1 はじめに
1.1 トロイ戦争前の入植地
小アジアは、古くから、ヒッタイトの勢力が及んでいて、ギリシア人の入植地は、ミレトスの町やリュキア地方のクサントス川付近、および、その周辺の島々に限られていた。
BC13世紀の後半、ヒッタイトの勢力が衰えてくると、アルカディア地方のテゲアの町からミュシア地方への入植が行われた。[1]
また、ボイオティア地方からコロポンの町への入植もあった。[2]
1.2 トロイ戦争後の入植地
BC12世紀になり、ヒッタイトが滅亡し、ヒッタイトの属国ウィルサ (トロイ)も、トロイ戦争を経て、勢力を失った。
これらの後で、ギリシア人による本格的な小アジアへの植民活動が始まった。
最初に、ドーリス人の侵攻によって、土地を荒廃させられたアカイア人が、小アジア北部へ入植した。ヘロドトスは、イオニア地方よりアイオリス地方の方が豊沃であったと伝えている。[3]
次に、ドーリス人の侵攻によって、ペロポネソスから追い出されたイオニア人が、アッティカ地方やエウボイア島を経由して、小アジア中部へ入植した。
最後に、ドーリス人が飢饉から逃れて、ペロポネソスやメガラ地方から、小アジア南部へ入植した。
アカイア人やイオニア人の移住は、複数回に及ぶものであった。
1.3 ギリシア人の入植地
BC16世紀から、ギリシア人は、アナトリア半島の沿海地方全般にわたって、植民活動を行っていた。BC13世紀の後半、ヒッタイトの勢力が衰えてくると、ギリシア人が真っ先に入植したのは、ミマス半島の南北の土地であった。アイオリス地方やイオニア地方の町も、ミマス半島の南北に集中して、建設された。
その地方の土地や気候が、ギリシア人に適していたのだと思われる。
2 アカイア人のアイオリス植民 (1170-1055 BC)
2.1 アイオリス植民の開始時期
ストラボンは、アイオリスの小アジアへの植民活動は、イオニア人より4世代早く始まったと伝えている。[4]
アイオリスへの最初の植民は、アガメムノンの子オレステスによるものであった。
そして、イオニア人の植民活動の最初の遠征は、BC1073年にアテナイの町のプリュタネイオンから出発したコドロスの子ネイレウスによるものであった。
ネイレウスは、メラントスの子コドロスの息子であり、メラントスとオレステスの子ティサメノスは、同時代人であるので、オレステスはネイレウスより3世代前となる。
3世代で100年として計算しているヘロドトスに従えば、アイオリス植民の開始は、BC1170年と推定される。[5]
2.2 オレステスの植民
BC1170年、アガメムノンの子オレステスは、アミュクライの町のペイサンドロスと共にテネドス島へ遠征して、テネドスの町を創建した。[6]
ペイサンドロスの母方の祖父は、テバイ攻めの守将メラニッポスであった。[7]
また、オレステスの遠征には、エピダウロスの町のペリントスも同行し、ペリントスの町(トラキア地方の町ではない)を創建した。[8]
2.3 オレステスの植民の原因
2.3.1 ドーリス人の侵入
アガメムノンが死ぬと、ヒュッロスの子クレオダイオスは、ドーリス人を率いて、ミュケナイの町を攻めて、町を破壊した。[9]
あるいは、アガメムノンは、ドーリス人との戦いで死んだと思われる。
アガメムノンが死んだのは、彼の治世30年目のBC1173年であった。[10]
近年の考古学調査で、BC12世紀のミュケナイの町に破壊された痕跡が確認されている。[11]
ドーリス人は、テュリンスやミデイアの町も破壊した。[12]
また、ドーリス人は、アミュクライの町やエピダウロスの町へも侵攻して、土地が荒廃した。
アリストテレスは、トロイ戦争以後、ミュケナイの町は乾燥して不毛になったと伝えている。[13]
この気候変動と土地の荒廃が、アカイア人の小アジアへの植民の原因と推定される。
2.3.2 トロイ戦争
ペイサンドロスのテネドス島への入植と、ヘクトールの息子たちによるイリオン奪還が同時期であり、つぎのように推定される。
BC1186年、アンテノールの息子たちによって、イリオンの町を奪われたヘクトールの息子たちは、アキレスの子ネオプトレモスに連れられて、モロッソス人の地へ逃れた。[14]
BC1170年、ヘクトールの息子たちは、イリオンの町を攻めて、アンテノールの息子たちから町を取り戻した。[15]
この時、ヘクトールの息子たちは、各地に逃れていた同胞を結集した。
その中には、テネドス島からアルゴス地方へ逃れて、アガメムノンによってテネアの町に居住させられたトロイ人もいた。[16]
