太宰の文体実験(津軽)

無言文体1(散文)



平成21年12月31日

始めに


二十世紀   戦争と平和があった

二十一世紀 地球に人類はまだ存在している

二十二世紀 人類は存在しているだろうか

 以下は、「津軽(筑摩書房1998年太宰治全集8(青森市民図書館、以下同書と言う)」から引用している。第1章は、同書の歴史書引用部
分(観光案内等も含む)を主題としている。その文体は@太宰が創作した文体(歴史書等以外の文章)と同じリズムで朗読できる。A無言文体と
定義した。有言文体以外を指す。有言文体とは始めに言葉ありき、次に文字、文章という発展段階である。B太宰の脳内の言葉になる以前(周
波数・脳内水の移動等)の、無言状態の解明である。太宰の言霊生成の謎が解決できれば幸いである。言霊とは、感動以上のものである。した
がって、無言の定義は広い(類型論)。現時点での科学技術を標準とする。例えば、障害者の定義にしても、深い感動の渦に巻き込んでくれるな
ら、厳密な定義は問題の核心にはならない。文体も同様である。文字を所有しない民族も含む。

二十世紀   太宰はラヂオでたけに呼びかけた。しかし返事は無かった(同書p150無言文  
        体)。深浦町が太宰を無言で迎えた(同書P138 無言文体)


二十一世紀 双方向TV(TV会議)が可能になった。指点字同時通訳(NHKTV爆問、福島氏)
         ・PCによる合成言語等の発展により人間の脳波の解明が進んだ。
        以上、有言文体。

二十二世紀 無言文体から有言文体への発展。動物(鼠語等)の人間可聴領域への発展。
        植物(樹語(潮音4月号I氏 早春の風したがへる大樟と言葉を交はす
                樹語と人語と))と人語との交信。人類史上存在しなかった異次元への言霊の
                昇華、即ち、太宰の言霊生成過程は解析される、と思う。
 序編

 平成十八年 故小野正文先生は、斜陽館「旅の思い出帳」に英詩を記録した。私の右脳に光りあった。西行の「小夜の中山(年たけて又こゆへ
しと於もひきや 命なり毛里さや乃中山(青森県立図書館、西行法師家集、永田長兵衛出版(1674年)」の本歌取の要請と思った。本歌取は
有名な「2月に死す(ねがはくは花の下にて春死なん そのきさらぎのもち月の頃(新撰山家集(佐佐木信綱校訂 岩波書店 昭和13年)」、とい
うひらめき(脳内変化)もあったが、常識的に直ぐ打ち消してしまった。平安朝歌合わせの一瞬の至福。そして、驚愕視線の集中のみ記憶している。
この時に限りメモを残さなかったのである。
 平成十九年 斜陽館「旅の思い出帳」に私一人

       言霊にひかれひかれて斜陽館 道半ばにてはや幾とせか

故小野正文先生は、1月、雪に倒れ即入院となった。大変なショックであった。
 平成二十一年 斜陽館「旅の思い出帳」に

       文字無言、無言文体に隠り(こもり)いき   「津軽」港の旅人太宰

と記録した。
 西行の「小夜の中山」英訳
The longest day must have an end. But it mustn’t have. Why not have? Because ”SAIGYOU−BUDDHUI
ST” could mount the top of ”The Sayono Nakayama Toge” .Again!!.
 西行の「願わくば」英訳
By God.I wish I could die under a cherry tree in full blossom in the spring day.In the full moon of the 
February ”Kisaragi season”.

