第24章 ポキス地方の青銅器時代の歴史

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Create:2023.8.22, Update:2026.2.15
Phocis

1 はじめに
ポキス地方は、古代ギリシア人発祥の地であり、聖なる河ケピソスの流れが始まる所でもあった。[1]
ケピソスという名前は、古代ギリシア人の居住地の広がりと共に各地の川に名付けられ、古代ギリシア世界で最も多い川の名前であった。
また、ポキス地方には、ギリシア最古の神託所のひとつデルポイがあった。
デルポイには、オンパロスと呼ばれる石があり、古代ギリシア人は、その石があった場所が世界の中心であると考えていた。[2]
その地方がポキスという名前で呼ばれるようになったのは、アイアコスの子ポコスの息子たちが、その地方内の各地に居住地を広げた後であった。
アイアコスの子ペレウスの子アキレスの時代、つまり、トロイ戦争時代の頃からである。

2 オギュゴス時代の大洪水
2.1 洪水の発生した年
AD4世紀の歴史家エウセビオスは、『年代記』の中で、アテナイ人の先祖オギュゴスの時代に大洪水があり、初代アテナイ王ケクロプスの即位まで、190年であったと記している。[3]
BC2世紀の年代記作者ロドス島のカストールによれば、ケクロプスのアテナイ王即位は、BC1561年である。[4]
したがって、オギュゴス時代の大洪水は、BC1750年頃の出来事と推定される。

2.2 ギリシア最古の町
大洪水の少し前、クレオポンポスとクレオドラとの息子パルナッソスは、それまで散らばって住んでいた人々を一か所に集めて町を作った。[5]
パルナッソスが創建した町は、ポキス地方北西部のリライアの町の近くに発して、パルナッソス山の北側を流れるケピソス川の右岸にあったと思われる。[6]

2.3 ボイオティアへの移住
アテナイ人の先祖オギュゴスは、エクテネスを率いて、ケピソス川の下流へ移住して、ボイオティア地方に定住した。[7]

2.4 ペロポネソスへの移住
イナコスの2人の息子たち、アイゼイオスとポロネオスに率いられた集団はオギュゴスよりさらに先へ進んで、ペロポネソス半島へ入った。[8]
アイゼイオスは、ペロポネソス半島に入ってすぐの海岸地帯を定住地に決め、アイギアレイア (後のシキュオン)の町を創建した。[9]
ポロネオスは、さらに南下して平野の端に定住した。ポロネオスは散らばって住んでいた人々を一箇所に集めて、ポロネオス (後のアルゴス)の町を創建した。[10]

2.5 リュコレイアの創建
パルナッソスが創建した町は、大洪水によって水没し、人々は、パルナッソス山へ逃れて、リュコレイアの町を創建した。[11]
人々を率いて町を建設したのは、パルナッソスの娘コリュキアの子リュコロス (または、リュコレウス)であった。[12]
リュコレイアの町には、デルポイ人が住んでいて、後に、デルポイの神域の近くに移り住んだ。[13]

2.6 デルポイの創建
パウサニアスが伝えている系譜によれば、デルポイの町の名付け親デルポスは、リュコロスの子ピュアモスの娘ケライノの息子であった。[14]
つまり、リュコレイアの町から移住して、デルポイの町を創建したのは、BC1690年と推定される。[15]

3 BC15世紀のポキス
3.1 トラキアからの移住
BC1420年、トラキア地方のストリュモン川流域に住んでいたエドノイの一部が、ドリュアスの子リュクルゴスの子テレウスに率いられて、後のダウリスの町の近くへ移住した。[16]
テレウスは、第5代アテナイ王パンディオンの娘プロクネ (または、プログネ)と結婚した。[17]
その後、テレウスはポキス地方からメガラ地方のパガイの町の近くへ移住した。[18]