彼らは、アガメムノンの子オレステスに率いられて、イリオンの町の攻略にも参加したと推定される。
戦いの後で、テネアの町のトロイ人の一部は、テネドス島へ帰還した。
さらに、オレステスは、アミュクライの町の土地を失った人々をペイサンドロスに率いらせて、テネドス島へ入植させた。
2.4 ペンチロスの植民
オレステスの死後、オレステスの子ペンチロスは、移民団を率いて、小アジアへ渡った。
BC1126年、ペンチロスは、ボイオティア地方のアウリス港を出港し、レスボス島を占領して植民した。[17]
かつて、レスボス島はペラスギア島と呼ばれて、アルゴスの町のトリオパスの子クサントスが率いて入植したペラスゴイ人が居住していた。その後、アイオロスの子マカレウスが入植し、ラピトスの子レスボスが移民団を率いて入植し、島は、レスボス島と呼ばれるようになった。島に住んでいたペラスゴイ人の一部は、本土へ移住して、島にはアイオリスが多くなった。[18]
ペンチロスには、彼の異母兄弟ティサメノスの子コメテスも同行して、アイオリス地方へ移住した。[19]
また、ティサメノスは、ボイオティア人だけの移民団を率いたこともあった。[20]
2.5 クレウエスとマラオスの植民
BC1126年、レスボス島へ向かうペンチロスの後から、ドロスの子クレウエスとマラオスの遠征隊も続くはずであったが、彼らの居住地に長く留まっていた。[21]
アリストマコス率いるヘラクレイダイのペロポネソス帰還の推移を見ていたものであった。彼らは、ペンチロスよりもかなり遅れて出発した。[22]
クレウエスもマラオスもアガメムノンの曾孫で、ロクリス地方やプリキオン山付近に住んでいた。[23]
クレウエスとマラオスの移民団は、レスボス島の対岸の本土へ移住して、ラリッサの町やその周辺に住んでいたペラスゴイ人を追い出して、キュメ・プリコニスの町を創建した。[24]
BC1186年、イリオンの町から逃れたアテナイ人が、キュメの町の近くのエライアの町に定住していた。[25]
ラリッサの町の周辺に住んでいたペラスゴイ人は、レトスの息子たち、ピュライオスとヒッポトオスに率いられた強大な部族であったが、トロイ戦争で弱体化していた。[26]
2.6 ペンチロスの子アルケラオスの植民
BC1100年、ペンチロスの子アルケラオス (または、エケラス)は、アカイア人の移民団を率いて、アナトリア半島北西部のダスキュリオンの町の周辺へ移住した。[27]
BC680年、カンダウレスの次のリュディア王ダスキュロスの子ギュゲスは、ダスキュリオンの町の出身であった。[28]
リュディア王ギュゲスは、イオニア地方の町を次々と攻略するが、イオニア人は、アカイア人の敵であったからであった。[29]
2.7 グラスの植民
オレステスの後裔による植民活動は、ヘラクレイダイ帰還後も行われ、ラケダイモン人は、ペンチロスの子アルケラオスの子グラスの植民活動を支援した。[30]
アイオリス地方への移民の中には、スパルタの町の古くからの住人であるラケダイモン人も含まれていたものと思われる。支配者が代わってもスパルタの町とその植民地との繋がりは維持されていたものと思われる。
BC1055年、アルケラオスの子グラスは、グラニコス川まで遠征し、レスボス島を再占領して、ミュシア地方とイオニア地方の間のアイオリス地方を領有した。[31]
2.8 アイオリスの12市
BC5世紀の歴史家ヘロドトスによれば、アイオリス12市は、つぎのとおりである。
キュメ・プリコニス、ラリッサ、ネオンテイコス、テムノス、キラ、ノティオン、アイギロエッサ、ピタネ、アイガイアイ、ミュリナ、グリュネイア、スミュルナ。[32]
しかし、スミュルナは、後に、イオニア地方の町になった。
2.9 アイオリスの名称
2.9.1 名称への疑問
アイオリス地方の名称は、アイオリス人に因んでいるようである。[33]
しかし、アイオリス地方への植民を主導したのは、アガメムノンの後裔たちであり、アカイア人であった。
アカイア人の始祖は、ヘレンの子クストスの子アカイオスであった。[34]
また、アイオリス人の始祖は、ヘレンの子アイオロスであった。[35]
つまり、アカイア人とアイオリス人は、ヘレネスの支族ではあったが、アカイア人は、アイオリス人の支族ではなかった。[36]
何故、アイオリス地方は、アカイア地方と呼ばれなかったのであろうか。
2.9.2 名称決定理由
アイオリス地方と呼ばれたのは、その地方最大の町キュメ・プリコニスの住人の多くがアイオリス人であったからと思われる。[37]