    本編

 第1章 小野正文先生
  1 平成十九年、動転した私は小野先生御見舞いに、踵着けず(ゴーゴリ・ロシア文学者)走っていた。ここしかない場所で、飛び込んだ。車の
直前であった。ヒラリ。右足は車道に、右目は後方の車に。左目はその車。無酸素・無呼吸・無言。だが、無言文体ではなかった。しかし、脳波は
作動していたことになる。その脳波を人間が可視化できる周波数に置換して、何らかの意味を持つことがわかったとき、初めて無言文体となる。その
内容を言語表現すると有言文体となる。又、逆(人間失格し、可聴領域以外の言語或いは無言の脳内文体)も真である。即、太宰の歴史書引
用部分等から太宰の無言文体、即、太宰の脳内を明晰し、太宰の言霊生成の謎を解明せんとするものである。
 過去、人類は二足歩行で言語を獲得した。
 未来、人類は踵着けず走る無言文体人となる。多分。
(高校の立ち幅跳びで親指・人差し指・中指の先端円形部分のみで着地。不公平だからといわれ、踵着けて再測定した。無言であった。無言文
体ではなかった。)追っかけ名人に聞いた。「マネデギルベガ」。「オラダヂワゲモノニマモラレデイルハデ」、怒り心頭に思わず「フコウヘイダジャ」ト。これ
は明らかに有言文体である。しかし、厳密な定義に力点を置いてはいない。言霊、即、感動を与えてくれないと、意味がない。トルコのプシュコイ村
で小鳥の囀りで人間の意志を伝達できる名人がいるそうである。風流と思ってうっとりしていた方がよい。有言文体か無言文体か、弁別する意味が
ない。
 2 無酸素・無呼吸・無言の太宰はどのような時であろうか。通常酸素を吸入するのは読点である。太宰の同書執筆時の息使いの定量的分
析の検証の為同書の句読点を数えた(9094であった)。
 その結果歴史書引用部分も同じリズムで読めた。文体の名手太宰といえども、引用部分に手を加えれない。しかし、選択したのは太宰である。
意志決定の段階で太宰の脳波は波動したことになる。何故同じリズムであろうか。太宰の左脳と右脳の変化は、言霊生成の前段階は、etc.という
疑問が生じた。 ベートーベン「第9」最終楽章のように、一句読点を一小節と仮定するなら、独語の発音記号を太宰の津軽に置き換えるなら、文
体の別の姿が見えてくるはずである。
 小野先生は言う。「太宰はプロである」。「津軽」の最初と最後を逆転させるシミュレーションもあったのではないか。O, FREUNDE, NICHT  
DIESE To”NE, SONDERN LASST UNS ANGENEHMERE ANSTIMMEN, UND FREUDENVOLLERE.FREUDE,
 SCHo”NER Go”TTERFUNKEN,・・・(オー 同志よ この文体ではなく、寧ろもっと快い、歓喜に満ちた調べを歌い始めよう。歓喜、美しき
神々の火花・・・)(原詩シラー、一部ベートーベン自作、一部小松氏訳を意訳した)」というベートーベンのごとく。ベートーベンは反ナポレオンであっ
た。 トルストイも「戦争と平和」で当然反ナポレオンであり、歴史哲学を論述している。太宰もそれなりに歴史哲学を有言文体で記述している。し
かし、有言以前の無言文体に踏み込んでみたい、と思った。
 3 津軽の歴史書引用部分は以下の通りである。同書p44(L18)〜p45(L12)・・・p123(L1)〜p123(L2)、合計29箇所である。
 その内1カ所だけ例示する。
 同書 四津軽平野(p98L9)から津軽地方の紹介並びに歴史を概括している。しかし、文治五年、源頼朝・・・と記述した後で、明治維新に太
宰は飛んでしまう。P101(L13〜p102(L2)。「・・・明治維新にも奥州諸藩は、ただちょっと立って裾をはたいて座り直したといふだけの形で、・・・神
武天皇以来現代まで、・・・いったい、その間、津軽では何をしてゐたのか。ただ、裾をはたいて座り直し、また裾をはたいて座り直し、二千六百年
間、一歩も外へ出ないで、眼をぱちくりさせてゐただけの事なのか。・・・」。
 太宰は「裾をはたいて座り直した等」という表現をしている。トルストイのように格調高く民族消滅の危機を訴えていない。ナポレオンがロシアを征服