3.2 アルゴスからの移住
3.2.1 アバイの創建
BC1408年、リュンケウスの子アバスは、アルゴスの町からポキス地方へ移住して、アバイの町を創建した。[19]
アバスの祖父ダナオスと共にエジプトから渡来したオロスの後裔がアルゴス地方のトロイゼンに、レレクスの後裔がラケダイモンやメガラに住んでいた。何故、アバスの移住先がポキス地方であったのかは不明である。
AD6世紀のビザンチウムのステファヌスは、アバイにデルポイより古い神託所があったと伝えているが、それが、アバスがポキス地方を移住先に選んだ理由かもしれない。[20]
しかし、アバイから神託を受けたと古代ギリシアの史料に、最初に登場するのは、リュディア王クロイソスである。[21]
したがって、アバスの時代にアバイの神託所はなかったかもしれない。
BC1407年、アバスは、アバイの町からアルゴスの町へ帰還した。[22]
その後、アバイの町はアバスの子デウカリオーンに委ねられた。[23]

3.2.2 アバスの子デウカリオーン
リュンケウスの子アバスには、双子の息子たち、プロイトスとアクリシオス、それに、庶子リュルコスがいたことが知られている。[24]
アバスには、その他に、デウカリオーンという名前の息子がいたと思われる。
しかし、アリスティッポスが書いた『アルカディアの歴史』の中で、アバスにもデウカリオーンという息子がいたと記されている。そのアバスは、アルカディア地方のマンティネウスの娘アグライアと結婚した、リュンケウスの子アバスと推定される。[25]

3.2.3 デウカリオーンの子リュンケウス
デウカリオーンの子リュンケウスは、アルゴスの町のプロイトスの子メガペンテスに殺され、リュンケウスの子アバスはメガペンテスを殺害した。[26]
リュンケウスとメガペンテスは従兄弟同士であり、メガペンテスはミュケナイの町のダナエの子ペルセウスをも殺害している。アルゴス、ミュケナイ、アバイの3つの町の間で、争いがあったようである。

4 BC14世紀のポキス
4.1 テッサリアからの移住
BC1365年、アイオロスの子デイオン (または、デイオネ、デイオネオス)は、テッサリア地方のアルネの町から、ポキス地方へ移住した。[27]
デイオンは、クストスの娘ディオメデを妻に迎えて、息子たち、アイネトス、アクトール、ピュラコスとケパロス、娘アステロディアが生まれた。[28]

4.2 プレギュアス人のデルポイ略奪
BC1350年、ボイオティア地方に住んでいたプレギュアス人がデルポイの神域を荒らした。
史料に記録が残る最初のデルポイ略奪であった。[29]
プレギュアス人は、オルコメノス王プレギュアスが各地から集めた戦士の集団であった。[30]
デルポイ人は、各地に救援を求めた。

4.2.1 アルゴスからの援軍
ピラモン率いるアルゴスの町の精鋭部隊は、プレギュアス人と戦ったが、ピラモンは戦死した。[31]
当時、アルゴスの町を支配していたアバスの子アクリシオスは、この事件を契機に隣保同盟を組織化した。[32]
アルゴス人を率いたピラモンは、アクリシオスの息子と推定される。跡取り息子を失ったアクリシオスは、エジプトに住む彼の娘ダナエの息子ペルセウスを後継者にした。[33]

4.2.2 アルカディアからの援軍
アルカスの子エラトス率いるアルカディア人は、プレギュアス人と戦って、プレギュアス人を撃退した。[34]
プレギュアス人はポキス地方からボイオティア地方へ戻り、テバイの町のアンピオンの死後、エウリュマコス率いられてテバイの町に攻め込んで略奪した。[35]

4.3 エラテイアの創建
アルカスの子エラトスは、プレギュアス人を追い出した後もポキス地方に残り、エラテイアの町を創建した。[36]
ローマ時代のエラテイアの町は、ポキス地方最大の町であったが、ホメロスはエラテイアの町に言及しておらず、トロイ戦争の後で発展した町と推定される。[37]

4.3.1 ダフノスの創建
エラテイアの町から北へ約23kmの海の近くにあるダフノスの町は、エラテイアの町の住人によって創建された植民市と推定される。[38]
ポキス地方に属するダフノスの町は、ロクリス・エピクネミディオス地方をエピクネミディス地方とオプス地方に分離していた。[39]
つまり、ポキス地方には、北の海に面した港がダフノスの町にあったが、町が破却されて、ロクリス地方になり、ロクリス・エピクネミディオス地方は、1つに繋がった。[40]