キュメの町の住人は、ロクリス地方のプリキオン山周辺から小アジアへ移住した人々であった。[38]
プリキオン山周辺には、多くのアイオリス人が住んでいた。[39]
彼らは、テッサリア地方に侵入したテスプロティア人に追われて、プリキオン山周辺へ逃れて来たアイオリス人であった。[40]
アルゴス地方やラコニア地方に住んでいたアカイア人の多くは、ペロポネソス北部のアカイア地方へ移住し、小アジアへ移住したアカイア人は少なかった。
一方、アガメムノンの後裔に率いられて、プリキオン山周辺から小アジアへ移住して、キュメの町の建設に参加したアイオリス人は、もの凄い数であった。
つまり、アイオリス地方の住人は、アカイア人よりアイオリス人の方が多かったので、アイオリスと呼ばれるようになったのだと思われる。
3 イオニア人の小アジア植民 (1073-43 BC)
第17代アテナイ王コドロスが死ぬと、長男メドンが父の跡を継いだ。他の兄弟は、ネイレウスと共に植民団を率いてアテナイの町に溢れた人々を受け入れる土地を探して遠征することになった。[41]
移住先は、トロイ戦争の後で、アカイア人が入植したアイオリス地方より南の地方であった。
その地方には、カリア人やレレゲスが住んでいた。[42]
レレゲスの王は、カドモスの異母兄弟ポイニクスの娘アステュパライアの子アンカイオスであった。[43]
レレゲスは、カリア人と混血したギリシア人であった。[44]
3.1 イオニア人の植民活動の期間
イオニア人の小アジアへの植民は、BC1073年から数回にわたって行われた。
アテナイのアポロドロスは、イオニア人の移住から最初のオリュンピアード(BC776)まで267年間あったと伝えており、BC1043年がイオニア人の移住が完了した年になる。[45]
ロドス島のカストールは、ヘラクレイダイの帰還からイオニア人の移住までは、60年間であったと伝えている。[46]
スパルタの町のオレステスの子ティサメノスが、ヘラクレイダイに町を明け渡したのが、BC1104年と推定される。
したがって、カストールの説が、イオニア人が移住を完了した年とすれば、アポロドロス の説とほぼ合致する。[47]
3.2 イオニア人の他の植民参加者
小アジアのイオニア地方への移住者の大半は、古くからペロポネソス半島北部に住んでいて、アカイア人に追われて、アテナイの町へ移住したイオニア人であった。
しかし、つぎの種族もイオニア人と共に小アジアへ移住した。[48]
3.2.1 アバンテス
エウボイア島から移民団に参加したアバンテスは、イオニア人に次いで大きな比重を占めていた。[49]
アバンテスは、元々はアルゴスの町に住むペラスゴイ人であった。ダナオスの娘ヒュペルメストラの子アバスがポキス地方に創建したアバイの町からエウボイア島へ移住したカルコドンの父アバスの名に因んでアバンテスと呼ばれるようになった。[50]
アバンテスとイオニア人とは種族的には、まったく結び付きがないが、つぎの点から密接な繋がりがあったものと思われる。
1) 第9代アテナイ王アイゲウスの妻の一人カルキオペが、アバスの子カルコドンの娘であった。[51]
2) 第10代アテナイ王テセウスの息子たちがカルコドンの子エレペノールのもとへ避難した。[52]
3.2.2 ミニュアス人
BC1188年、ポキス地方のヒュアンポリスの町のヒュアンテスがオルコメノスの町に侵入した。町から追い出されたミニュアス人は、アイオロスの子アタマスの後裔であるアタマスに率いられてイオニア地方へ移住してテオスの町を創建した。[53]
ミニュアス人の一部は、アテナイの町に受け入れられて、ムニュキアに住んだ。[54]
BC1126年、テッサリア地方のアルネの町からボイオティア地方にボイオティア人が帰還し、コロネイアの町のペラスゴイ人を追い出して、オルコメノスの町も併合した。[55]
このとき、アテナイの町に住んでいたミニュアス人は、オルコメノスの町へ帰還した。
しかし、ミニュアス人の一部は、アテナイの町に残留していて、その後、イオニア人の植民活動に加わった。[56]
3.2.3 カドメイア人
テバイの町の最後の王クサントスの祖父ダマシクトンの祖父ペネレオスの後裔ピロタス率いるカドメイア人もイオニア人と共へ移住した。[57]
3.2.4 その他の種族
イオニア人と共に、ドリュオプス人、デルポイ人を除くポキス人、モロッソス人、アルカディア人、エピダウロスの町の新しい住人であるドーリス人も移住に参加した。[58]
4 イオニアの12市
イオニア人は、アカイア人に追われる前に、ペロポネソス半島北部にあった12の町の数と同じ数の町を小アジアのリュディア地方やカリア地方の沿岸部に創建した。[59]