すると誰もが思ったことである。ベートーベンもナポレオンに自国を蹂躙されて心の底から憎悪した。のみならず、トルストイは全世界に対し農奴制の
國から理想郷建設を熱く訴えている。若き誰もがその理想郷に、一度は命をかけようと思うのは、当然である。太宰も若かりし頃、右脳中心(芸術
家的心情)からマルクス主義に傾倒した。しかし、左脳中心に戻った。それが、上記「裾をはたいて座り直した等」という表現になる。実利中心という
意味である。筑摩世界文学大系43トルストイ戦争と平和下(中村融訳1972年初版第3編第3部P166〜P167)に於いて、世界に残る文学とは
こういうものだ、とトルストイは宣言している。「津軽」執筆期間はあまりに短い。僅か三ヶ月足らずである(津島美智子著「回想の太宰治」p40L2〜
p40L4、昭和五三年人文書院)。にもかかわらず、これだけのアウトプットとなったのは、幼少からのインプット(脳内・無言文体)がなければ不可能
である。(1)〜(2)を例示する。(1) 相馬正一「評伝 太宰治」上巻P58L17〜P60L2(雪合戦、大正一二年一月二二日)。又、この雪合戦は@
太宰は有言文体であった。A幼年学校のナポレオンも有言文体。B私は無言文体(地吹雪で声が聞こえない。しかし、匍匐前進で、気がついた
時相手のすぐ後ろ、小学3年)。(2)いつも誰かから監視されているような緊張状態等、「津軽」P9L17〜P10L4。津軽」P10L10〜L12。
 剣道居合道の試合では袴の正装をする。特に居合道の、本物の日本刀の場合、裾をはたいて立ったり座ったりした場合、喜劇である。相手に立
ち向かうわけでもない、かといって、逃げ出すわけでもない。太宰一流の道化表現である。結果的(外圧利用型)に落としどころを見つけ、ソフトラン
ディングする。費用対効果を考慮するなら、複雑な連立方程式の最適解を早く見いだす。1934年日本経済学会が創設されたことも、ケインズ革
命も、マルクス経済学と一般均衡理論との統合も知らない。しかし太宰の脳内変化を主題にしている。日本の長い歴史から、トルストイとの比較か
ら上記は、そういいうる。明治維新の結果、白河以北百文と言われた東北、しかも太宰は大地主の子供。連立方程式はより複雑になる。太宰の
大家族内での交渉術(無言で相手の顔の表情から瞬時に心の奥底まで読み取る訓練、即ち、無言文体)或いは立ち居振る舞いを身につけたの
である。太宰は歴史書引用するとき、取捨選択する時、きわめて日本人的な無言文体(脳内変化)であった。以上の記述された道化表現(有言
文体)から太宰の脳内を垣間見ることができる。
 脳内偶然太宰の変化を日本人の大多数が、第2次世界大戦後不承不精追随してしまった。即ち、経済に集中した。太宰は芸術に集中した。
太宰がマインドコントロールさせたのではなく、結果的にそうなった。勿論、治にいて乱を忘れず(易経、中西進(奈良県立万葉文化館館長、乱とは
戦争ではなく、心の荒廃),という言の葉は一隅照射している。論理的バランスも大事と思う。トルストイは戦争と平和両方である。太宰は平和であ
る。その「津軽」執筆時の(脳内変化)が、文芸史上、世界に残る最低限をクリアしたのである。始めに言葉ありき。三内丸山の縄文人も太宰と同
じ言語を使用していた、とは常識的に考えにくい。太宰と同じ言語を使用し、その言語が地吹雪により、口が凍り、同じくなまってしまう。最近、その
地吹雪をわざわざ金を払ってまで見学したい、と言うとか。地吹雪は太陽を隠す。まさに、高木恭造(まるめろ 陽(し)こあだね村)の世界である。
(いづこより いづこへ消ゆるか 五千年 縄文の地吹雪今 口に   -平成21年12月31日 作)。
 昔、櫻桃忌で太宰に会った、という真実の言語波長(有言文体)噂が流れた。東京では芦の湖公園、太宰銅像そっくりのマント姿の若者であっ
た。青森では、故小野正文先生であった。
    (注:上記引用文献で,今回明示しなかった以下に謝意を表明します。経済関係:日本経済新聞  やさしい経済学等、多くの無言文体等に係る
実例としてNHK爆問学問等。)

