1 はじめに
BC15世紀、アナトリア半島では、ヒッタイトが勢力を拡大させていた。[1]
アナトリア半島北西部に初めて定住したギリシア人は、クレタ島から移住したテウクロイ族であり、彼らの移住は、BC1435年であった。
テウクロイ族に、アルカディア地方から移住して来たペラスゴイ人が合流して、彼らの国は、トロイと呼ばれるようになった。
その後、古くから存在していたヒッタイトの属国ウィルサをも取り込んで、トロイは、急速に勢力を拡大した。
このトロイの勃興によって、タンタロスの子ペロプスがペロポネソスへ移住することになった。
2 トロアスへの移住
2.1 クレタからの移住
2.1.1 クレタでの鉄の発見
AD1世紀の哲学者トラシュロスは、「洪水」からクレタ島での「鉄の発見」までは73年であったと伝えている。彼は、さらに「鉄の発見」から「アドラストスのテバイ攻め」まで、220年であったと伝えている。
アドラストスによるテバイ攻めは、BC1215年と推定されるので、「洪水」はBC1508年の出来事になる。[2]
ヘレンの父デウカリオーン時代の大洪水は、つぎの理由からBC1511年に起こったと推定されるので、この「洪水」に一番近い。
BC2世紀の年代記作者カストールは、この洪水は初代アテナイ王ケクロプスの時代に発生したと伝えている。AD2世紀の著述家アポロドロスは、第2代アテナイ王クラナオスの時代であったと伝えている。つまり、初代アテナイ王ケクロプスから第2代アテナイ王クラナオスに代わった年に起こったものと推定される。[3]
カストールのアテナイ王たちの一覧をもとに、第1回オリュンピアード(BC776年)から逆算すると、ケクロプスからクラナオスに代わった年は、BC1511年となる。[4]
したがって、クレタ島のイダ山で鉄が発見された年は、デウカリオーン時代の「洪水」(BC1511年)から73年後のBC1438年と推定される。
2.1.2 イダ山のダクテュロスの誕生
クレタ島で、最初に鉄を発見したのは、ケルミス (または、ケルミス)とダムナメネオスであった。[5]
BC5世紀の悲劇詩人ソフォクレスは、クレタ島のイダ山麓に住む「ある人物」に5人の息子たちが生まれ、彼らが初めて鉄を発見したと伝えている。[6]
彼らは、さらに鉄の加工法を発明し、クレタ島のベレキュントス地方にあるアプテラの町で、鉄の製錬と焼き戻しを教え、彼らはイダ山のダクテュロスと呼ばれるようになった。[7]
2.1.3 イダ山のダクテュロスの祖先
クレタ島で、最初に鉄を発見したのはテルキネス族であり、その一族から冶金術に優れたイダ山のダクテュロスが生まれた。[8]
テルキネス族は、古代エーゲ海世界に技術革新をもたらした超越した種族であった。彼らは航海術に優れた海の子であり、発明者であり、紹介者であり、時には科学的な知識を持った魔術師であった。[9]
BC1690年、テルキネス族の始祖である、シキュオンの町のテルキンは、アルゴスの町のアピスと戦って敗れた。テルキンの子クレスは、クレタ島へ移住した。[10]
クレスの子タロスの子ヘパイストスは、カベイロイの祖カベイロと結婚した。テルキネス族には、宗教的な要素も加わり、テルキネス族とカベイロイとイダ山のダクテュロスは同一視された。[11]
2.1.4 トロアスへのテウクロスの移住
クレタ島で最初に鉄を発見して、イダ山のダクテュロスと呼ばれたケルミス (または、ケルミス)とダムナメネオスは、キュプロス島でも鉄を発見した。彼らは、鉄を求めて、活発に探鉱活動をしていたことが分かる。[12]
彼らの兄弟の一人に、イダ (または、イドテア)の子テウクロス (または、テウクロス, テウクロス)がいた。[13]