イオニア人が入植する前は、エペソスの町以南の地方にはカリア人が住み、北の地方にはレレゲスが住んでいた。[60]
12市とは、ミレトス, エペソス, エリュトライ, クラゾメナイ, プリエネ, レベドス, テオス, コロポン, ミュオス, ポカイア, サモス, キオスであった。[61]
その後、スミュルナの町が加わった。[62]
4.1 ミレトス
4.1.1 イオニア人の移住前
4.1.1.1 最初のギリシア人
カドモスの兄弟ポイニクスの娘アステュパライアの息子アンカイオスは、レレゲスの王であった。アンカイオスの妻サミアは、マイアンドロス河神の娘であった。[63]
古い時代には、ミレトスの町はレレゲイスと呼ばれて、レレゲスの居住地であった。[64]
以上のことから、アンカイオスは、マイアンドロス川の流れるミレトスの町を支配していたと推定される。
レレゲスとは、特定の種族に属さない混血した人々に与えられた名前であった。[65]
つまり、アンカイオスが支配した人々は、先住民のカリア人と共住して、混血したギリシア人であった。[66]
アンカイオスの孫と思われるアナックスが父の跡を継いで、ミレトスの町は、アナクトリアと呼ばれた。[67]
4.1.1.2 ヒッタイトへの従属
BC1318年、ヒッタイト王ムルシリ2世は、ミレトスの町を攻めて、占領した。[68]
この戦いの原因は、ミレトスの町がヒッタイトに反抗していたウハジティと同盟を結んでいたからであった。[69]
アナックスの子アステリオスは、ミレトスの町の前に浮かぶラデ島近くの島へ逃れて死んだ。[70]
また、アナックスの息子と思われるクレオクスは、ウハジティの軍に合流した。
その後、クレオクスは、ムルシリ2世との戦いに敗れて、ウハジティの子ピヤマクルンタと共にヒッタイト軍の捕虜になった。[71]
その後のクレオクスの消息は不明であるが、ミレトスの町の近くのディデュマイオンに墓があった。[72]
クレオクスの娘アリアはクレタ島へ逃れ、彼女に息子ミレトスが生まれた。[73]
4.1.1.3 ヒッタイトからの独立
BC1295年、アリアの子ミレトスは、ミノスの兄弟サルペドンの協力を得て、クレタ島から小アジアへ移住して、祖父の旧領を回復した。[74]
ミレトスの息子は、ラオメドンの娘ヘシオネを妻に迎えて、トロイとの関係を深めた。[75]
4.1.1.4 再び、ヒッタイトへ従属
ミレトスが死ぬと、ミレトスの町は、再び、ヒッタイトの属国になった。
しかし、ミレトスの息子は、父がヒッタイト王に敵対していたが、ヒッタイト王によって、そのままミレトスの町を任せられた。[76]
ミレトスの息子が許されたのは、彼の妻がトロイ王ラオメドンの娘であったからと推定される。
4.1.1.5 トロイ戦争時代
ペレウスの子アキレスは、ミレトスの町を攻めて、レレゲスの王トランベロスを殺した。 [77]
トランベロスの母は、ラオメドンの娘ヘシオネであり、彼は、ミレトスの息子からミレトスの町を継承していた。[78]
4.1.2 イオニア人の移住
BC1073年、コドロスの子ネイレウスは、アテナイの町が派遣した正式な移民団として、プリュタネイオンから新天地に向けて出発した。[79]
ネイレウスの移民団は、女性を含まない若者たちの集団であった。[80]
アテナイ王コドロスの継承権を争ったネイレウスの入植地ミレトスの町は、イオニア地方の王都にはなれなかった。[81]
ミレトスの町が王都になれなかったのは、その町がイオニア地方の外れにあったことや、その町の住民が、イオニア人ではなかったからであった。ミレトスの町の住人は、コドロスの父メラントスと共にアテナイの町へ移住して来たメッセニア人であった。[82]
後に、ミレトスの町の賢人タレスは、ミレトスの町をイオニア地方の中心都市にするべきだと主張した。[83]
ネイレウスに同行したパシクレスの子ピリストスは、ミレトスの町の近くのスコロポエイスの地に、エレウシスのケレスの神殿を建立した。[84]
4.2 ミュオス
BC1080年、コドロスの庶子キュドレロス(または、キュアレトス)は、ネイレウスと仲違いして、ミレトスの町からマイアンドロス川を少し遡った土地へ移住してミュオスの町を創建した。[85]
4.3 エペソス
4.3.1 イオニア人の移住前
トロイ戦争当時は、アロペの町と呼ばれ、カリア人やレレゲスが住んでいた。[86]
ヒッタイト文書に登場するアルザワの首都アパサは、エペソスの町の古い名前のようである。[87]