4.4 テッサリアへの移住
BC1325年、デイオンの子ピュラコスは、ポキス地方からテッサリア地方へ移住して、パガサイ湾の北東にピュラケの町へ移住した。恐らく、ピュラコスは、ピュラケの町の創建者と思われる。[41]
ピュラコスの父デイオンは、テッサリア地方のアルネの町からポキス地方への移住者であった。[42]

4.5 ヒュアンポリスの創建
BC1310年、ボイオティア地方に古くから住んでいたヒュアンテスは、アバイの町の近くに移住して、ヒュアンポリスの町を創建した。[43]
BC1420年、テバイの町周辺に住んでいたヒュアンテスは、カドモスに追われて、オンケストスの町の周辺へ移住した。[44]
BC1370年、アタマスの養子になったコロノスとハリアルトスが、オンケストスの町の近くに、コロネイアの町やハリアルトスの町を創建した。[45]
このとき、ヒュアンテスは、コパイス湖の北西へ移住したと推定される。
BC1350年、オルコメノスの子アスプレドンは、コパイス湖の北西にアスプレドンの町を創建した。[46]
その後、アスプレドンは、アスプレドンの町から南南西へ移住して、ミデイアの町を創建した。[47]
恐らく、アスプレドンは、ヒュアンテスとの戦いで、再移住したと思われる。
BC1310年、ヒュアンテスは、アスプレドンの町の近くから北北西へ移住して、ヒュアンポリスの町を創建した。[48]
ヒュアンテスの移住は、オルコメノスの町との戦いによって起きたと推定される。
このとき、オルコメノスの町は、クリュセの子ミニュアス治世で、黄金期を迎えていた。[49]

4.6 エウボイアへの移住
BC1310年、リュンケウスの子アバスは、アバイの町からエウリポス海峡を渡って、エウボイア島のカルキスの町へ移住した。[49-1]
アバスの移住の原因は、アバイの町近くにヒュアンポリスの町を創建したヒュアンテスとの戦いであったと推定される。
カルキスの町は、BC1360年に、第6代アテナイ王エレクテウスの息子パンドロスによって創建されていた。[49-2]
エウボイア島はマクリスと呼ばれていたが、アバンティス(または、アバンティアス)と呼ばれるようになった。また、エウボイア島の住人は、アバンテスと呼ばれるようになった。[49-3]
アバスと共に、彼の兄弟と思われるクリオスもエウボイア島へ移住した。[49-4]

4.7 ナウボロレンセスの創建
BC1310年、アバスの兄弟と思われるオルニュトスは、アバイの町から西北西方向へ約33kmの所へ移住して、町を作った。オルニュトスには息子ナウボロスが生まれ、町はナウボロレンセス (後のドリュメイア)と呼ばれるようになった。[49-5]
オルニュトスの移住の原因も、ヒュアンポリスの町へ逃れて来たヒュアンテスとの戦いであったと推定される。

4.8 キュパリッソスの創建
BC1305年、ミニュアスの子キュパリッソスは、オルコメノスの町からデルポイの近くへ移住して、キュパリッソスの町を創建した。[50]

5 BC13世紀のポキス
5.1 アンティキュラの創建
BC1280年、キュパリッソスの子アンティキュレウスは、アンティキュラ湾の海岸地帯に移住して、アンティキュラの町を創建した。[51]
アンティキュレウスは、ヘラクレスの狂気をヘレボロスという植物で治した。[52]
ヘレボロスは、下剤として使われていたことから、ヘラクレスは便秘で苦しんでいたのかもしれない。[53]

5.2 エウボイアからの移住
BC1270年、エウボイア島のクリオスの子ティテュオス (または、ティテュウス)は、後にパノペウスの町になる土地に移住した。[54]
ティテュオスの父がクリオスだと直接伝えている史料はないが、つぎの理由で、ティテュオスはクリオスの息子であったと推定される。
1) デルポイに関連してアポロに殺されたのは、オルコメノスの娘エラレの子ティテュオスであった。[55]
2) アポロに殺されたのは、エウボイア島のクリオスの息子であった。[56]
ティテュオスはエウボイア島で生まれたが、父の故郷アバイの町や、母の故郷オルコメノスの町に近いパノペウスの町に移住したと推定される。

