第8章 ヘラクレイダイの帰還(BC1215-1074)

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1 はじめに
ヘラクレイダイ (ヘラクレスの子孫)に率いられたドーリス人がペロポネソスに侵入して、それまでの住人を追い出したのは、後代に作られた物語だという説がある。
しかし、BC5世紀の歴史家ヘロドトスは、ヘラクレイダイがペロポネソスへの帰還を試みて、ヘラクレスの子ヒュッロスが戦死したと記している。[1]
また、ヘロドトスは、ドーリス人がドリュオピス地方からペロポネソスへ移動して、アルカディア人以外のペロポネソスの住人を追い出したとも述べている。[2]
BC5世紀の歴史家トゥキュディデスは、トロイ陥落の80年後に、ドーリス人とヘラクレイダイがペロポネソスを占領したと記している。[3]
BC4世紀の弁論家イソクラテスは、ドーリス人がペロポネソスに侵入して、正当な所有者から土地を奪って、3つに分割したと述べている。[4]
BC4世紀の歴史家キュメのエポロスは、古い神話の物語をやり過ごして、ヘラクレイダイの帰還後に起こった出来事を語ることから、彼の歴史の記述を始めた。[5]
エポロスは、彼の『歴史』の第1巻で、ヘラクレイダイのペロポネソス帰還を記している。[6]
つまり、古代の歴史家は、ヘラクレイダイの帰還は、歴史上の出来事として認識していた。

2 ヘラクレスとエウリュステウスの関係
2.1 良好な関係
BC1278年、アルゴス地方のテュリンスの町を治めていたアルカイオスの子アンピュトリオンは、テバイの町のスパルトイから招かれて、テバイの町へ移住した。[7]
BC1275年、アンピュトリオンに息子ヘラクレスが生まれた。ヘラクレスは、ミニュアス人の王エルギヌスとの戦いに勝利して、ヘラクレスの名を周囲に知らしめた。[8]
アンピュトリオンの父アルカイオスの兄弟ステネロスの子エウリュステウスは、ヘラクレスと同じ年の生まれであり、アルゴス地方のミュケナイの町の王であった。[9]
ヘラクレスは、テバイの町からテュリンスの町へ移住して、エリスの町のアウゲアスを攻めて、異母兄弟イピクレスを失った。[10]
ヘラクレスはアウゲアスの将クテアトスとエウリュトスを襲撃して殺害した。[11]
エリスの町は、エウリュステウスにヘラクレスの身柄の引き渡しを要求したが、エウリュステウスは、ヘラクレスをテュリンスの町から出て行かせた。[12]

2.2 関係の変化
ヘラクレスはアルカディア地方のペネウスの町へ移住して、ケンタウロスとの戦いで、アルカディア人を味方につけて勢力を増した。その後、ヘラクレスは、エリスの町、ピュロスの町、スパルタの町、そして、アミュクライの町を攻略した。ヘラクレスは、ペロポネソス半島内のエウリュステウスの支配地域以外のほぼ全域に影響力を持つほどになった。[13]
このヘラクレスの勢力拡大に対して、エウリュステウスは危機感を募らせ、彼の妻アンティマケの父で、アルカディア王アンピダマスに働きかけて、ヘラクレスにペネウスの町から退去させた。ヘラクレスは、ペロポネソスから海を隔てて北に位置するアイトリア地方のカリュドンの町へ移住した。[14]
ペロポネソスを去った後も、ヘラクレスは、テスプロティア地方のエピュラの町を攻め落として活躍した。[15]
しかし、カリュドンの町も3年しか住まずに、親友ケユクスが治めるテッサリア地方南部のトラキスの町へ移住した。[16]

3 エウリュステウスとヘラクレイダイとの戦い
3.1 トラキスからアテナイへの移住
BC1223年、ヘラクレスが死んだ。その後、ヒュッロスをはじめとして、ヘラクレスの息子たちが次々と成人すると、ミュケナイ王エウリュステウスは、彼らに脅威を感じるようになった。[17]
エウリュステウスは、ケユクスにヘラクレスの子供たちをトラキスの町から追い出さなければ武力に訴えると脅した。[18]
AD2世紀の雄弁家アエリウス・アリスティデスは、エウリュステウスが、当時、絶大な勢力を誇っていたと伝えている。[19]
ケユクスは、ヘラクレスの子供たちをトラキスの町から出て行かせた。[20]
ヘラクレスの子供たちは、アテナイの町に受け入れられて、マラトンの町の北東にあるトリコリュトス (または、トリコリュントス)の町に住んだ。[21]
トリコリュトスの町は、近くのマラトンの町と共に、湿地帯であった。[22]
アテナイ王テセウスの妻の一人イオペは、ヘラクレスの子供たちの後見人イオラオスの妹であり、テセウスとイオラオスは義理の兄弟であった。また、テセウスもヘラクレスも、ともにペロプスを曽祖父とし、テセウスがヘラクレスを敬愛していたため受け入れられたと思われる。[23]
当時、ヘラクレスやイオラオスの故郷でもあるテバイの町では、彼らの親族クレオンが実権を握っていた。ヘラクレイダイがテバイの町へ行かなかったのは、クレオンの娘メガラをヘラクレスが離縁したことが原因であったと思われる。[24]

3.2 エウリュステウスの死
BC1217年、エウリュステウスは自ら大軍を率いてアテナイの町へ侵攻した。ヘラクレイダイは、イオラオスを指揮官とし、アテナイ王テセウスの援助を得て、エウリュステウスと戦った。エウリュステウスと5人の息子たち、アレクサンドロス、イピメドン、エウリュビオス、メントール、ペリメデスは戦死した。[25]
ヒュッロスは初陣であったが、当時、50歳と推定されるイオラオスは、叔父ヘラクレスと数々の遠征をともにした歴戦練磨の勇士であった。
イオラオスは、エウリュステウスの頭部を切断して、トリコリュントスの町に埋葬した。[26]
安住の地から何度も追いやられたイオラオスのエウリュステウスに対する憎しみの表れであろう。[27]