BC1318年、アパサは、ヒッタイト軍に攻められて陥落し、住人は追放された。[88]
その後、サモス島の奴隷1,000人がエペソスの町に定住した。[89]
BC1150年、スミュルナ率いるアマゾン族がエペソスの町に攻め込み、神殿を焼き払った。[90]
アマゾン族のオトレラが、世界の7不思議に数えられる、ディアナの神殿を建立した。[91]
多くの史料が、アマゾン族がエペソスの町を創建したと伝えている。[92]
しかし、いずれの創建者もギリシア人ではなかった。
4.3.2 イオニア人の移住
BC1068年、コドロスの子アンドロクロスが、カリア人やレレゲスを追い出して、エペソスの町を創建し、エペソスの町は、イオニア地方の王都となった。[93]
その後、エペソスの町のスミュルナ地区に住んでいた人々が、町から北へメレス川を越えた所へ移住して、スミュルナの町を建設した。[94]
BC1053年、アンドロクロスは、カリア人に攻められたプリエネの町を救援するため、エペソス人を率いて駆け付けて勝利するが、アンドロクロスは戦死した。[95]
その後、アンドロクロスの息子たちと他のエペソス人との争いが生じて、敵対者はテオスの町やミュシア地方のカリネの町から植民者を受け入れて対抗した。その結果、エペソス人は5つの部族になった。つまり、本来のエペソス人の他に、ベンナイ人、エウオニュモオス、テイア人、カリネ人である。[96]
4.4 レベドス
BC1068年、コドロスの子アンドライモンが、カリア人を追い出して、レベドスの町を創建した。[97]
アンドライモンは、その後、コロポンの町の支配者プロメトスが兄弟ダマシクトンを殺して、ナクソス島へ移住した後で、コロポンの町をも統治したと推定される。[98]
4.5 コロポン
4.5.1 イオニア人の移住前
BC1200年、クレタ島からレベスの子ラキオスが移民団を率いて、キオス島とサモス島の間の本土側へ移住し、コロポンの町を創建した。[99]
レベスはミュケナイ人であり、ミュケナイの町のステネロスの子イピトスの息子と思われる。[100]
BC1196年、ラキオスがコロポンの町に住んで間もなく、エピゴノイの捕虜になったボイオティア地方の人々が移住して来て、クレタ人と共住した。彼らの中にいたテバイの町の予言者ティレシアスの娘マント(または、ダフネ)は、ラキオスと結婚し、カルカスを凌ぐ予言者となる息子モプソスを産んだ。[101]
BC1186年、トロイ戦争の後で、テッサリア地方から遠征に参加したペイリトウスの子ポリュポイテスや、コロノスの子レオンテオスは、故郷へ帰還せずにコロポンの町に定住した。[102]
4.5.2 イオニア人の移住
BC1065年、コドロスの2人の息子たち、ダマシクトンとプロメトスがイオニア人を率いてコロポンの町へ移住し、クレタ人に共住を許された。[103]
イオニア人の移住時、ラキオスの後裔がコロポンの町を治めていた。その後、住人の多くがイオニア人になったためか、あるいは、イオニア同盟への加入のためにか、コドロスの2人の息子たちがコロポンの町を治めることになった。[104]
BC1060年、プロメトスは、ダマシクトンを殺して、ナクソス島へ移住した。[105]
プロメトスが死に、ナクソス島から運び込まれたプロメトスの遺骸をコロポン人は、町へ迎え入れた。[106]
ヘロドトスは、ペルシア戦争の時代、ナクソス島には、アテナイの町出身のイオニア人が住んでいたと記している。[107]
イオニア人の植民活動は、小アジアだけではなく、エーゲ海にも及んでいたと思われる。
BC6世紀、プロメトスの後裔ケユクスの娘キュディッペがナクソス島に住んでいた。[108]
BC600年頃のコロポンの詩人ミムネルモスは、ピュロス出身のアンドライモンがコロポンの町を創建したと伝えている。[109]
恐らく、プロメトスがダマシクトンを殺して、ナクソス島へ移住した後で、コドロスの子アンドライモンがコロポンの町を治めたと思われる。
4.6 プリエネ
BC1060年、ミレトスの町のコドロスの子ネイレウスの子アイピュトスが、イオニア人を率いてプリエネの町を創建した。[110]
BC1053年、プリエネの町はカリア人に攻められ、エペソスの町からアンドロクロスが救援に駆け付けて勝利するが、アンドロクロスは戦死した。[111]
BC1043年、ヒッパルキモスの子ペネレオスの後裔ピロタスがテバイの町から移民団を率いて来て、プリエネの町を再建した。[112]
BC2世紀の伝記作者サテュロスによって、七賢人の筆頭に上げられるテウタメスの子ビアスは、この時の入植者の後裔であった。[113]