                                                            (平成22年2月26日〜平成22年6月19日)
第2章 原点

 1 文体
   始めに
   何故 文体か?、何故、無言文体か?。
     小学校同級生T君と太宰の文体についてdiscussした(T紙の記事を丸暗記)。しかし、その過程での私の脳内変化であった。問題の所
   在は、左脳の引き出しからT紙を、右脳には光りあった。どこかで経験した同じ光りであった。その謎は最近やっと解明した。それが聞こえぬもの
   を聞かむとする無言文体である。
    近未来、一般の人も脳内の脳波の変化を可視化・可聴化できる日も近い。逆に訓練し能力向上可能にするソフトも手に入れることが可
   能となる。
     太宰の場合、結果的に聞こえぬものを聞き、見えぬものを見、ありもしないものを感ずる精神分裂病者となる。死ななかったら発狂していた
   ろう、と日本共産党員・政治家・精神科医、津川武一は定義づけている(小野正文著、太宰治をどう読むかP24 L15 未知谷)。小野先
   生の自宅を初めて訪問した時の「賛美歌」は、ベートーベン第9と同じように歌うことだけと考えていた。しかし、問題の核心は、聖書の中身にあ
   った。「津軽」の歴史部分と、英語訳聖書である。しかもヘブライ語の問題もあることはある。映画寅さんのような元気が無く、青春と老春とをご
   ちゃ混ぜに生きてきた身には荷が重すぎる。
     生きてるふりは難しい。死んだふりをするほうがやさしい。それも地球生命体の、そんじょそこらの、簡単に真似できない代物である、私の 場
   合。社長の運転でも徹底させた。後ろの社長が大声を発した。真っ正面にKバスの運転手の細長い顔、黒い帽子が飛び込んできた。ハンドル
   を切った。事なきを得た。社長は大物である。女性である。命の恩人でもある。ついでに体重も大物である。普通は首と言うべきである。期待
   は常に裏切られることになっている。店によくぞ突っ込まなかった激賞された。剣道居合道が生きた。両手の親指と小指だけで運転していた。特
   に小指の第3関節の微妙な操作が重要である。金木太宰会・会長宅に到着した。エンジンを切って爆睡した。30秒以内で鼾を掻かねばな
   らない(オライの家を改築してくれた大工の所でマスターした。土方仕事なので隣にあっぱが寝ていても可能である。訓練すれば)。長部日
   出雄著 「神話世界の太宰治」のトリックスターとは詐欺師のような者である。太宰も須佐の男と同じと規定している。この著書に出会い、腰を
   抜かすほど驚いた。小学校での芝居を思い出したからである。まるで運命づけられていたかのように。「・・・問題の核心を回避し、・・・直面す
   ることを先延ばし、・・・ただその周辺だけを・・・」というトリックスター(同書、P181 L14,P182 L1〜2、L4,L7)は、それぞれの青春に存在して
   いる。それぞれの太宰が棲んで居るように。
    津川武一の言うよう、無言文体(聞こえぬものを聞かむとする、見えぬものを見、ありもしないものを感ずる)に興味持つ者は、死ななきゃ直ら
   ないのかもしれない。まさに、奇跡、イエス、そうだ。イエス・キリスト 奇跡の人(津山智恵著)。
(1)昭和30年6月19日 遅き春の陽がやわらかく包んでいた。小学校恩師(ポケットマネーで皇居前・映画寅サン故郷浅草・千曲川等
     連れて行ってくれた)の御自宅で、同級生だったT君(古事記・須佐の男劇主役)と太宰についてdiscussした。T君とは中学校が別々になっ
   てしまった。
     昭和30年小学校卒業と同時に私はマルクスと芭蕉を卒業していた。T君は「太宰は人間失格だ」と言った。私は確かにだらしない、しか
   し、文体がすばらしい、と言った。そうして前日のT紙の記事を、受験生よろしく丸暗記したままをoutputした。・・・何度枯れ野を駆けめぐれば、
   何度脳内を駆けめぐれば、心の平和を体験(同書P162,L16)できるのだろうか。と記述するはず、筋書だった。どこで狂ってしまったのか、狂った
   のである。全ての証拠であるT紙に「文体」という文言が発見できなかったのである。最近若年性認知症も速度を上げてきたのかもしれない。 
   同じくT君とも私とも同級生であり、T紙に勤務していた父を持つS氏と高校同期会でばったりあった。あの記事がなければ、T君と会わなけれ 
   ば、太宰を考えようとはしなかったであろう。原点であった、と感謝した。後、何年頭がはっきりしているかわからないから、と言いながら左手で指 
   折り数えながら、今の内に記録に残したい、と言った。更に高校同期のA氏にはメール(下記)で送信してしまっていた。はったりもいいことを。しか