5.3 ボイオティア人との戦い
5.3.1 デルポイの神域荒らし
BC1264年、クリオスの子ティテュオスは、デルポイの神域や周辺を荒らして討ち取られた。[57]
デルポイ人が頼ったのは、ティテュオスの母の故郷オルコメノスの町ではなく、オルコメノスの町に敵対していたテバイの町であった。[58]
テバイの町のラブダコスの子ライオスは、プラタイアの町のダマシストラトスと共にティテュオスと戦った。
ライオスとティテュオスは死に、両者ともパノペウスの町に埋葬された。[59]
ティテュオスの娘エウロパは、パノペウスの町に住み続けて、ケピソス川の近くで、息子エウペモスを産んだ。[60]

5.3.2 アポロの伝承
パウサニアスは、ティテュオスを討ち取ったアポロについて、つぎのように伝えている。
アポロは、デルポイの神域を荒らしたクリオスの子ティテュオスを殺した。[61]
その後、アポロは、クレタ島西南部のタッラの町に住むカルマノールのもとへ行き、浄められた。[62]
そして、アポロは、カルマノールの家で、ミノスの娘アカカリスと結婚した。[63]
そのアポロとは、ヒュペルボレオス人のヒュペロコス、あるいは、ラオドコス(または、アマドコス)だと推定される。
ヒュペロコスとラオドコスは、ヒュペルボレオス人の地からデロス島へ奉納品を届けるヒュペルボレオス人の娘たちの道中を警護するペルペレエスであった。[64]
彼らは、ドドナからマリス地方へ向かう途中で、デルポイを通り、デルポイ人からの求めで、クリオスの子ティテュオスを討ち取ったものと思われる。デルポイ人は、ヒュペロコスとラオドコスを英雄として供犠を行っている。[65]

5.3.3 パウサニアスの誤り
パウサニアスは、デルポイの神域の略奪の歴史を述べている。その中で、パウサニアスは、最初にクリオスの息子、その次に、プレギュアス人がデルポイの神域を略奪したと記しているが、その逆であった。[66]
プレギュアス人と戦ったのは、アルカディア地方のアルカスの子エラトスであった。[67]
クリオスの子ティテュオスを討ち取ったアポロは、ミノスの娘アカカリスと同時代であった。[68]
アカカリスと同時代のヘラクレスと一緒に、ラケダイモンのオイバロスの子ヒッポコーンと戦ったケペオスは、アルカスの子エラトスより前の時代の人物ではない。
ケペオスは、アルカスの子エラトスの兄弟アペイダス(または、アピダス)の子アレウスの子リュクルゴスの息子であった。[69]
つまり、プレギュアス人がデルポイの神域を荒らしたのは、クリオスの息子より、3世代前の出来事であった。

5.4 スティリスの創建
BC1277年、オイネウスの子ペテウスは、オイネウスの彼の義兄弟アイゲウスによって、アッティカ地方のスティリアの町から追われて、ポキス地方へ移住した。ペテウスはポキス地方の南東部にスティリスの町を創建した。そこから、東北東に約11km離れたレバデイアの町にも、アイゲウスに追われて移住したレバドスが住んでいた。[70]
レバドスは、ペテウスの兄弟と思われる。[71]

5.5 アイギナからの移住
BC1256年、アイアコスの子ポコスは、アイギナ島からポキス地方北西部のナウボロレンセス (後のドリュメイア)の町へ移住した。[72]
ナウボロレンセスの町には、オルニュトスの子ナウボロスが住んでいたが、ポコスを共住者として受け入れた。その後、ナウボロスの娘アンティパテイアとポコスの子クリソスは結婚した。[73]
クリソスとアンティパテイアには、息子ストロピオスが生まれた。[74]

5.6 アポロの神託所の創建
パウサニアスは、デルポイの神託所がテミスからアポロに引き継がれたと伝えている。[75]
神託所の創建者のひとりであるリュキア地方のオレンは、詩人オルペウスより前に生まれた。[76]
オレンは、アテナイの町からリュキア地方へ移住したパンディオンの子リュコスの息子であり、BC1280年生まれと推定される。[77]
神託所の最初の女性予言者ペモノエは、オルペウスより、27年前の人物であった。[78]
このオルペウスは、有名な詩人ではなく、アルゴ船のひとりであり、ペモノエは、BC1290年頃の生まれと推定される。
ピュティア祭でのアポロンへの賛歌を歌う競技会の最初の勝利者は、アポロを浄めたカルマノールの娘クリュソテミスであった。[79]
クリュソテミスは、ミノスの娘アリアドネの子スタピュロスの妻であり、BC1268年生まれと推定される。
カルマノールが浄めたアポロとアカカリスの結婚などから総合的に判断すると、デルポイにアポロの神託所が設置されたのは、BC1255年と推定される。