BC1435年、テウクロスは、移民団を率いて、アプテラの町を出港し、アナトリア半島北西部トロアス地方のハマクシトス付近に上陸した。[14]
テウクロスに同行したイダ山のダクテュロスは、ハマクシトスから北へ鉱脈を探索して、イダ山周辺に有望な場所を見つけた。彼らは、その地に定住し、沖合に浮かぶレムノス島などの島々へも探索範囲を広げた。BC1425年、カドモスがサモトラケ島に寄港したときには、彼らは、既にその島にいた。[15]
また、テウクロスの移民団には、カベイロイも含まれていた。カベイロイは、カベイロイ信仰を広めるために、イダ山のダクテュロスに同行して、サモトラケ島へも渡った。
テウクロスは、ヘレスポントus海峡の近くにテウクリス (後のダルダノス)の町を創建した。[16]
2.2 アルカディアからの移住
2.2.1 アルカディアからサモトラケへの移住
BC1430年、アルカディア地方中央部に長期的な洪水が発生し、メテュドリオンの町に住んでいたリュカオンの子オルコメノスの娘エレクトラの子ダルダノスも被災した。[17]
メテュドリオンの町は、標高約1,000mの高地を流れるマロイタス川とミュラオン川の間の小高い丘の上にあった。[18]
ダルダノスは住民を率いてペロポネソス半島を去って、エーゲ海を北上して、ヘレスポントス海峡手前のメラス湾の沖合に浮かぶサモトラケ島へ移住した。[19]
2.2.2 サモトラケからトロアスへの移住
ダルダノスの弟イアシオンは、キュベレと結婚して、息子コリュバスが生まれた。[20]
キュベレは、テウクロスの移民団の中にいて、イダ山のダクテュロスと共にクレタ島からサモトラケ島へ渡ったカベイロイの一人であった。
BC1425年、カドモス率いる移民団がサモトラケ島に滞在し、カドモスはダルダノスの姉妹のハルモニアと結婚した。[21]
カドモスの移民団は、さらにトラキア地方へ向かって、サモトラケ島を出航した。カドモスには、島にいたイダ山のダクテュロスやカベイロイも同行した。カドモスは、カルキディケ半島北部のパンガイオン山の近くで金鉱を発見しているが、イダ山のダクテュロスの功績であった。[22]
BC1420年、サモトラケ島を突然大津波が襲った。このとき、イアシオンとダルダノスの妻クリュセ (または、キュセ)は津波の犠牲になった。ダルダノスはキュベレと彼女の息子コリュバスを連れて、サモトラケ島を去った。[23]
ダルダノスは、キュベレに案内されて、トロアス地方のテウクリスの町へ移住して、テウクロスと共住した。[24]
ダルダノスは、テウクロスの娘バテイアと再婚し、テウクロスの死後、ダルダノスがその地方を継承した。[25]
テウクリスの町は、ダルダノスの町と呼ばれるようになった。[26]
2.2.3 キュベレとコリュバス
ダルダノスと共にトロアス地方へ渡った、イアシオンの妻キュベレとコリュバスは、イダ山のダクテュロスと共にイダ山麓に定住した。[27]
イダ山の山頂から北北西方向へ7kmほどの所のコリュビッサに神域があったと伝えられる。[28]
キュベレとコリュバスは、その付近に住んでいたと推定される。
キュベレは、女神として崇められ、コリュバスは母の儀式を祝う者たちをコリュバンテスと呼んで、人々に踊りを伝えた。[29]
コリュバスは、イダ山の南東のテーベの町からキリクスの娘テーベを妻に迎えて、娘イデが生まれた。[30]
その後、キュベレは、プリュギア地方のペッシヌスの町に移り住み、「神々の母神」、「山の母」、「プリュギアの大女神」等と呼ばれるようになった。[31]
2.3 クレタからの移住
2.3.1 アルカディアからクレタへの移住
BC1450年、テゲアテスの子キュドンは、アルカディア地方のテゲアの町からクレタ島北西部へ移住して、アプテラの町の近くにキュドニアの町を創建した。[32]
2.3.2 キュドンとエウロパの結婚
