住し、MaeoniansやCretansが一時的にLemnos島に定住した。
BC1236年、Thessaly地方からMinyansが移住して来て、Lemnos島はMinyansの島になった。
BC1115年、Athensの町からPelasgiansが移住して来て、Minyansを島から追放した。
BC495年、MiltiadesがPelasgiansを島から追放して、Lemnos島はAtheniansの島になった。

14 The stele of Kaminia
19世紀の終わり頃に、Etruscan Alphabetに似た文字が刻まれた石碑が、Lemnos島で発見された。The stele of Kaminiaと呼ばれた、この石碑の製作者を推定してみる。

14.1 Athensから移住したPelasgians
BC1115年にAthensの町から来たPelasgiansは、次のようにして、Lemnos島の住人になった。
BC1560年、Triopasの子Pelasgusの娘Larisa率いるPelasgiansは、Argosの町からThessaly地方へ移住した。[74]
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansの一部は、Italy半島へ移住した。[75]
BC1300年、Italy半島に住んでいたPelasgiansの一部は、Sicily島へ移住した。[76]
BC1240年、Sicily島に住んでいたPelasgiansは、Acarnania地方へ移住した。[77]
BC1188年、Acarnania地方に住んでいたPelasgiansは、Boeotia地方へ移住してCoroneiaの町に定住した。[78]
BC1126年、Boeotia地方に住んでいたPelasgiansは、Athensの町へ移住した。[79]
BC1115年、Athensの町に住んでいたPelasgiansは、Lemnos島へ移住した。[80]
つまり、彼らの先祖は、BC1390年から90年間、Italy半島に住んでいたが、Tyrrheniansの始祖Tyrrhenusに追われた人々であった。彼らの先祖は、Etruscan languageを習得することは不可能であった。
多くの伝承が、Athensの町からLemnos島へ移住した人々をTyrrheniansと呼んでいる。[81]

14.2 TyrrheniansのItalyから移住
BC1115年からBC500年頃までのLemnos島の情勢は不明である。
しかし、この期間に、Lemnos島がTyrrheniaと呼ばれていたことは間違いない。
Athensの町からLemnos島へ移住したPelasgiansは、Tyrrheniansと呼ばれる以前のMaeoniansによって、Italyを追われた人々であり、Tyrrheniansではなかった。
BC1300年、Atysの子Tyrrhenusと共にLemnos島からItaly半島の西海岸地方へ移住したMaeonians(Pelasgians)は、Tyrrheniansと呼ばれるようになった。[82]
BC1115年からBC500年頃までの間に、Italy半島の西海岸地方からLemnos島へ移住して来たTyrrheniansがいたと思われる。
彼らに因んで、島はTyrrhenia、島の住人はTyrrheniansと呼ばれるようになった。

14.3 石碑の製作者
The stele of Kaminiaの製作者は、各地を経由して、Athensの町からLemnos島へ移住したPelasgiansではなく、直接、ItalyからLemnos島へ移住して来たTyrrheniansと推定される。

おわり