   も支離滅裂なことを。「・・・問題は太宰ではなかった。私の脳内変化であった。その謎が高校2年の国語(山上憶良―マルクス)、更に高校
   同期 そして歌会指導者・津軽こぎん継承者M氏(私自身は山上憶良の歌方法論(理解不足かもしれませんが)―中西進氏(奈良県立万
   葉文化館館長、NHKTV(大学講座)・山上憶良(中西進編 楼楓社)・悲しみは憶良に聞け 光文社))、私(無言)・太宰(有言)・ナポレ
   オン(有言)との雪合戦の違い、トルストイ(戦争と平和)・太宰(平和)、操車場迄肥桶(生まれてすみません)・父が母の実家から米野菜等
   リュックで運んできた時、警官に見つかりそうになった3等列車・ヴェートーヴェン(発音記号)等々。そして、脳内変化、即ち無言、人間に声とし
   て聞こえない周波数。M氏の歌会でも話したが、ネズミの人間可聴領域を超えた無言周波数でも、人間には可視・可聴可能であった(かなり
   昔から科学的に)。無言文体としてaufheben。聖書に曰く初めに言葉ありき、その言葉は声なき声も含む。結果的に太宰のキリストを超えよう
   とした事に通じる。キリスト文明を。「津軽」は20世紀のturning point.太宰は内容・中身で超えようとした。小野先生が言っていた(幽か)
   に通じるのではないか。私は結果的に、和歌から無言の言葉(言葉以前の脳内変化・ネズミその他地球生命体)で声なき声・神の声で表現
   しようとした、という事になるのではないか。高校3年の夏、東北高校に甲子園で勝った(1:0)K投手から、今だから言えることだがと前置きし
   て、この無言文体(ノーサイン・呼吸のみで投手ー捕手ー三塁手ー三塁ランナーをワンアウト)の検証を同期会で聞いたことあります。TVが無
   かったので弟と隣で映像を見た。長屋なので板一枚から音は漏れ聞こえては来たが。勝利の瞬間、弟と抱き合って喜んだ。チームの宿泊した 
   旅館の女将も抱き合って喜んだ、とT紙に載っていた。文体という、T紙の記事が発見できなくとも、伊奈かっぺい氏の左の脳と右の脳との使用
   方法等、これらを参考にトリックスター(詐欺師ー長部日出雄)みたいにまとめたいと思っています。・・・」。

(2)昭和30年6月19日 「ドステラバ」ということで恩師の自宅を訪問したような気がする。小学校卒業後、冬でも秋でもなかった。新中学生
   活に慣れた頃と思ったのである。従って、太宰をdiscussする為に呼ばれたわけではなかったはずである。「文体」は咄嗟に出た言葉であった。何
   故なら、戦略上technical termsで思考を停止させうる。落としどころとしては優れている。内容(価値判断・イデオロギー)にふれることはない。
   現在も、太宰が主題としている聖書は、地球生命体の一つである人類が、言語を発声した初めとして限定している、と思う。又、作品は「津 
   軽」に限定している。言語は津軽弁を基本としている。太宰の脳内変化の期間は・津軽執筆僅か3ヶ月程度に限定している。縄文5000年
   (三内・丸山)の言語・文化等は最近の考古学上の成果である。太宰の、当時江戸時代に太宰の生家近くで縄文土器(亀が岡式等)が注
   目された程度である。よって、議論は平行線をたどる。T君を論破する気はサラサラ無かった。人と争うことは元々嫌いであった。のみならず存在
   そのものを消そうとしていた。生活の知恵であった。絶えずアンテナを張り巡らし同じ行動・同じ言語表現しようとした。しかも無口を目標としてい
   た。成績も運動会も目立たなかった。学芸会では、最初、幕の陰で樹木の枝を動かしていた。最後、須佐の男劇でやっと台詞をもらった、端 
   役であった。そのような自閉症に近い私を小学校恩師は皇居前広場にT君達と一緒に連れて行ってくれた。真っ赤な真夏の太陽であった。メ