4 第1回目の帰還
BC1215年、ヘラクレイダイは、エウリュステウスとの戦いの後、ヒュッロスを指揮官として、コリントス地峡を通って陸路でペロポネソス半島へ侵攻した。[28]
ヘラクレイダイは、ヘラクレスの母アルクメナや彼女の弟リキュムニオスが幼少期を過ごしたミデイアの町に居住した。[29]
このときの帰還は、ペロポネソス半島全域にわたるものではなかった。
翌年、ヒュッロスは、撤退を決断した。撤退の原因は、悪疫が発生したためであったという伝承もある。[30]
実際は、まわりを敵に囲まれ、次第に勢力を回復してくるミュケナイの町を恐れたからであったと思われる。
あるいは、ヘラクレイダイ内部の不和が原因であったかもしれない。
ヘラクレイダイがペロポネソスから撤退した後で、ヘラクレスの子トレポレモスと、ヘラクレスの母アルクメナの弟リキュムニオスは、ミデイアの町に残留した。[31]
しかし、リキュムニオスが死に、トレポレモスは、父の旧領テュリンスの町から移住を希望する人々を率いて、レルナの海岸からロドス島を目指して船出した。[32]
ヘラクレイダイの撤退時、ヘラクレスの母アルクメナは、メガラ地方のオリュンピエイオンの近くで死去した。享年78歳と推定される。[33]
アルクメナは、ボイオティア地方のハリアルトスの町にあるアルクメナの2人目の夫ラダマンティスの墓の傍らに埋葬された。[34]

5 第2回目の帰還
BC1211年、ヘラクレイダイは、ヒュッロスを指揮官として、再び、コリントス地峡を通って陸路でペロポネソスへ侵攻しようとした。
エウリュステウスの死後、ミュケナイの王権を引き継いだアトレウスがテゲア人、アカイア人、イオニア人を引き連れてイストモスで待ち受け、両軍が対峙した。[35]
伝承によれば、ヒュッロスは、テゲアの町のエケモスと一騎打ちをして、敗れて死んだと伝えられている。[36]
しかし、実際は、激しい戦いがあり、総大将ヒュッロスが戦死して、ヘラクレイダイが敗退したというのが史実と思われる。
パウサニアスは、ヒュッロスの遺体がメガラに葬られたと記している。[37]
これは、戦いの場所に合わせた作り話と思われる。少し前に、同じメガラで死んだアルクメナの遺体はボイオティア地方に埋葬されている。[38]
恐らく、ヘラクレイダイは戦いに敗れて、戦死者の遺体を残して、敗走したと思われる。
この戦いでヘラクレイダイに味方して遠征に参加したアテナイ人にも戦死者が出て、ヘラクレイダイは、トリコリュトスの町に住み続けることができなくなった。
ヘラクレイダイは、ドーリス地方のアイギミオスのもとへ行き、アイギミオスから土地と住人を分け与えられた。[39]
この時、ヘラクレイダイと共にドーリス地方へ行かずに、アッティカ地方に残った者もいた。
ヘラクレスとピュラスの娘メダとの間の息子アンティオコスは残留して、アテナイの名祖の一人になった。[40]
ヘラクレスとデイアネイラとの間の娘マカリアは、テセウスの子デモポン (または、デモポーン)と結婚して、第13代アテナイ王オクシュンテスの母になった。[41]

6 第3回目の帰還
6.1 パウサニアスの記述
ヘラクレイダイの第3回目の帰還があったと記している伝承はない。
唯一、AD2世紀の地理学者パウサニアスは、メッセニア地方の記述の中で、手がかりを記している。パウサニアスは、「ヒュッロスとドーリス人がアカイア人に打ち負かされたとき、ヘラクレスの子グレノスの乳母アビアはイレの町に逃れて、そこに住みついた。」と記している。[42]
ヒュッロスが遠征したのは、ドーリス人の地に行く前であり、遠征軍の中に、ドーリス人はいなかった。
仮に、ヒュッロスが率いた遠征軍の中に、ドーリス人が含まれていたとしても、第1回目は、アカイア人に敗れた訳ではなく、第2回目は、ペロポネソスに入ることがなかった。
つまり、パウサニアスの記述は、ヒュッロスによる第1回目、あるいは、第2回目の遠征の記述ではない。

6.2 ヒュッロスの子クレオダイオス
パウサニアスが記しているヒュッロスが、ヒュッロスの子クレオダイオスであれば、理解できる記述となる。ヘラクレスの死の少し前に生まれたグレノス (または、グレネオス)の乳母が参加できる遠征軍を率いたのは、ヒュッロスの子クレオダイオスであったと思われる。クレオダイオスの英雄廟がスパルタの町にあり、彼は大きな功績があった人物と思われる。[43]
ヒュッロスの死後、彼の息子クレオダイオスは、ドーリス地方のピンドスの町に住み、ドーリス人の3部族の一つヒュッレイスの王になった。[44]

6.3 クレオダイオスの遠征
クレオダイオスは、ドーリス人を率いてペロポネソスへ侵入して、ミュケナイの町を攻めて、町を破壊した。[45]
近年の考古学調査で、BC12世紀のミュケナイの町に破壊された痕跡が確認されている。[46]
クレオダイオスは、テュリンスやミデイアの町も破壊した。[47]
アガメムノンの子オレステスは、ミュケナイの町からアルカディア地方のテゲアの町へ逃れた。[48]
その後、オレステスは軍勢を集めて、ドーリス人をペロポネソスから追い出した。
クレオダイオスは、無事にドーリス地方のピンドスの町へ帰還し、その後、彼には息子アリストマコスが生まれた。[49]
ミュケナイの町のアガメムノンは、ドーリス人との戦いで、戦死したと思われる。
ヘラクレイダイの第3回目の帰還は、アガメムノンの在位30年目であり、BC1173年であった。[50]

6.4 クレオダイオスの長男
クレオダイオスの長男やグレノスの乳母アビアを含む一部の人々は、ドーリス地方へ帰還できずに、ペロポネソスに残留した。彼らは、メッセニア地方のイレの町に逃げ込んで、その地に定住した。
最終帰還時、ヘラクレイダイが最初の目的地をメッセニア地方としたのは、残留した同胞との合流が目的でもあったと思われる。[51]
後に、メッセニア地方を獲得したクレスポンテスに対して、ポリュポンテスが反乱を起こした。
ポリュポンテスは、「真の」ヘラクレイダイと自称しており、クレオダイオスの長男の息子か孫と思われる。[52]
「真の」という意味は、ヘラクレスの子ヒュッロスの子クレオダイオスの正当な継承者という意味であったと思われる。
系図を作成するとクレオダイオスと彼の息子アリストマコスの年齢差は、50歳であった。
アリストマコスには、複数の兄たちがいたと思われる。[53]