初期のプリエネの町の住人には、アカイア地方のヘリケ出身者が多く含まれていた。パンイオニオンは、ヘリケのポセイドンに捧げられたものであった。[114]
4.7 テオス
4.7.1 イオニア人の移住前
BC1188年、トラキア人に追われたオルコメノスの町の住人の一部は、アイオロスの子アタマスの後裔アタマスに率いられてイオニア地方へ移住してテオスの町を創建した。[115]
テオスの町のすぐ東側には、コロポンの町があり、エピゴノイのテバイを攻めで、捕虜となったボイオティア地方の人々が、少し前に、その地へ移住していた。[116]
4.7.2 イオニア人の移住
BC1065年、コドロスの庶子ナウクロスに率いられたイオニア人が最初にテオスの町に入植した。
BC1060年、ナウクロスの弟ダマソスやメラントスの曾孫アポイコスに率いられたイオニア人、それにボイオティア人のゲレスが率いるボイオティア人がテオスの町に入植した。[117]
4.8 エリュトライ
4.8.1 イオニア人の移住前
BC1260年、ラダマンティス (または、ラダマンティス)の子エリュトラスがクレタ島から移民団を率いて、キオス島の対岸へ移住して、エリュトライの町を創建した。エリュトライの町には、クレタ人に友好的なカリア人や、サルペドンと共へ移住して、リュキア人と呼ばれていた人々が共住した。[118]
BC5世紀の歴史家ヘッラニコスは、コドロスの子ネイレウスがエリュトライの町を創建したと伝えているが、古い町を再建したものと思われる。[119]
4.8.2 イオニア人の移住
BC1060年、コドロスの庶子クノポスが、イオニア地方のすべての町から人々を集めて、エリュトライの町に連れて行って共住し、町はクノポポリスと呼ばれた。[120]
エリュトライは、ボイオティア地方の同名の町の植民市とも伝えられる。[121]
4.9 クラゾメナイ
BC1050年、アジアに渡ったイオニア人が、コロポンの町のパラロス (または、パッポロス)を指導者に招いて、最初、イダ山麓に町を建設した。しかし、この町を放棄して、コロポンの町の近くにスキュッピオンの町を建設した。その後、まだ人が住んでいない土地にクラゾメナイの町を創建した。[122]
クラゾメナイの町のイオニア人の大部分は、ヘラクレイダイに追われたアルゴス地方のクレオナイの町やプリウスの町に住んでいたアカイア人であった。クラゾメナイの町が、イオニア同盟加盟していることから、パラロスは、コドロスの後裔と思われる。[123]
4.10 ポカイア
BC1073年、エウクテモンの2人の息子たち、ピロゲネスとダモンは、コドロスの子ネイレウスの最初の移民団と共に航海していたが、途中で、ネイレウスと別れた。[124]
ピロゲネスとダモンは、ポキス人を率いて、アイオリス地方南部のまだ人が住んでいない土地へ移住して、ポカイアの町を創建した。[125]
その土地は、BC1126年、アガメムノンの曾孫マラオスがロクリス地方のプリキオン山麓に住んでいた人々を率いて移住して創建したキュメ プリキオンの町の支配下にあった。彼らは、同郷のよしみで、協定を結んで、土地を分け与えられた。[126]
後に、ポカイア人は、イオニア同盟への加盟を申し出たが、コドロスの後裔を王に迎えることが加盟の条件であった。そこで、ポカイア人 は、エリュトライの町やテオスの町からコドロスの後裔たち、デオイテス、ペリクロス、アバルトスを王に迎えた。[127]
ポカイア人 がイオニア同盟に加盟したのは、海運が発達して、キュメの町と利害関係が生じたためで、BC9世紀と推定される。[128]
4.11 サモス島
4.11.1 イオニア人の移住前
BC1365年、マカレウスの子キュドロラオスは、レスボス島からサモス島へ移住した。[129]
BC1248年のアルゴ船の遠征物語に、サモス島からアステュパライアの子アンカイオスが、兄弟であるミレトスの町のエルギヌスと共に登場している。[130]
BC1213年、アルゴスのヘラ神殿の巫女であったエウリュステウスの娘アドメテは、サモス島へ移住した。[131]
4.11.2 イオニア人の移住
BC1095年、ピテュレウスの子プロクレスが、エピダウロスの町からアテナイの町へ移住した人々を率いて、サモス島に入植して、サモスの町を創建した。[132]
サモスの町は、テンブリオンが創建し、その後、プロクレスがこれを再建した。[133]