BC1425年、アゲノールの子カドモス率いる移民団がキュドニアの町に寄港し、移民団の中にいたポイニクスの娘エウロパは、キュドンと結婚した。[33]
キュドンとエウロパは、アルゴスの町のポルバス (または、ペラントス、 ピラス)の子トリオパス (または、トリオプス)を共通の先祖とするペラスゴイ人であった。
キュドンとエウロパの間には2人の息子たち、ミノスとカルデュスが生まれた。[34]
BC1420年、クレタ島北岸を大津波が襲ってキュドニアの町を破壊した。この津波でキュドンは死んだ。エウロパは、大津波の後でペロポネソスからクレタ島へ移住してきたテクタモスの子アステリオスと再婚した。エウロパは、ミノスとカルデュスをキュドニアの町に残して、クノッソスの町へ移り住んだ。[35]
ミノスは、クレタ島のパイストスの町からアンドロゲネイアを妻に迎えて息子アステリオスが生まれた。[36]
その後、テクタモスの子アステリオスが跡継ぎを残さずに死んだ。クノッソスの町のドーリス人は、エウロパの子ミノスをクノッソスの町へ呼び寄せ、リュクトスの娘イトネと結婚させて、アステリオスの跡を継がせた。[37]
リュクトスは、クノッソスの町の南東にあるリュクトスの町の創建者で、アステリオスの母方の祖父クレテウスの息子と推定される。[38]
2.3.3 クレタからトロアスへの移住
エウロパの子ミノスは、一人目のミノスと言われ、2人目のミノスとの生年差は、100年以上ある。しかし、その期間の記録が殆どない。その期間、クレタ島に住んでいなかったことが理由と思われ、つぎのように推測される。
BC1390年、クレタ島北部のクノッソスの町は大津波に襲われ、ミノスも被災した。[39]
ミノスは、キュドニアの町に住む兄弟カルデュスのもとへ避難した。しかし、カルデュスも同様に津波の被害を受けていた。ミノスとカルデュスは、アプテラの町から被災者を乗せて、小アジアへ向かうテルキネス族の移民団に参加してトロアス地方へ移住した。
その後、カルデュスは、キュドニアの町へ帰ったが、ミノスは、当時、ダルダノスの子エリクトニオスが治めていたダルダノスの町の近くに定住した。
その頃、ダルダノスに連れられて海を渡ったダルダノスの弟イアシオンの子コリュバスは、イダ山の近くで、母キュベレとともに暮らしていた。コリュバスは、アゲノールの子キリクスの娘テーベと結婚して、娘イデが生まれた。ミノスには息子リュクティウスが生まれた。リュクティウスとイデは後に結婚した。[40]
リュクティウスとイデとは、アルカディア地方のペラスゴスの子リュカオンを共通の先祖としていた。
ミノスの後裔は、ダルダノスの町の近くのアステュラの金鉱採掘によって富を蓄えた。
BC1295年、2人目のミノスは、クレタ島へ帰還した。ミノスは、多くの艦船を保有し、当時、海上交通を脅かしていた島々の海賊同様の住人を駆逐して多くの島々を支配した。
ミノスは、エーゲ海の制海権を手に入れた。[41]
プラトンは、『ゴルギアス』の中で、ミノスとラダマンティスはアジア生まれだと記している。[42]
また、ミノスとペルセイスの娘パシパエとの結婚も、パシパエが黒海地方からクレタ島へ嫁いだと考えるよりも、黒海地方からトロアス地方へ嫁いだと考えた方が妥当である。[43]
2.4 エジプトから移住
BC1390年の大津波は、アカイオスの子アルカンドロスがアルゴスの町から移住して、エジプトのナイルデルタに創建したアルカンドロポリスの町にも及んだ。[44]
アルカンドロスの子ベロスは移民団を率いて、エジプトからペロポネソスへ来た。ベロスは、新天地を求めて旅に出ようとしていたコリントスの町のシシュッポスの子アイイテスの移民団と旅を共にすることになった。
アイイテスとベロスは、デウカリオーンの子ヘレンを共通の先祖としていた。[45]