6.5 遠征軍の規模
クレオダイオス率いるドーリス人のペロポネソス侵入の後、オレステスは、土地を失った人々を率いて、植民活動を開始した。
オレステスの遠征に参加したアミュクライの町のペイサンドロスは、テネドス島に入植した。[54]
また、オレステスの遠征には、エピダウロスの町のペリントスも参加した。[55]
つまり、ドーリス人は、アルゴス地方のミュケナイ、テュリンス、ミデイアの町だけではなく、エピダウロスの町や、ラコニア地方のアミュクライの町をも荒廃させた。
近年の考古学調査で、メッセニア地方のピュロスの町で、クレオダイオスの遠征と関係があると思われる大規模な火災の痕跡が発見されている。[56]
ペロポネソスに残留したドーリス人は、メッセニア地方のイレ (後のアビア)の町に住んだ。
ペロポネソスへ侵入して、アルゴス地方、ラコニア地方、メッセニア地方を荒らしたクレオダイオス率いるドーリス人は、物凄い数であった。

7 第4回目の帰還
7.1 伝承中の記述
第4回目の帰還があったと思わせる伝承中の記述には、つぎのものがある。
1) オレステスの子ティサメノスの時代に、ヘラクレイダイが帰還を試みて、アリストマコスが死んだ。[57]
2) クレオダイオスの子アリストマコスは、神託の解釈を誤って、ペロポネソスへの帰還に失敗した。[58]
3) トロイ戦争から60年後のヘラクレイダイの帰還の頃に、ペンチロスが小アジアへ遠征した。[59]
トロイ戦争から60年後、オレステスの子ペンチロスは、小アジアへ植民活動をした。この時、クレウエスとマラオスの遠征隊は、ロクリス地方やプリキオン山付近で長い間時を過ごして、ペンチロスより遅れて出発した。[60]
クレウエスとマラオスはアガメムノンの曾孫であり、ヘラクレイダイの最大の敵であるオレステスの子ティサメノスの親族であった。彼らは、遠征が失敗に終わってドーリス地方へ帰還したドーリス人が再度ペロポネソス侵攻を企てないか、様子を見ていたものと推定される。[61]
当時、ヘラクレイダイが住んでいたドーリス地方とマラオスらの居住地は、直近の位置にあった。

7.2 カドメイア人の合流
アガメムノンの曾孫たちが小アジアへ移民団を率いたのは、テッサリア地方のアルネの町にいたボイオティア人が、ボイオティア地方へ帰還したのと同じ頃であった。[62]
トゥキュディデスによれば、ボイオティア人の帰還は、トロイ陥落後60年目であった。[63]
ボイオティア人の帰還は、カドモス時代からテバイの町に住んでいたカドメイア人の移住にも繋がった。彼らは、ティサメノスの子アウテシオンに率いられて、ドーリス地方に住んでいたアリストマコスのもとへ移住した。[64]
恐らく、アウテシオン率いるカドメイア人の移住は、アリストマコスにペロポネソスへの遠征を決断させた直接の原因であったと思われる。
したがって、トロイ戦争から60年後にもヘラクレイダイのペロポネソス半島への遠征があり、それを率いたのは、クレオダイオスの子アリストマコスであった。

7.3 アリストマコスの戦死
BC1126年、アリストマコス率いるヘラクレイダイは、ペロポネソスへの帰還を試みたが、アリストマコスが戦死して、失敗した。[65]
アリストマコスの遠征隊は、スパルタの町まで到達したようであり、クレオダイオスの遠征隊と同じくらいの規模であったと思われる。[66]
彼らの侵攻によって土地を失った人々の一部は、オレステスの子ペンチロスに率いられて、レスボス島東部のミュティレネの町へ移住した。[67]

8 第5回目の帰還年の推定
8.1 メラントスのアテナイ王即位年
第5回目となるペロポネソスへの帰還が行われた年を推定する上で重要になるのは、ヘラクレイダイに追放されたメラントスがメッセニア地方からアテナイの町へ移住した年である。[68]
AD4世紀の歴史家エウセビオスの年代記に記されたアテナイ王たちの統治年数から計算すると、メラントスのアテナイ王即位は、BC1132年であった。[69]
この頃に、第5回目の帰還があったのであれば、トロイ陥落から54年後である。
BC2世紀の文法学者アポロドロスやBC2世紀の年代記作者カストール、さらに、BC5世紀の歴史家トゥキュディデスは、ヘラクレイダイの帰還をトロイ陥落から80年後であったと記している。[70]
これは、メラントスのアテナイ王即位年との間に、26年の差がある。
エウセビオスは、カストールからの引用で、初代のアテナイ王ケクロプスから第15代テュモイテスまでの合計の統治期間を450年間と記している。しかし、王たちの統治期間を合計すると、429年であり、合計と21年の差がある。[71]
その21年は、メラントスのメッセニア王としての統治期間であったと推定される。
カストールによれば、アテナイ王としての統治期間は、テュモイテスが8年、メラントスが37年であった。しかし、実際は、テュモイテスが29年、メラントスが16年であったと思われる。
そのように考えると、メラントスのアテナイ王即位年は、BC1111年になる。

8.2 ヘラクレイダイの生没年の推定
メラントスの即位年に基づいて、主要なヘラクレイダイの生没年を推定すると、つぎのようになる。
クレオダイオスの子アリストマコス   *56* (BC1168 - 1126)
アリストマコスの子テメノス   34 (BC1146 - ?)
アリストマコスの子テメノスの子ケイソス 15 (BC1127 - ?)
アリストマコスの子テメノスの子パルケス 13 (BC1125 - ?)
アリストマコスの子クレスポンテス   24 (BC1136 - ?)
アリストマコスの子アリストデモス   *36* (BC1148 - 1115)
アリストデモスの子エウリュステネスとプロクレス 4 (BC1116 - ?)
【註】 数字は、ヘラクレイダイがペロポネソスに上陸したBC1112年当時の年齢。* *は、その時に生きていた場合の年齢。

8.3 推定の根拠
この推定の根拠となるものは、つぎのとおりである。
1) アリストデモスは、アリストマコスの長男であったと推定される。[72]
2) テメノスの長男は、ケイソスであった。[73]
3) テメノスには、シキュオンの町の統治者となる息子パルケスがいた。[74]
4) クレスポンテスのみ、帰還時に独身であった。[75]
5) アリストデモスには、幼い息子たち、エウリュステネスとプロクレスがいた。[76]