5.7 パノペウスへの移住
BC1250年、ポコスの子パノペウスとナウボロスの子イピトスは、ナウボロレンセス (後のドリュメイア)の町からパノペウスの町へ移住した。[80]
イピトスは、パノペウスの兄弟クリソスの妻アンティパテイアの兄弟であった。[81]
つまり、パノペウスとイピトスは義兄弟であった。
町は、ポコスの子パノペウスの名前に因んで、パノペウスと呼ばれるようになった。[82]
パノペウスの町には、ナウボロスの父オルニュトスの兄弟と思われるクリオスの子ティテュオスが住んでいたが、デルポイの神域を荒らして、討ち取られた。
パノペウスとイピトスがパノペウスの町へ移住したとき、町にはティテュオスの娘エウロパが住んでいた。イピトスとエウロパは、又従兄妹であった。[83]
BC1248年、イピトスは、アルゴ船の遠征隊を率いるイアソンが神託を得るためにデルポイを訪問した際に、彼の案内役を務めた。[84]

5.8 クリッサの創建
BC1240年、ポコスの子クリソスは、ナウボロレンセスの町からパルナッソス山を越えて、デルポイの近くへ移住して、クリッサの町を創建した。[85]

5.9 アルゴス地方からの嫁入り
BC1232年、クリッサの町のポコスの子クリソスは、アルゴス地方のクレオナイの町からペロプスの子アトレウスの娘キュドラゴラを妻に迎えて、娘アナクシビア (または、アナクシビア)が生まれた。[86]

5.10 コリントスからの移住
BC1230年、シシュッポスの子オルニュティオンの子ポコスは、コリントスの町からポキス地方のネオン(後のティトレア)の町へ移住した。[87]
パウサニアスは、ティトレアの町にあるオルニュティオンの子ポコスと彼の妻アンティオペの墓に関する伝承を記している。
BC7世紀のバキスは、ティトレア人がテバイの町にあるアンピオンとゼトスの墓から土を盗んで、オルニュティオンの子ポコスと妻の墓に運ぶと、ティトレアの町は豊作になり、テバイの町は凶作になると予言した。[88]
バキスや彼と同時代のテバイ人やティトレア人、それに、パウサニアス自身も、オルニュティオンの子ポコスの妻アンティオペは、アンピオンとゼトスの母だと信じていたようである。[89]
その原因は、アンピオンとゼトスの母アンティオペの伝承に登場するエポペウスの父アロエウスの父シシュッポスと、ポコスの父オルニュティオンの父シシュッポスを同一人物だと思っていたためであった。
しかし、どちらのシシュッポスもコリントス王であったが、前者は初代コリントス王であり、後者はイアソンの跡を継いだ、第9代コリントス王であった。

5.11 ドリュオピアからの移住
BC1230年、 ヘラクレスは、デルポイの神殿に不敬を働いたドリュオプス人をドリュオピア地方から追放した。[90]
ドリュオプス人は各地へ移住したが、一部は、キッラの町の近くに定住して、クラガリダイと呼ばれた。[91]
クラガリダイは、アンピッソスの子ドリュオプスの子クラガレウスの後裔と推定される。[92]

6 BC12世紀のポキス
6.1 キッラの創建
BC1190年、ポコスの子クリソスの子ストロピオスの子ピュラデスは、クリッサの町から南へ移住して、クリッサ湾の岸辺にキッラの町を創建した。[93]

6.2 トロイ戦争の時代
6.2.1 トロイ遠征
BC1188年、ナウボロスの子イピトスの2人の息子たち、スケディオスとエピストポスは、ポキス人を率いて、トロイへ遠征した。[94]
スケディオスはトロイで戦死して、エピストポスはスケディオスの遺骨を持ち帰った。[95]