アイオロスの子シシュッポスが創建したばかりのコリントスの町、アテナイの町、それに、エレウシスの町も津波の被害に遭っていた。
アテナイの町のボレアスと、エレウシスの町のケリュクスもアイイテスの移民団に参加した。
移民団は、エーゲ海を北上し、ケリュクスは、タソス島近くのトラキア地方に入植した。
ボレアスは、サモトラケ島近くのヘブロス川を遡上し、支流のレギニア川をさらに遡った土地に入植した。
アイイテスとベロスは、ヘレスポントス海峡を抜けて、プロポンティスに入った。エジプトからの移民団を率いたベロスはキュジコス手前のアイセポス川河口近くに適地を見つけて入植した。アイイテスは、ボスポラス海峡を抜けて、黒海東岸のパシス川の河口近くに入植した。[46]
ベロスの入植地は、エチオピアと呼ばれるようになった。
2.5 クレタからの移住
BC1345年、クレタ島のキュドニアの町からカルデュスの子クリュメノスがペロポネソスのオリュンピアの町へ移住した。BC1344年、クリュメノスは、Elisの町のアイトリオスの子エンデュミオンに追放された。[47]
クリュメノスは、イダ山のヘラクレスの孫であった。[48]
クリュメノスの父カルデュスは、キュドニアの町に住んでいた。系図を作成すると、カルデュスは、キュドニアの町の創建者キュドンの1世代後であり、カルデュスは、キュドンの息子と推定される。
したがって、クリュメノスの母は、イダ山のヘラクレスの娘であった。
カルデュスは、兄弟のミノスと共に、トロアス地方に住んでいたことがあった。
カルデュスの子クリュメノスは、トロアス地方で生まれたと思われる。
クリュメノスは、キュドニアの町からオリュンピアの町へ行き、オリュンピアの町から彼の生まれ故郷のトロアス地方へ行ったと推定される。
つぎのことから、クリュメノスは、ペロプスの父タンタロスの父であると推定される。
1) クリュメノスが住んでいたキュドニアの町の近くのアプテラの町は、ベレキュントス地方にあった。タンタロスの支配地は、ベレキュンテスの土地と呼ばれていた。[49]
2) リュディア地方からペロポネソスへ渡ったタンタロスの子ペロプスは、クリュメノスが追われたオリュンピアの町を目指していた。当時、オリュンピアの町は、ピサの町の支配下にあった。[50]
3) ペロプスは、ピサの町の近くにあった「キュドニアに坐すアテナの神殿」に供犠した。その神殿は、クリュメノスが造営したものであった。[51]
2.6 アルゴスからの移住
アルゴス王アクリシオスの娘ダナエの子ペルセウスは、祖父の兄弟プロイトスを殺して、セリポス島へ逃れた。[52]
ペルセウスは、セリポス島からトロアス地方へ渡り、ベロスの子ケペオスの娘アンドロメダと結婚した。[53]
ベロスの父アルカンドロスには、ダナオスの娘スカイアとの間に、メタナステスという息子もいた。[54]
メタナステスには、ダナエと結婚したピラムノスという息子もいた。[55]
つまり、アンドロメダは、ペルセウスの又従妹であった。
3 トロイの勃興
3.1 エリクトニオスの時代 (BC1385-60)
ダルダノスには、息子エリクトニオスが生まれた。彼の名に因んでエレクテイアン平原と呼ばれる広大な牧草地で、3,000頭の牝馬が飼育されていた。[56]
BC1381年、エリクトニオスの姉妹イダイアは、キュジコスの町近くのエチオピア人の地に住むベロスの子ピネオスと結婚した。[57]
その後、ピネオスは、黒海南西岸に移住して、サルミュデッソスの町を創建した。[58]
エリクトニオスの時代、トロイ王家とエチオピア人は良好な関係であった。
3.2 トロスの時代 (BC1360-30)
エリクトニオスには、息子トロスが生まれた。トロスは、周辺部族をまとめて、自身の名に因んだトロイの町を建設した。[59]