9 第5回目の帰還 (最終帰還)
9.1 渡海前の状況
伝承では、神託により、テメノスが、偶然オクシュロスを見つけたことになっている。[77]
しかし、オクシュロスは、テメノスの父アリストマコスの父クレオダイオスの父ヒュッロスの母デイアネイラの姉妹ゴルゲの子トアスの子ハイモンの息子であった。[78]
オクシュロスの先祖は、エリスの町からアイトリア地方へ移住したエンデュミオンの子アイトロスであった。テメノスがオクシュロスを探し出したのではなく、テメノスの遠征を知って、先祖の地への帰還を希望していたオクシュロスが遠征に参加したのだと思われる。
テメノスは、アイトリア地方から海峡を渡ってペロポネソス半島へ上陸することを決定して、ロクリス・オゾリス地方の西の外れの土地で、艦隊の建造に着手した。[79]
建造場所は町になり、ナウパクトスと呼ばれるようになった。[80]

9.2 アリストデモスの死
この遠征の準備中に、テメノスの兄弟アリストデモスが、ティサメノスの従兄弟メドンとストロピオス兄弟によって、デルポイで殺害されたという伝承がある。[81]
しかし、アリストデモス率いる遠征軍がペロポネソスへの帰還を果たす前に、ボイオティア地方を進軍したという伝承もある。[82]
恐らく、テメノス率いる遠征の前に、アリストデモス率いる遠征があったと推定される。
アリストデモスは、コリントス地峡を目指して、ボイオティア地方を進軍中に、メドンとストロピオス兄弟によって殺された。
この兄弟は、アガメムノンの娘エレクトラとストロピオスの子ピュラデスとの息子たちであった。ストロピオスは、父ピュラデスの跡を継いで、デルポイの近くにあるキッラの町に住んでいた。[83]
兄弟は、ヘラクレイダイのペロポネソス帰還を阻止するため、アリストデモスを殺したと推定される。

9.3 妨害工作
ナウパクトスの町に預言者カルノスが現れ、敵の回し者とみなしたヘラクレスの子アンティオコスの子ピュラスの子ヒッポタスは、カルノスを殺害した。この出来事の後、船の破壊や飢饉が襲い、テメノスが集めた軍は解散状態となった。テメノスは、ヒッポタスを10年間の追放処分にした。[84]
ヒッポタスに殺された預言者カルノスは、アルゴスの町からアカルナニア地方へ移住したアンピアラオスの子アルクマイオンの孫と推定される。[85]
追放されたヒッポタスの息子アレテスは、後にヘラクレイダイと再び合流して、コリントスの町の支配者になった。[86]
ヒッポタスの祖父アンティオコスは、アテナイの町の10部族のひとつ、アンティオキス部族の名祖であった。[87]
伝承では、以上のように伝えられているが、艦隊の壊滅は、預言者の殺害が原因ではなく、オレステスの子ティサメノスの妨害工作であったと思われる。
BC1113年、艦隊の再建造が終わり、テメノスは、翌春、遠征を開始することを参加者に伝達した。

9.4 遠征への参加者
9.4.1 ヘラクレイダイ
ヒュッロスの子クレオダイオスの子アリストマコスの息子や孫たちの他に、少なくとも次のヘラクレイダイが遠征軍中にいた。

9.4.1.1 デルポンテス
デルポンテスは、ヘラクレスの子クテシッポスの子トラシュアノールの子アンティマコスの息子であった。
ヘラクレスの息子にデイアネイラを母とするクテシッポスと、アミュントルの娘アステュダミアを母とするクテシッポスがいる。
ヘラクレイダイを率いたテメノスは、デルポンテスを自分の息子たちより信頼していたと伝えられることから、クテシッポスの母は、デイアネイラと思われる。[88]

9.4.1.2 ヘゲレオス
ヘゲレオスは、ヘラクレスとリュディア地方のオンパレとの間の息子テュッレノスの子孫であった。[89]
ヘゲレオスは、ドーリス人にサルピンクスを伝授した。笛吹き兵が先導するスパルタ軍のスタイルは、ヘラクレイダイの帰還時に確立されたものと思われる。[90]

9.4.2 ドーリス人
テメノスの遠征軍の中には、多くのドーリス人がいた。
かつて、ヘラクレスがドーリス人の王アイギミオスを助けたお礼に、アイギミオスは、ヘラクレスの死後、ヘラクレスの長男ヒュッロスを養子にした。[91]
アイギミオス死後、ドーリス人の王権はヒュッロス、および、彼の子孫に継承され、テメノスは、ドーリス人の3部族の一つヒュッレイスの王であった。[92]
デウカリオーンの子ヘレンの子ドロスの時代、ドーリス人は、テッサリア地方北部のドーリス (後のヒスティアイオティスの一部)と呼ばれる地方に住んでいた。その後、テッサリア地方北部からパルナッソス山の近くへ移住した。[93]
テッサリア地方北部に残っていたドーリス人は、テッサリア地方へ侵入したテスプロティア人によって追い出されて、パルナッソス山の近くへ大挙して移住していた。[94]
ヘラクレイダイに従っていたドーリス人は、ドリス族のテトラポリス(ピンドス、ボイオス、キティニオン、エリネオン)に居住し、3つの部族、ヒュッレイス、パンピュリ、デュマネスに分かれていた。[95]

9.4.3 イオニア人
ヘラクレイダイがドーリス地方へ移住する前に住んでいたアッティカ地方のイオニア人も、遠征に参加した。イオニア人は、コリントス湾を渡る前に、ナウパクトスの町でテメノスの軍に合流したと思われる。[96]

9.4.4 リュディア人
ヘラクレスの遠征には、キュリクラネス (または、キュティニオン)と呼ばれるリュディア人が同行していた。テメノスの軍中にも、彼らの子孫のリュディア人が、ヘラクレスとオンパレの子孫ヘゲレオスに率いられて、遠征に参加していた。[97]

9.4.5 アルカディア人
ヘラクレスの死後も、ヘラクレスに付き従って遠征したアルカディア人は、トラキスの町に残っていた。[98]
アルカディア人は、その後も、ヘラクレイダイと共に、行動していたと思われる。
ヘラクレイダイが、ペロポネソスに上陸後、最初にアルカディア地方へ向かったのは、彼らの同胞から味方を得ることであったと推定される。