   ーデーがあった広場、というよりはモンゴルの草原を吹き渡る風を感じた。私は太宰を読んでいなかった。多分T君も。ついでに、マルクスを小学
   生が読むわけがない。(波長)脳波があわなくなった。極寒の国境を馬そりに2人で越境するのは、芸術家(右脳中心)としては歴史に刻まれ
   る。そのような脳波を経済に応用したら、費用対効果の結果が伴わない。当日議論した事は、青森県人なら誰でも常識として知っている範囲
   であった。そうするとT紙でないとすると、毎月の小学生用(中学生用)受験用雑誌、ラジオ、或いは文藝春秋かもしれない。父が定期購読し
   ていた。盗み読みしていた。
  (2)−1 文体を明確に意識したのは、「三島由紀夫のデビュー」(文藝春秋 編集子以外この目次テーマを思いつけない)、を読んだ時だっ
   た。上司が三島の提出文書(案)を読み、官僚用に添削した。そして文体のすばらしさに打たれ、将来を考え、官僚をやめさせた。青森では、
   社長の長男の家庭教師の縁で潜り込んだ会社で、山上に水産物卸市場建設した社長(朝礼は山上の垂訓のように格闘高かった)を支えた
   次期社長、切れ者と恐れられていた専務が素早く見逃さなかった。私が当時はやった大江健三郎の文体をまねてビジネス文書に挿入したのだ
   った。家庭教師として失格だった私は、受験勉強そっちのけで、マルクスを、知りもせずに議論していた。盛り上がっているところに、社長の奥さん

   が、コーヒーと、お菓子を差し入れてくれた。あわててもっともらしい顔をしてそれらしく教科書を開いた。奥さんはにこにこしていた。階下に降りた
   頃を見計らって又懲りもせず議論した。社長は青森商工会議所会頭であった。経営者側代表である。長男氏の柔軟な頭脳に舌を巻いた。
   だから議論が楽しくてしょうがなかった。社長は、ある時、守衛と話して、B/S、P/L作成した、と言った。まさか、と思ったが、その洞察力の凄さ

   に、さすが、と思った。又、T紙に、ケインズ革命を顕微鏡的視点と望遠鏡的視点に明晰し、誰でもわかるように解説した。インゼミで「KEYNE
   S」がテーマであったので、余計身にしみた。青森の経済も安泰だと思ったが、天は残酷であった。ふとした病気から、天に召された。しかし、きち
   んと人的資源会計原則の、貸借平均の原則を貫かれた。その人的資源こそ、切れ者氏であった次期社長その人であった。従って、会社そ

   のものは心配なかった。
 (2)−2 小学校恩師は、「古事記物語ー素サの男劇」に全身全霊を捧げた。夜遅くまで父兄も協力した。集大成として青森県立図書館で
   卒業公演した。その図書館長であった小野先生も観劇したはずである。私自身、大學入学後自宅を訪問し、初めてお会いした。立錐の余
   地無き超満員の観客は、殆ど学校の先生や労働組合員等、明らかにインテリ階級であった。主役須佐の男はT君で、勉強も常に一番、身
   長も高くスポーツ万能であった。何よりも、目が大きく、あだ名は「出目金」であった。舞台映えの、太宰の若き頃そっくりであった。「死期を悟っ
   た主役須佐の男の、来し方に思いめぐらす独白・冒頭場面」を今でも格調高く、social realism の他の劇団に勝るとも劣らなく、蜷川  
   SHAKESPEAREを彷彿させ、第2次世界大戦後10年。昭和30年。焼け跡闇市の日本に人民の教育理念が結実した瞬間であった。ここ