トロスには3人の息子たち、イロス (または、イロス)、ガニュメデス (または、ガニュメデ)、アッサラコス (または、アサラコス)、それに、娘クレオメストラ (または、クレオパトラ)が生まれた。
3.2.1 タンタロスとの姻戚関係
BC2世紀の弁論家ディオ・クリュソストンは、アトレウスの後裔は、ペロプスを通じて、トロイ王家と繋がりがあったと述べている。[60]
ペロプスの父タンタロスは、トロイ王家に関係がないので、ペロプスの母がトロイ王家に関係する女性であったと思われる。
また、BC5世紀の歴史家フェレキュデス of アテナイは、ペロプスの母をクサントスの娘エウリュテミスteと伝えている。[61]
クサントスは、トロアス地方を流れるスカマンドロスの河神であり、タンタロスの1つ前の世代のトロスのことで、エウリュテミスteは、トロスの娘と推定される。[62]
つまり、トロスには、エウリュテミスteという娘がいて、タンタロスと結婚して、ペロプスが生まれた。
タンタロスとエウリュテミスteの結婚は、BC1341年と推定される。
トロスの時代、イダ山の近くに住んでいたタンタロスとトロイ王家は良好な関係であった。
3.2.2 アカイア人の進出
BC1355年、ベロスの子ピネオスとイダイアの息子たち、テュノス とパプラゴン (または、パプラゴンus)は、プリュギア地方やパプラゴニア地方へ移住して、それぞれ、テユノイ人やパプラゴニア人の始祖になった。[63]
また、イダイアの息子たち、ビテュノスとマリアンデュノスは、ビテュニア地方へ移住して、それぞれ、ビテュニアnsやマリアンデュノイ人の始祖となった。[64]
彼らは、アカイオスの子アルカンドロスの後裔であり、テッサリア地方から、アルゴスの町、エジプトを経由してアナトリア半島へ移住したアカイア人であった。
3.3 イロスの時代 (BC1330-1297)
トロスの跡を継いだのは、彼の息子イロスであった。
3.3.1 ウィルサ王の継承
つぎの伝承からトロスの子イロスは、急速に勢力を拡大したことが分かる。
1) イロスは、イダ山近くからプリュギア地方のペッシヌスの町へ逃れたタンタロスを追撃して、タンタロスと戦った。[65]
2) イロスは、リュディア地方のシピュロス山近くへ逃れたペロプスを攻めて、追放した。[66]
イロスが急速に勢力を拡大した事情は、つぎのように推定される。
ダルダノスの町に住んでいたイロスは、ヒッタイトの属国ウィルサ王は、娘をイロスに嫁がせた。
ウィルサ王が死ぬと、彼の娘婿イロスが王位を継承した。
王の娘婿が王位を継承することは、ヒッタイト王の系譜にもあり、ヒッタイトはイロスをウィルサ王として承認した。
ウィルサ王が娘をイロスに嫁がせたのは、ダルダノスの町に住むトロイ王家と周辺部族との婚姻による関係強化であったと思われる。
1) BC1381年、ダルダノスの娘イダイアは、ダルダノスの町からアイセポス川河口近くに住むベロスの子ピネオスへ嫁いだ。[67]
2) BC1341年、トロスの娘エウリュテミスteは、ダルダノスの町からイダ山近くに住むタンタロスへ嫁いだ。[68]
3.3.2 東方への拡大
ウィルサ王を継承して、ヒッタイトの後ろ盾を得たイロスは、ベレキュンテスの地に住んでいたタンタロスを追放した。タンタロスが去った後の土地は、イロスの妻エウリュディケの父アドラストスに与えられ、以後、その地方はアドラスティアと呼ばれるようになった。[69]
その後、イロスは、さらに東方のミュシア地方に進出し、ベブリュケスのビュゾスと戦って、勢力を拡大した。[70]
ビュゾスの先祖は、テッサリア地方を追われて、プロポンティス海南東のアスカニア湖付近に住み着いたペラスゴイ人であった。[71]