BC1087年、ヘラクレイダイに追われたアルゴス地方のプリウスの町の指導者ヒッパソスは、サモス島へ移住して来た。有名なピュタゴラスは、ヒッパソスの後裔であった。[134]
4.11.3 島からの追放と帰還
BC1065年、プロクレスの子レオゴロスがカリア人と組んで、イオニア人に対して陰謀を企んでいるという理由で、アンドロクロス率いるエペソス人が島に攻め込んだ。
サモス人の一部は、サモトラケ島へ移住し、残りは、レオゴロスと共に本土に渡り、島の対岸のアマゾン族のアナイア埋葬の地やミュカレ半島へ移住した。[135]
サモトラケ島へ移住したサモス人の一部は、プロポンティス海の北岸にペリントスの町を創建した。[136]
BC1055年、サモス人は、島からエペソス人を追い出して、島を取り戻した。[137]
サモス人がイオニア同盟加盟したのは、この後であった。
イオニア地方の4つの方言のうち、サモス人だけが独特な方言を話していた。[138]
4.12 キオス島
4.12.1 イオニア人の移住前
BC1390年、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人は、アイオリスに追われて各地へ移住した。[139]
ペラスゴイ人の一部は、キオス島へ移住した。[140]
BC1370年、アイオロスの子マカレウスの長男は、レスボス島からキオス島に入植した。[141]
BC480年、ギリシアに進攻したクセルクセスの軍勢には、キオス島のペラスゴイ人も含まれていた。マカレウスと共にペロポネソスからレスボス島へ移住し、その後、マカレウスの長男と共にキオス島へ移住したペラスゴイ人の後裔たちであった。[142]
BC1245年、ミノスの娘アリアドネの子オイノピオンは、ナクソス島からキオス島へ移住した。[143]
オイノピオンの息子たち、タロス、エウアンテス、メラス、サラゴス、アタマスも父に同行した。[144]
BC1230年、オイノピオンの子エウアンテスは、キオス島からトラキア地方のイスマロスの町へ移住した。[145]
4.12.2 イオニア人の移住
BC1060年、エウボイア島のヒスティアイアの町のアンピクロスが、キオス島に入植した。[146]
BC1020年、アンピクロスから4代目のヘクトールが、キオス島からアバンテスやカリア人を追い出して、イオニア同盟に加盟した。[147]
パウサニアスは、なぜヘクトールがイオニア同盟に加盟できたのか理由が分からないと記しているが、ヘクトールが治める住民がイオニア人であったからであった。[148]
ヘクトールの祖アンピクロスは、アテナイの町から移民団を率いてエウボイア島へ渡ってエロピアの町を創建したエロプスの兄弟であった。[149]
エロプスは近隣のヒスティアイアの町も支配下に置き、アンピクロスは町の住人や、次々にアテナイの町から移住して来る人々を率いて、キオス島へ移住した。[150]
エロプスは、クストス (または、イオン)の息子であり、フェニキア人の支族ゲピュライオイに属していた。[151]
BC1415年、エウモルポスがアッティカ地方に侵入し、アテナイ人は、一時、ゲピュライオイが居住するボイオティア地方のタナグラ近くまで避難し、ゲピュライオイに受け入れられた。[152]
BC1200年、タナグラ周辺のゲピュライオイは、ボイオティア人に追われて、アテナイの町へ逃げ込み、市民として受け入れられた。[153]
アテナイの町へ亡命したゲピュライオイを率いたのは、スパルトイのアスタコスの息子たち、イスマロス、レアデス、アンピディコスであり、エロプスの父クストスは、彼らの後裔であった。[154]
4.12.3 キオスの創建
キオス島がイオニア同盟に加盟後、エゲルチウスが移民団を率いて来て、キオスの町を建設した。[155]
4.13 スミュルナ
4.13.1 イオニア人の移住前
ヘロドトスは、アテュスの子テュッレノスが移民団を率いて、スミュルナからイタリアへ船出したと伝えている。これは、BC1318年の出来事であり、当時、スミュルナの町は、存在していなかった。[156]
その土地には、リュディア王メレスに因んで名付けられたメレス川が流れ、レレゲスが住んでいた。[157]
4.13.2 スミュルナの創建
BC1075年、コドロスの嫡出子アンドロクロスが、カリア人やレレゲスを追い出して、エペソスの町を創建した。[158]
その後、エペソスの町のスミュルナ地区の住人は、ミマス半島の北の付け根にあるメレス川の北側へ移住して、スミュルナの町を建設した。[159]
4.13.3 スミュルナの創建前の状態