9.4.6 カドメイア人
BC1126年、ティサメノスの子アウテシオンに率いられて、テバイの町からドーリス地方へ移住したカドメイア人も、遠征に参加した。[99]
カドメイア人を率いていたアウテシオンの子テラスは、アリストデモスの息子たちの後見人であった。[100]

9.5 ペロポネソス上陸
BC1112年、テメノスは、ヘラクレイダイとドーリス人を率いて、ドーリス地方を出発した。[101]
テメノスは、アイトリア地方との境界に近いロクリス・オゾリス地方のナウパクトスの町に到着した。[102]
そこから、テメノスは、オクシュロスの案内で、アイトリア地方とロクリス地方の境界にあるモリュクリオンの港まで艦隊を回航し、そこで、渡海の準備をした。[103]
テメノスの艦隊は、モリュクリオンの町近くのアンティリオン岬から、3kmほど先にあるペロポネソスのリオン岬を目指した。[104]
アポロドロスは、テメノスの艦隊が敵を打ち破ったと記している。[105]
アイザック・ニュートン卿は、第29回オリュンピアード (664 BC)に、コリントス人とコルキュラ人との間の戦いを最古の海戦だと伝えている。[106]
しかし、リオン岬沖での海戦が、ギリシア最古であったと思われる。
テメノスの艦隊は、ティサメノスの艦隊を破って、ペロポネソスのリオン岬に上陸した。[107]
BC2世紀の歴史家ポリュビオスは、ヘラクレイダイがコリントス地峡を通らず、リオン岬に向かった場合、ロクリス人は、ティサメノスに連絡するという協定を交わしていたと伝えている。
ロクリス人は、ヘラクレイダイがリオン岬に向かっているのを知りながら、ティサメノスに知らせなかったので、ティサメノスは予防策を講じなかった。[108]

9.6 アルカディア進軍
リオン岬に上陸後、テメノスは、オクシュロスの案内で、アカイア地方の海沿いを東進し、アイゲイラ (または、アイガイ)の町から南へ進路を変えて、アルカディア地方のペネウスの町へ向かった。[109]
アカイア地方のアイギオンの町やヘリケの町は、トロイ戦争時代、ミュケナイの町の勢力下であったが、テメノスは無事に通過した。[110]
後に、アカイア地方の住人は、ティサメノス率いるアカイア人との共住を拒否していることから、アカイア地方は、ミュケナイの町の支配下ではなかったと思われる。
ペネウスの町は、ヘラクレスが5年間居住し、エリスやピュロス、スパルタの町を攻略するための拠点にした町であった。[111]
ヘラクレスの遠征に参加したペネウスの町出身のアルカディア人の子孫も、ヘラクレイダイの遠征に多数参加していた。
ペネウスの町では、ヘラクレイダイの侵攻を恐れたアルカディア王キュプセロスがテメノスを出迎えた。アルカディア人は、ヘラクレイダイにとっては、ヘラクレスの子ヒュッロスの仇であった。キュプセロスは、ヘラクレイダイに許しを請うために、テメノスに対して、自分の娘メロペをクレスポンテスに嫁がせたいと申し出た。[112]
テメノスは、アルカディア人の遠征協力を条件に、彼の弟クレスポンテスとキュプセロスの娘メロペとの結婚を許した。[113]
アルカディア人がヘラクレスの遠征に協力していたことが、この寛大な処置の要因であった。[114]

9.7 メッセニア侵攻
ヒュッロスの子クレオダイオスが、ペロポネソスへ侵攻して、アカイア人に敗れたとき、一部の人々がメッセニア地方のイレの町に逃げ込んで、その地に定住していた。ヘラクレイダイがアルカディア地方からアルゴスの町へ向かわず、メッセニア地方へ侵攻したのは、クレオダイオスの遠征のときに残留した同胞と合流することが目的であったと思われる。[115]
BC1111年、テメノスは、アルカディア地方のトラペズスの町を出発して、メッセニア地方へ侵攻した。当時、メッセニア地方は、メラントスの支配下にあった。[116]
メラントスは、ヘラクレスとの戦いで死んだネレウスの長男ペリクリュメノスの子ペンチロス (または、ボロス)の子ボロス (または、ペンチロス)の子アンドロポンポスの子であった。[117]
メラントスとヘラクレイダイとの間に戦いがあったかどうかは不明であるが、メラントスは、アテナイの町へ移住した。[118]
ネストルの子孫たち、つまり、アルクマイオンやペイシストラトス、それに、パイオンの子供たちもアテナイの町へ移住した。[119]
アテナイの町で、アルクマイオンはアルクマイオニダイ、パイオンの子供たちはパイオニダイと呼ばれる氏族の祖となった。[120]
ペイシストラトスの子孫で、ヒッポクラテスの子ペイシストラトスは、BC6世紀のアテナイの町の僭主となった。[121]

9.8 アテナイ選択の理由
AD12世紀の修辞学者ツェツェスは、ケクロプスに始まるアテナイ王を列挙している中で、「テュモイテスはメラントスの父であった」と述べている。[122]
また、パウサニアスは、メラントスの母も妻もアテナイ人であったと記している。[123]
これらのことから、メラントスの妻は、テュモイテスの娘であったと推定される。
系図を作成すると、移住時のメラントスは50歳を超えており、メラントスの跡を継いだ息子コドロスも30歳を超えていた。テュモイテスは、娘婿にアテナイ王を継がせたと思われる。
メラントスの母ヘニオケの父アルメニオスの父ゼウキッポスは、テッサリア地方のフェライの町からトロイ遠征に参加したエウメロスの息子であった。
エウメロスの遠征中、テッサリア地方にテスプロティア人が侵入して、住人は、ペネスタイ (農奴)になるか、居住地を追われた。[124]
BC4世紀の歴史家エポロスは、アテナイの町には「移住を望むヘラスは歓迎すべし」という慣例があったと述べている。[125]
アテナイ人は、テッサリア地方から逃れて来たイクシオンの子ペイリトウスの後裔を移住者として受け入れ、ペリトイダイという地区を割り当てた。[126]
フェライの町に住んでいたエウメロスの子ゼウキッポスも、アテナイ人に受け入れられてアテナイの町に住んでいたと推定される。[127]
つまり、メラントスがアテナイの町を移住先に選んだのは、アテナイの町が、彼の母や妻の出身地であったからであった。