6.2.2 ボイオティアからの移住
BC1188年、ボイオティア地方へトラキア人やペラスゴイ人が侵入して町を占拠したが、その混乱で、プレギュアス人がパノペウスの町を占拠した。
BC1215年、プレギュアス人は、ミニュアス人の地に住んでいたが、ローマ時代には、パノペウスの町に住んでいた。[96]
パノペウスの町に住み、デルポイへの参拝者を恐れさせたプレギュアス人の王ポルバスは、トロイ戦争時代の後の人物だと思われる。[97]
トロイから帰還したイピトスの子エピストポスは、ペラスゴイ人に占拠されたパノペウスの町への帰還を断念して、アンティキュラの町に移住した。[98]
スケディオスとエピストポスの墓は、アンティキュラの町にあった。[99]

6.2.3 ボイオティアへの移住
BC1188年、ヒュアンポリスの町のヒュアンテスは、ボイオティア地方のオルコメノスの町へ侵入して住人を追い出して占拠した。[100]
町を追われたオルコメノス人は、アイオロスの子アタマスの後裔アタマスに率いられてイオニア地方のテオスの町へ移住した。[101]
また、オルコメノス人の一部は、アテナイの町に受け入れられて、ムニュキアの町に住んだ。[102]
BC1126年、ムニュキアの町に避難していたオルコメノス人は、テッサリア地方のアルネの町から帰還したボイオティア人と共に、オルコメノスの町からヒュアンテスを追放した。[103]
ヒュアンテスは、再び、ヒュアンポリスの町へ戻った。

6.3 モロッソス人との戦い
BC1175年、アキレスの子ネオプトレモスはモロッソス人を率いて、デルポイを略奪し、デルポイ人を率いたダイタスの子マカイレウスと戦って、戦死した。[104]
ネオプトレモスと共に、彼の兄弟オネイロスも、ポキス人との戦いで、アガメムノンの子オレステスに討ち取られた。[105]
オレステスは、クリソスの子ストロピオスの子ピュラデスと共にデルポイ人に加勢していた。
ピュラデスは、オレステスの姉妹エレクトラ (または、ラオディケ)の夫であり、オレステスの義兄弟であった。[106]
ピュラデスは、デルポイの外港キッラの町に住んでいた。[107]

6.4 メデオンの創建
BC1150年、ピュラデスの子メドンは、キッラの町から東へ移住して、メデオンの町を創建した。[108]
ホメロスは、軍船目録の中で、ボイオティア地方のメデオンの町の名前を挙げているが、その町はトロイ戦争時代には存在していなかった。[109]
ストラボンは、ボイオティア地方のメデオンの町の名前は、ポキス地方のメデオンの町の名前に因んでいると伝えている。[110]

6.5 ヘラクレイダイの帰還
BC1115年、アリストマコスの子アリストデモスは、ピュラデスの息子たち、メドンとストロピオスによって、デルポイで殺害された。[111]
アリストデモスは、ペロポネソスへの帰還を準備していたヘラクレイダイの総領であった。
アリストデモスの死後、彼の兄弟テメノスがヘラクレイダイを率いることになった。
メドンとストロピオスは、オレステスの子ティサメノスの従兄弟たちであり、ヘラクレイダイとは敵対関係にあった。[112]
当時、ストロピオスはキッラの町、メドンはメデオンの町に住み、ドーリス地方に住んでいたヘラクレイダイの動静を把握していたと推定される。

7 BC11世紀以降のポキス
7.1 隣保同盟との戦い
BC595年、キッラ (または、キュッラ)の町の住人は、デルポイの神域に狼藉を働いたため、隣保同盟は町を攻めた。シキュオンの町の僭主クリステネスが総大将になり、アテナイの町のソロンが助言者になった。[113]
デルポイに残された記録によれば、アテナイ人は、アルクマイオンに率いられて、この戦いに参加した。[114]
また、テッサリア人は、エウリュロコスやラッタミュアスに率いられて、戦いに参加した。[115]
BC594年、ラッタミュアス率いるテッサリア人はボイオティア地方にも侵入して、テスピアイの町付近での戦いで、テバイ人に敗れた。[116]

おわり