3.4 ラオメドンの時代 (BC1297-1244)
3.4.1 ヒッタイト文書中の記述
ヒッタイト文書の中に、ヒッタイト王ムルシリ2世 (BC1321-1295)、および、ムワタリ2世 (BC1295-72)と同盟を締結したウィルサ王アラクサンドゥが記されている。[72]
また、ムワタリ2世とアラクサンドゥが締結したアラクサンドゥ条約にはつぎのような文章がある。「あなた(アラクサンドゥ)の父にした誓いのために、私(ムワタリ2世)はあなたの助けを求める声に応え、あなたの代わりにあなたの敵たちを殺した。」[73]
3.4.2 王位継承争い
ヒッタイト文書中のアラクサンドゥのギリシア名は、イロスの子ラオメドンと推定される。
BC1296年、イロスの跡を、彼の息子ラオメドンが王位を継承した。[74]
ラオメドンは、即位時にムルシリ2世 (BC1321-1295)と条約を締結した。[75]
その後、ラオメドンは、イリオンの町を追放された。[76]
ラオメドンを追放したのは、パイノダマス (または、ヒッポテス)であり、彼はイロスの息子であったと思われる。
ラオメドンは、ヒッタイト軍やヒッタイトの属国の軍の助けを借りて、イリオンの町を攻めた。
ラオメドンを王位に復帰させたのは、ムワタリ2世であり、イリオンの町への攻撃は、BC1295年の出来事と推定される。[77]
この頃、ヒッタイトは、リュディア地方を中心としたアルザワを征服して、アナトリア半島西部へ絶大な影響力を持っていた。[78]
戦いに敗れたパイノダマスは、彼の息子たちと共に殺された。[79]
パイノダマスの3人の娘たちは、シシリー島へ逃れた。[80]
3.4.3 ラオメドンの娘ヘシオネ
3.4.3.1 ヘシオネの結婚
ヘシオネは、ヘラクレスの第9番目の功業に登場する。ヘシオネは、怪物への人身御供になるが、ヘラクレスに救われたというが、作り話である。[81]
史実としてのヘシオネを知るための手がかりが4つある。
1) プリアモスの姉妹にトランベロスという息子がいた。[82]
2) アキレスが、テラモンの子トランベロスを殺した。[83]
3) アキレスが殺したトランベロスは、ミレトスの町のレレゲスの王であった。[84]
4) ヘラクレスのトロイ遠征の時、ヘシオネはテラモンに与えられた。[85]
以上の手がかりから、ヘシオネは、ミレトスの町の王に嫁いで、息子トランベロスが生まれたと推定される。
3.4.3.2 結婚の時期
ヒッタイト文書によると、ヒッタイト王ムルシリ3世は、叔父 (後のハットーシリ3世)を攻撃して、敗れた。[86]
BC1265年、ウィルサ (トロイ)とアヒヤワ (アカイア人)はムルシリ3世を支援した。
戦いの後、それまで、ヒッタイトに従属していたウィルサは独立した。[87]
独立したウィルサのラオメドンは、アヒヤワと同盟関係にあるミラワンダ (ミレトス)と婚姻関係を結ぼうとして、彼の娘ヘシオネをミレトスの町へ嫁がせたと思われる。
ヘシオネの結婚の時期は、ハットーシリ3世 (BC1265-35)の即位の数年後で、ラオメドンにとって、ヒッタイトへの脅威が増して来た頃、BC1260年と推定される。
3.4.3.3 ヘシオネの夫
ヘシオネの夫は、トランベロスの父であり、ミレトスの町のレレゲスの王であった。[88]
ヘシオネの夫は、ミレトスの町の創建者アリアの子ミレトスの息子と推定される。アリアの子ミレトスは、ヒッタイト文書の中では、アトパと呼ばれていた。[89]
ヘシオネの夫は、アトパからミレトスの町を継承したが、ヒッタイト軍に攻められて敗れた。ミレトスの町は、ヒッタイトの属国となり、ヘシオネの夫は、許されてミレトスの町を任せられた。[90]
3.4.3.4 ヘシオネとテラモンの結婚伝承