9.9 アルゴス侵攻
BC1110年、テメノスは、メッセニア地方を獲得した後で、一時帰郷させていたアルカディア人とトラペズスの町で合流した。テメノスは、テゲアの町を通ってアルゴスの町へ向かった。
アルゴス地方へ入り、ここで、初めてティサメノス率いるアカイア人と会戦した。[128]
ティサメノスは敗れてアルゴスの町へ退却して、籠城した。テメノスは、アルゴスの町の南南東のアルゴス地方湾の近くのテメニオンの町に砦を築いて、アルゴスの町を攻囲した。[129]
ヘラクレイダイは、艦隊でアルゴス地方沿岸部の町を攻略しており、砦を築いたテメニオンの町は海からの補給に最適であった。[130]

9.10 アルゴス入城
アルゴス地方のミュケナイの町やテュリンスの町と同じように、アルゴスの町も城壁を備えており、攻囲戦は長期化した。[131]
攻城兵器のなかった当時は、兵糧攻め以外に城壁を備えた町を攻略する手段はなかった。
テメノスは、ティサメノスに対してアルゴスの町の領有権を主張して、ティサメノスは、アルゴスの町からスパルタの町に移った。[132]
おそらく、ティサメノス側の糧秣が尽きたことや、アルゴス人がアルゴスの町の占領者の子孫ではなく、アルゴスの町の建設者の子孫を支持したからと思われる。[133]
当時、アルゴスの町に住んでいたテュデオスの子ディオメデスの後裔エルギヌスが、アルゴスの町にあった都市の守護神パラディオン神像を盗み出して、テメノスに協力したという伝承もある。[134]
BC1107年、テメノスはアルゴスの町に入城した。

9.11 シキュオン攻略
アルゴスの町を攻囲中、テメノスは、彼の息子パルケスに軍の一部を率いさせて、シキュオンの町の攻略に向かわせた。シキュオン王ラケスタデスは、ヘラクレスの子パイストスの子ロパロスの子ヒッポリュトスの息子であり、ヘラクレイダイの一人であったため、戦わずに共同で統治することになったという。しかし、パイストスは、ミュケナイ人に追い出されることもなく、ヘラクレイダイに協力することもなかったことから、ヘラクレスの息子ではないと思われる。[135]

9.12 スパルタ入城
BC1106年、テメノスは、スパルタの町攻略のためアルゴスの町を出発した。[136]
ティサメノスは、スパルタの町に籠城し、テメノスはスパルタの町を攻囲した。ティサメノスの軍にはアルゴス人がいなくなり、アカイア人だけが残っていた。
ヘラクレイダイは、ピロノモスなる者に見返りを約束して、ティサメノスの説得に当たらせ、ピロノモスは、ティサメノスにアカイア地方への移住を決断させることに成功した。[137]
このピロノモスは、アテナイの町からレムノス島へ移住したペラスゴイ人に追われて、レムノス島からラケダイモンへ移住して来たミニュアス人の一人であった。[138]
BC1104年、ティサメノスは、テメノスと休戦して、ペロポネソス半島北部のアカイア地方へ移住した。[139]

9.13 オクシュロスの離脱
ヘラクレイダイの案内役をしていたオクシュロスが、テメノスからエリスの町領有の約束を得て、アイトリア地方に向けて、スパルタの町を出発したのは、この頃であったと推定される。それまで、オクシュロスは、アルゴスの町を退去したティサメノスが、エレイア地方へ行かないか注視していたものと思われる。

9.14 ティサメノスのアカイア移住
ティサメノスがアカイア地方を移住先に選んだのは、つぎのような理由であったと思われる。
1) アカイア地方は、トロイ戦争の前からミュケナイの町の支配下にあった。
2) アカイア地方には、有力な支配者がいなかった。
オクシュロスが危惧したように、ティサメノスの先祖ペロプスが住んでいたエレイア地方も選択肢の一つに挙がったと思われる。しかし、エレイア地方は、上記の理由に反していたことから移住先にならなかったものと推定される。
この時、ティサメノスと共に移住したのは、ラコニア地方からアルゴス地方にかけて広く居住していたアカイア人と呼ばれる人々であった。古くから、その地方に住んでいたラケダイモン人やアルゴス人は、そのまま住み続けたと思われる。
後のスパルタ王アギスは、ラケダイモン王アミュクラスの子孫であるプレウゲネスの子パトレウスが、ティサメノスらが移住したアカイア地方にパトライの町を建設するのに協力した。[142]
また、ラケダイモン人は、ペンチロスの子エケラスの子グラスの植民活動を支援した。
[143]

9.15 オクシュロスのエリス領有
BC1105年、オクシュロスは、アイトリア人を率いてエリスの町に進軍し、当時のエリス王ディオスに王権を譲るよう迫った。しかし、ディオスは、それを拒否して、両軍の代表者の一騎打ちで決めることになった。ディオス側の弓兵とオクシュロス側の投石兵による戦いは、投石兵が勝ち、オクシュロスは、エリスの町の王権を手にした。[144]
まるで史実であるかのように、一騎打ちをした両者の名前も伝えられているが、作り話と思われる。オクシュロスは、エリスの町の王権を受け取ることのできる次のような理由があった。
1) オクシュロスは、BC1330年頃、アイオロスの子サルモネオスに追われてアイトリア地方へ移住したエリス王アイトロスの6代目の子孫であった。
2) ディオスは、ヘラクレスに敗れて、許されたアウゲアスの子孫であり、ヘラクレイダイに借りがあった。
3) オクシュロスは、ヘラクレイダイと血縁関係があった。
オクシュロスは、それまでのエリスの町の住民であるエペイオイ人は、そのまま居住することを許し、新たにアイトリア人を入植させて共住させた。[145]
オクシュロスは、アカイア地方のヘリケの町からオレステスの曾孫アゴリオスをエリスの町の共同統治者として迎えた。[146]
恐らく、オリュンピアの管理を巡って、ピサの町との対立があったからと思われる。