その地方は、トロイ戦争以前、レトスの2人の息子たち、ピュライオスとヒッポトオスを指導者とするペラスゴイ人が住んでいた。[160]
BC1126年、アガメムノンの後裔マラオスが、ロクリス・エピクネミディオス地方の プリキオス山周辺に住んでいたアイオリスを率いて、ミュシア地方に植民した。彼らは、ヘルモス川流域のラリッサの町周辺に住んでいたペラスゴイ人を征服して、キュメの町 (キュメ・プリコニス)を建設した。[161]
ペラスゴイ人は、サモス島近くのミュカレ半島付近まで支配し、カリア人やレレゲスと共住していた。[162]
ペラスゴイ人を追い出したキュメの町の人々の居住範囲は、メレス川近くまで及んでいた。
ヘロドトスは、スミュルナの町の建設者をアイオリスだと伝えているが、彼は、キュメの町の住人が、スミュルナの町を創建したと勘違いしていたと思われる。[163]
4.13.4 スミュルナの創建時期
スミュルナの町の創建は、小アジアの海運が盛んになった頃と推定される。
キュメの町は、町の創建から300年後に、他の町より遅れて、港の使用料を取立てたと伝えられる。[164]
つまり、小アジアで海運が盛んになり、港を利用する船の数が多くなったのは、BC826年より前であった。
海運が盛んになると、エペソス人がアイオリス地方や黒海地方と交易するためには、ミマス半島を大きく迂回する必要があった。
アレクサンドロス大王は、ミマス半島の根元に運河を作ろうとしたが成就しなかった。[165]
そこで、ミマス半島の南の付け根に住んでいたエペソス人は、北の付け根に、スミュルナの町を創建した。
つまり、スミュルナの町を創建は、小アジアで海運が盛んになったBC9世紀と推定される。
4.13.5 キュメとの戦い
それまで、メレス川までを自分たちの土地と思っていたキュメ人は、スミュルナの町を攻めて住人を追い出した。追い出されたスミュルナ人は、彼らの母市エペソスの町の手前にあるコロポンの町に避難した。その後、スミュルナ人は、コロポン人の援助を得て、スミュルナの町を奪還した。[166]
この時、キュメの町から移住して、スミュルナの町に住んでいたマイオンの子メレシゲネスは、人質として、コロポンの町に住まわせられた。彼は、後に、ホメロスと呼ばれる叙事詩人になった。[167]
4.13.6 イオニア同盟への加盟
ヘロドトスは、最初、アイオリス地方の町として創建されたスミュルナが、コロポン人に奪われたと伝えているが、一連の出来事の後半しか知らなかったようだ。[168]
BC733年頃、スミュルナの町は、リュディア人 (恐らく、アリュアッテスの子アルデュスの治世)の攻撃で破壊され、以後、村落の状態が続いた。
約400年後、アンティゴノスは、アレクサンドロス大王の命によって、メレス川の南側に新しいスミュルナの町を建設した。[169]
BC688年、スミュルナの町からオリンピックに選手が参加している。[170]
パウサニアスは、その当時、スミュルナの町はイオニア地方の町であったと記している。[171]
スミュルナの町は、最後にイオニア同盟に加盟し、13番目のイオニア地方の町になった。[172]
5 ドーリス人のカリア植民 (BC1070)
5.1 飢饉の発生
BC1070年、ペロポネソスで飢饉が発生した。[173]
テメノスの子ケイソスの子アルタイメネスは、ドーリス人とペラスゴイ人を率いて、アルゴスの町からロドス島へ移住して、リンドス、イアリュソス、カメイロスの町を創建した。[174]
アルタイメネスの植民団には、建設されたばかりのメガラの町に住むドーリス人も含まれていた。[175]
また、アルタイメネスの植民団には、アンタスの子アイティオスの後裔アンテス率いるトロイゼンの町の住人も含まれていた。[176]
アンテスは、カリア地方に入植して、ハリカルナッソスの町とミュンドスの町を創建した。[177]
アルタイメネスの植民団の一部は、クニドスの町やコス島へも分散した。[178]
ロドス島の3つ町と、ハリカルナッソス、クニドス、コスは、ドーリスの5市と呼ばれるようになった。[179]
5.2 植民の規模
アルタイメネスの植民団の一部は、クレタ島へも植民していた。[180]
BC4世紀の歴史家エポロスは、アルタイメネスが率いたドーリス人が、クレタ島に10市を建設したと伝えている。[181]
ドーリス人が入植したのは、ロドス島、コス島、カリア地方を合わせると、17の町であった。
当時、アイオリス地方やイオニア地方の植民活動はほぼ終わっており、ドーリス人が植民可能な小アジアの土地は、カリア地方しかなかったものと思われる。
おわり |