多くの伝承が、ヘシオネとアイアコスの子テラモンとの結婚を伝えている。[91]
この伝承は、テラモンの子テウクロスをトロイ王家の後継者にするための作り話と思われる。
テウクロスは、キュプロス島へ移住して、サラミスの町を創建した。その時、町の住人は、トロイ人であった。[92]
テウクロスの後裔であるサラミスの町の支配者は、住民を従わせるため、自分たちがトロイ王家の後裔であるという作り話を広めたと推定される。[93]
3.4.4 プリアモスの母
プリアモスは、アマゾン族に攻められた彼の母レウキッペ (または、プラキア)の祖国に援軍として駆け付けた。[94]
レウキッペの父オトレオスは、BC1390年にテッサリア地方を追われて、プロポンティス海南東のアスカニア湖付近に住み着いたシレノスの子ドリオンの後裔であった。ミニュアス人と戦って死んだキュジコスは、オトレオスの子アイネオスの息子と思われる。[95]
オトレオスは、キュジコスの町近くのアイセポス川からダスキュリティス湖にかけて居住していたドリオネスに属していた。アイネオスの子キュジコスもドリオン人であった。[96]
オトレオスは、アスカニア湖の近くに、オトロイアの町を創建した。[97]
オトレオスの子アイネオスは、西方へ移住して、プラキアの町を創建した。[98]
オトレオスの娘プラキアは、イリオンの町のラオメドンに嫁ぎ、プリアモスの母となった。[99]
3.5 プリアモスの時代 (BC1244-1188)
3.5.1 王位継承争い
BC1244年、ラオメドンが死ぬと王位継承争いが起きた。王位継承争いに敗れたウィルサのワルムがミラワタ (ミレトス)の町へ逃げ込んだ。ヒッタイト王は属国のミラワタ王にワルムをヒッタイトに引き渡し、ウィルサの王に据えることができるように要請した。[100]
このワルムは、ラオメドンの次のトロイ王として登場するラオメドンの子プリアモス (または、ポダルケス)と推定される。[101]
プリアモスは、ミレトスの町に住んでいた彼の姉妹ヘシオネを頼ってミレトスの町へ亡命したと思われる。
プリアモスは、ヒッタイトやヒッタイトの属国の軍と共に、イリオンの町を攻撃して、町を奪還した。
3.5.2 戦いの構図
イリオンの町を舞台にして、少なくとも4度の大きな戦いがあった。
戦いのすべての原因は、ダルダノスの町に住んでいたトロスの子イロスが、ヒッタイトの属国ウィルサの王になって、イリオンの町に住んだことであった。
ダルダノスの町に残ったトロスの子アッサラコス (または、アサラコス)の後裔と、ヒッタイトの影響下にあったイリオンの町に住むトロスの子イロスの後裔との間には、対立が生じた。
そして、この対立は、ヒッタイトの政策によって生じたと思われる。
イリオンの町を奪還したプリアモスは、ダルダノスの町からアッサラコスの後裔を追い出した。
プリアモスの領土は、イリオンの町周辺から、ヘレスポント沿岸地方へも拡大した。
ウィルサは、トロイと同一と見なされるようになった。
3.5.3 プリアモスの妻ヘクバ
プリアモスには、複数の女性たちとの間に多くの子供たちがいたが、正妻は、ヘクトールの母ヘクバ (または、ヘカベ)であった。[102]
ヘクバ は、サンガリオス川の流れるプリュギア地方のエイオネオスの子キッセウス (または、デュマス)の娘であった。[103]
エイオネオスは、黒海の南西岸にサルミュデッソスの町を創建した、ベロスの子ピネオスの子テュノスの孫であった。テュノスは、サルミュデッソスの町から東へ移住し、ボスポラス海峡を渡って、アスカニア湖近くのプリュギア地方に定住した。[104]
テュノスの母は、ダルダノスとバテイアの娘イダイアであり、ダルダノスは、プリアモスとヘクバ の共通の先祖であった。[105]