9.16 領土の割り当て
BC1104年、ヘラクレイダイの帰還は、一部を除いて完了し、それぞれの領土の割り当てが行われた。[147]
テメノスはアルゴスの町を、クレスポンテスはメッセニア地方を、アリストデモスの息子たちは、ラケダイモンを領有することになった。この割り当ては、籤引きで決めたと、多くの伝承が記している。[148]
しかし、年長のテメノスが父祖の地アルゴスの町を獲得し、アルカディア王の娘を妻にしているクレスポンテスが、豊かなメッセニア地方を獲得したと考えられる。
まだ幼い、アリストデモスの息子たちには発言権はなかった。
伝承では、アリストデモスの息子たちの後見人テラスが発言しているが、彼にも発言権はなかった。
テラスの父アウテシオンは、テバイ王であったが、テッサリア地方のアルネの町から帰還したボイオティア人によって追放されて、ドーリス人のもとへ身を寄せた亡命者であった。[149]

9.17 ヘラクレイダイ帰還の年
アテナイのアポロドロスは、イオニア人の移住から最初のオリュンピアード (776 BC)まで267年間あったと伝えており、BC1043年がイオニア人の移住が完了した年になる。[150]
ロドス島のカストールは、ヘラクレイダイの帰還からイオニア人の移住までは、60年間であったと伝えている。[151]
カストールが言及しているヘラクレイダイの帰還の年とは、ヘラクレイダイがそれぞれの領土の割り当てを完了した年と思われる。

10 ヘラクレイダイ帰還後のペロポネソス
10.1 アカイア
多くのアカイア人を引き連れてスパルタの町を退去したティサメノスは、アカイア地方へ移住した。ティサメノスは、アカイア地方に住んでいたイオニア人に対して、共住を申し出たが拒否されて、戦いになった。ティサメノスは、イオニア人との戦いで戦死した。[152]
しかし、アカイア人は、イオニア人との戦いを優位に進めた。12の町に分かれて住んでいたイオニア人は、神の庇護を求めてヘリケの町に集まり、アカイア人は彼らを包囲した。[153]
イオニア人は、アカイア人と休戦して、父祖の地アテナイの町へ移住することになった。[154]
アテナイ人は、300年以上前に、イオニア人の始祖クストスの子イオンから受けた恩を忘れずに、イオニア人を受け入れた。アテナイ王メラントスは、ドーリス人へ対抗するための勢力強化を図るためにアカイア地方から亡命してきたイオニア人の共住を許した。[155]

10.2 アルゴス
テメノスの娘ヒュルネトの夫アンティマコスの子デイポンテスは、ドーリス人を率いて、アルゴスの町の東のエピダウロスの町へ進軍した。デイポンテスは、クストスの子イオンの子孫のピテュレウスから戦うことなくエピダウロスの町を譲渡させた。[156]
デイポンテスは、アッティカ地方のテトラポリスから遠征に参加したイオニア人を、エピダウロスの町に定住させた。[157]
その後、アルゴスの町のテメノスは、彼がデイポンテスに好意的なことに対して不満を持つ、彼の息子たちによって殺された。[158]
テメノスの跡を長男ケイソスが継ぎ、彼は住民を集めて新しいアルゴスの町を建設した。[159]
BC1070年、ケイソスの末の息子アルタイメネスは、アルゴスの町からドーリス人とペラスゴイ人を率いてクレタ島へ植民した。[160]
ドーリス人は、クレタ島内に10市を建設した。[161]
その後、アルタイメネス自身は、ロドス島へ入植した。[162]
アルタイメネスは、ロドス島へ入植した人々をさらに、ハリカルナッソス、クニドス、それに、コスへ分散した。[163]
アルタイメネスの移住の原因は、アルゴスの町の内紛だという伝承もあるが、飢饉が原因であった。[164]

10.3 ラケダイモン
10.3.1 アカイア人の追放
ティサメノスに対して、移住を決断させた功労者ピロノモスは、スパルタの町のすぐ南のアミュクライの町を任せられた。[165]
アミュクライの町は、アカイア人の町として最後まで残っていたがドーリス人の攻撃を受け、徹底抗戦の後で、ペロポネソスから立ち退いた。[166]
アルタイメネスがアルゴスの町からクレタ島へ移民団を率いた時期と、アミュクライの町の人々がメロス島や、クレタ島のゴルテュナの町へ移住した時期とは、同じ頃であった。[167]
もちろん、このアミュクライの町からの移住が最終的な町の放棄かどうかは不明である。
アミュクライの町の抵抗は頑強を極め、ドーリス人はテバイの町からティモマコスを招いて、部隊の組織化などの指導を受けて、ようやくアカイア人を追い出した。[168]
また、それ以前に、アカイア人が住み続けていたパリスの町とゲロントライの町の人々もドーリス人との戦いを避けて、町を退去した。[169]

10.3.2 テラへの移住
エウリュステネスとプロクレスが成人すると、後見人の役目を終えたテラスは、スパルタの町とロドス島の中間にあるカリステ島へ移住した。[170]
その島は、ポイキレスの子メンブリアロスの子孫が支配していたが、テラスは住民の支持を得て、その地の王となり、島は、テラと呼ばれるようになった。[171]
スパルタ王家の始祖であるエウリュステネスとプロクレスは、双子であったが意見が合わず、常に対立していたが、テラスの移住についてはどちらも積極的に支援した。[172]
テラスが率いた移民団には、各部族から選抜した者たちの他に少数のミニュアス人も含まれていた。[173]
そのミニュアス人の中には、エウペモスとラマケとの間の息子レウコパネスの子孫も含まれていた。[174]
BC630年、レウコパネスの子孫であるポリュムネストスの子バットスは、テラ島から移民団を率いてリビュアへ移住して、キュレネの町を創建した。[175]

10.4 プリウス
BC1087年、テメノスの子パルケスの子レグニダスは、アルゴスの町とシキュオンの町の軍勢を率いてプリウスの町へ遠征し、住民から受け入れられてプリウスの町の王となった。受け入れを反対したプリウスの町の指導者ヒッパソスは、サモス島へ移住した。[176]
BC1095年、ピテュレウスの子プロクレスが、アテナイの町から元のエピダウロスの町の住人の大半を率いて、サモス島に入植し、先住民と共住し、サモスの町を創建していた。[177]
また、プリウスの町の一部の人々は、クレオナイ人と共に、小アジアに渡り、クラゾメナイの町を創建した。[178]

10.5 コリントス
BC1075年、ヒッポタスの子アレテスは、ドーリス人を率いて、シキュオンの町の西のゴヌッサの町からアンタソスの子メラスを遠征隊に加えて、コリントス攻略に向かった。[179]
ヒッポタスは、ヘラクレスとドリュオペスの町のピュラスの娘メダとの間の息子アンティオコスの子ピュラスの息子であった。[180]
また、アンタソスは、エポペウスの子マラトンの子シキュオンの娘ゴヌッサの後裔であった。[181]
当時のコリントスの町は、プロポダスの2人の息子たち、ドリダスとヒュアンティダスが王位にあった。彼らは、王位をアレテスに譲って、その地に留まった。しかし、コリントスの町に住んでいたアイオリスは、ドーリス人に抵抗した。アレテスは、ソリュゲイオンの丘に陣を構えて戦い、抵抗したアイオリスをコリントスの町から追い出した。[182]
アレテスは、コリントス王となってメラスを共住者とした。BC657年にコリントスの町の僭主となったエイティオンの子キュプセロスは、メラスの後裔であった。[183]

10.6 アテナイ
BC1074年、ドーリス人は、ペロポネソスから流入した人々で人口が増えたアテナイの町へ侵攻した。
ドーリス人との戦いで、アテナイ王メラントスの子コドロスは戦死したが、アテナイの町はドーリス人を撃退することができた。[184]

10.6.1 侵攻理由
この侵攻の理由を、ストラボンは、メラントスの子コドロスがアテナイ王であったので、ドーリス人がメッセニア地方を憂慮していたと記している。[185]
つまり、ストラボンは、コドロスが父メラントスの旧領メッセニア地方を奪い返す前に、ドーリス人が先手を打ったと考えていた。
しかし、次のことから、ドーリス人は、支配地域の拡大を狙って、アテナイの町へ侵攻したと推定される。
1) ドーリス人に勝利したコドロスの息子たちが、メッセニア地方を奪い返そうとしていない。
2) ドーリス人は、アテナイの町とコリントスの町の間に、メガラの町を建設した。[186]
3) アッティカ地方は、ヘラクレイダイの先祖ヒュッロスたちの故郷の一つであった。[187]

10.6.2 指揮官
ドーリス人を率いたのは、コリントスの町のアレテスだという伝承もある。[188]
しかし、アレテスの父ヒッポタスの父ピュラスの父アンティオコスは、アテナイの10部族のひとつアンティオキスの名祖である。[189]
アテナイ人が、自分たちを攻めたアレテスの先祖を名祖にしたとは思われない。

10.6.3 メガラの建設
ドーリス人は、アテナイの町から帰る途中、メガラ地方に住んでいたイオニア人を追い出して、ドーリス人のメガラの町を建設した。[190]
このとき追い出されたイオニア人もアテナイの町へ移住し、一部は、アッティカ地方の東海岸のブラウロンの町へ住み着いた。ブラウロンの町には、メガラの町に墓があるアガメムノンの娘イピゲニアに関係のあるアルテミス神像があった。[191]

10.7 ミュケナイ
ストラボンは、ミュケナイの町がアルゴスの町と共に、ヘラクレイダイに占領されたと記している。
[192]
しかし、ディオドロスは、ミュケナイ人は独立を保っていたと伝えており、ミュケナイの町は、ヘラクレイダイに占領されることなく、アカイア人が引き続き住んでいたと思われる。[193]
BC480年8月、ミュケナイの町は、テルモピュライの戦いに、兵80人を派遣し、BC479年8月、プラタイアの戦いには、テュリンスの町と合わせて兵400人を派遣した。
BC494年、ラケダイモンとの戦いで、男子市民のほとんどを失ったアルゴスの町はペルシア人との戦いに兵を出すことができず、それらの戦いに派兵したミュケナイ人を嫉んでいた。[194]
BC468年、アルゴスの町は、テゲアの町などから援軍をもらい、ミュケナイの町を兵糧攻めにした。糧食の尽きたミュケナイ人の大半はマケドニア地方のアミュンタスの子アレクサンドロスに保護を求め、一部はクレオナイの町やケリュネイアの町に逃げ込んだ。[195]
アカイア地方のケリュネイアの町の住人は、ミュケナイ人を共住者として受け入れた。[196]

10.8 テュリンス
テュリンスの町もミュケナイの町と同じようにドーリス人に占領されず、アカイア人が住んでいたと思われる。
BC494年、アルゴスの町は、攻め入ったラケダイモン王アナクサンドリダスの子クレオメネスと、テュリンスの町近くのセペイアで戦い、男子市民のほとんどを失った。[197]
アルゴスの町は奴隷に町を託していたが、一般市民の息子たちが成人すると、奴隷たちを町から追放した。アルゴスの町を追われた奴隷たちは、テュリンスの町からアカイア人を追い出して占領した。長期の戦い後、テュリンスの町は、アルゴスの町の一部になった。[198]
テュリンスの町に住んでいたアカイア人は、アルゴス地方湾の入り口東側のハリエイスの町へ移住した。[199]

10.9 クレオナイ
ヘラクレイダイの帰還後、ヘラクレスの子クテシッポスの曾孫アガメディダスがクレオナイの町を治めた。[200]
BC1050年、クレオナイの町の住民の一部は、プリウスの町の住人と共に小アジアへ移住して、クラゾメナイの町を創建した。[201]
しかし、それ以降もアカイア人はクレオナイの町に住んでいたと思われ、BC468年にアルゴスの町に攻められたミュケナイ人の一部が、クレオナイの町に逃げ込んだ。[202]

10.10 トロイゼン
アルゴスの町に従属していたトロイゼンの町は、ドーリス人を共住者として受入れた。[203]
BC1070年、アンテスは、トロイゼンの町から植民団を率いて、カリア地方へ移住して、ハリカルナッソスの町とミュンドスの町を創建した。[204]
アンテスは、アンタスの子アイティオスの後裔であった。[205]

10.11 メッセニア
メッセニア地方を獲得したクレスポンテスは、ステニュクラロスの町を王都に定めた。[206]
その後、「真の」ヘラクレイダイの後裔と称するポリュポンテスがクレスポンテスと息子2人を殺害して王位を簒奪した。[207]
クレスポンテスの末の息子アイピュトスは、アルカディア地方のトラペズスの町の祖父キュプセロスのもとで養育されていたため無事であった。[208]
BC1082年、アイピュトスは、アルカディア地方の伯父ホライアスやアルゴスの町のテメノスの子イストミオス、そして、スパルタの町のエウリュステネスやプロクレスの支援を受けてメッセニア王に復位した。[209]

おわり

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