この結婚によって、トロイの支配は、黒海沿岸地方にまで及んだ。
4 ペロプスのペロポネソス移住
4.1 リュディアへの移住
ペロプスは、タンタロスとトロスの娘エウリュテミステとの間の息子として、アナトリア半島北西部のイダ山近くで生まれた。[106]
トロスの時代、タンタロスとトロイ王家は良好な関係であった。
しかし、トロスの子イロスがヒッタイトの属国ウィルサの王位を継承した後で、イロスは、周辺に領土を拡張した。[107]
BC1325年、タンタロスは、イロスに追われて、イダ山近くからプリュギア地方のサンガリオス川の源流付近にあるペッシヌスの町へ逃れた。[108]
イロスは、ペッシヌスの町へ攻め込んで、タンタロスと戦った。戦いに敗れたタンタロスは、リュディア地方のシピュロス山近くへ移住した。[109]
シピュロス山の北側のマグネシアの町の近くに有名なシピュロスの町があり、古くはタンタリスと呼ばれていた。[110]
その後、タンタロスは、シピュロス山およびトモロス山一帯の鉱床からの採掘で財をなした。[111]
トモロス山を源流とするパクトロス川には、BC6世紀のクロイソスの時代まで大量の砂金が流れていた。[112]
4.2 リュディアでのタンタロス
ヒッタイト文書に登場するウハジティと彼の2人の息子たち、ピヤマクルンタとタパラズナウリは、タンタロスと彼の2人の息子たち、ブロテアスとペロプスと推定される。
タンタロスが移住したリュディア地方は、ヒッタイト文書に記されたアルザワの支配地域であった。
当時、アルザワ王は、タルフンタラドゥの跡を継いだ彼の息子マスクイルワであった。[113]
タンタロスは、シピュロス山一帯の鉱床から金を採掘して莫大な富を得た。[114]
タンタロスのリュディア地方への移住には、イダ山周辺で採掘に従事していたイダ山のダクテュロスも参加していたと推定される。
タンタロスは、アルゴスの町のペラスゴイ人を共通の先祖とするマネスの後裔率いるマイオニア人の支持を得て、マスクイルワを追放して、アルザワ王になった。
4.3 ヒッタイトとの戦い
アルザワから追放されたマスクイルワは、ヒッタイト王シュッピルリマ1世のもとへ亡命して、王の娘ムワッティと結婚した。[115]
シュッピルリマ1世と、彼の跡を継いだアルヌワンダ2世は疫病で死んだ。ヒッタイトは、すぐには、アルザワに対する軍事行動を起こすことができなかった。
アルヌワンダ2世の跡を継いだムルシリ2世は、治世3年目にアルザワと戦うことになった。[116]
戦いの端緒は、アッタリンマ、フワルサナッサ、スルダの人々がアルザワに逃げ込み、ムルシリ2世がタンタロスに彼らの引き渡しを要求したことであった。[117]
タンタロスが彼らの引き渡しを拒否したため、ムルシリ2世は、タンタロスが拠点としていたアパサス (エペソス)へ向けて進軍した。タンタロスは、ブロテアスにヒッタイト軍を迎撃させたが、ブロテアスは敗れた。[118]
その後、ヒッタイト軍がアパサスに着く前にタンタロスは病気になって、島へ逃れた。[119]
BC1318年、タンタロスは、病気が悪化して死んだ。[120]
ペロプスは、島から本土へ渡って、ムルシリ2世の軍と戦ったが、敗れて包囲された。ペロプスは、包囲から無事に脱出したが、彼の妻と息子たちは捕虜になった。[121]
ブロテアスは、島から本土へ渡って、ムルシリ2世と交渉したが、ハットゥーシャへ送られた。[122]
4.4 ペロプスのギリシア移住
ペロプスは、ムルシリ2世との戦いの後で、失地回復を狙って、約3年間、恐らく、サモス島にいた。その後、ペロプスは、その望みを断念して、ペロポネソスへ渡った。
その時、ペロプスは、ダナイス (または、アクシオケ)から生まれた、彼の息子クリュシッポスを連れていた。[123]
おわり |