   に報告する義務がアルとすら思う。声なき声の悲痛な祈り、耳朶にある。はねた後同級生全員が大掃除した。もうもうと揚がる誇りを皆体感し
   た。(太宰、津軽P98 L1〜L8,「・・・私は、たまらない気持になった。いまでも中央の人たちに蝦夷の土地と思ひ込まれて軽蔑されてゐる本
   州の北端で、・・・希望に満ちた燭光に似たものを、・・・私はたまらない気持であった。」)。パンドラの筺を小学校で開けた以上、太宰の津軽
   の歴史書引用部分を見逃すはずがなかった。
  (2)−3 小学校恩師は、新劇(?革新系)「北京のドブ」を父と私とを観劇に連れて行ってくれた。多分、父にとり、慰安会で、「東海林太
   郎」クラスを聞きに行く程度であったので、知的雰囲気に圧倒されたようだ。学校の先生方が多かった。終演後、父は鉛筆をなめなめ、アンケ
   ートを書き出した。なかなか終わらなかった。私はいらいらしてきた。労働者万歳・進歩的革新賛成とか、耳ざわりのいいことを書けるはずもなか
   った。Yシャッツを新品以上に洗濯できる確かな職人意識を持っていた。私は、多分、Yとかいう若手の、街のダニのような役者が妙に印象に残
   っている。泥濘がズボンに跳ねたか、後ろを見返す瞬間の。つまらないどうでもいい場面である。しかし、人民の為の・人民による・人民自身の
   大公共事業を。革命後の中国人民の民族昂揚が、舞台から、ヒシヒシと伝わってきた。観客も役者も一体となった。特に、北京のドブの嫌な
   臭いが、吐き気するほどの臭いが、社会主義リアリズムを青森の知識階級に御教示するかのように、座席にも臭ってきた。しかし、その同じ臭
   いが、オライノ長屋の5メートル先の堰でも嗅ぐことが出来る、ということを知っていたのは、超満員の観客の中で、私と父以外にいるはずはなかっ
   た。まさか、オライノ長屋の5メートル先の堰から採取したわけでもあるまい。
    その堰に弟は流された。弟は助けられた。父は窓から裸足で飛び出した。春の雪解け水だった。偶然父は明け番であった。毎朝、父は鼠を
   その堰に捨てた。長屋だから、キリが無かった。

       空腹の鼠語胸に聞こゆ来る かわゆく動き右耳喰らふ

 (3)ともかく、春まだき3月初め、青森県立図書館でT紙(昭和30年6月18日付夕刊4面)のマイクロフィルムをコピーした。「青森の桜桃忌
   について」という題名であった。小野先生の名前と末尾に青森県立図書館長だけ見て帰途についた。やっと心の平和を体験(同書P162,L16)
   したはずだった。青森は確かに春まだきである。雪かきをした。降るときは一晩で10センチ・20センチはざらである。ロードヒーティングのスイッチを
   入れると、全体を消雪出来る。それではエコライフに反する。スイッチ入れずに人力で実行した。まず真ん中を一直線に、中央分割した。雪の
   結晶同士に無言文体させるためである。たとえ零下でも、太陽さえ顔を出してくれれば、雪は徐々にしかし競争して消えてくれる。余裕綽々で
   徐にT紙コピーを紐解いた。顔面蒼白となった次第である。
 (4)恩師は、昭和34年であると助言してくれた。毎月の歌誌、潮音に送付する詠進歌の添削も昭和30年を昭和34年とし、五十五年前を
   五十一年前と訂正し、郵送した。しかし、太宰・文体を議論したかどうかまではもう忘れてしまった、と言った。又、T君の父が栄転し、高校が県
   外なのでお別れに来たのだ、と。その後数年は音信はあった。しかしクラス会には一度も出席しなかった。又、話題にもならなくなってしまった。同
   級生複数に聞いてみたが、わからない。忘れてしまったという返事であった。又、高校から転校したなら、一旦青森の高校に入学したとしたら、 
   誰かは同期となるので、中学から転校したことは間違いない。従って中学2年まで、だと推測される。しかし運悪く、双方の中学校は、学区再
   編成により消滅してしまった。アルバムを見ても中学校の記憶は非常に希薄である。

    結局、T君の消息はわからずじまいになった。まさに長部日出雄著 「神話世界の太宰治」のトリックスターである。太宰も須佐の男もT君も
   である。まるで運命づけられていたかのように。「・・・問題の核心を回避し、・・・直面することを先延ばし、・・・ただその周辺だけを・・・」というト
   リックスター(同書、P181 L14,P182 L1〜2、L4,L7)は、それぞれの青春に存在している。それぞれの太宰が棲んで居るように。腰を抜かす
   前に、ぶったまげる前に、
意志決定が複雑な連立方程式で、風のように来たりて、風のように去る。後にはかけがえのない思い出のみ残る、と 
   右脳の感情分野に浸る前に、ある疑問がわいてくる。同じMETHODOLOGYである。何故だろうか?

(5)昭和30年6月18日付T紙で、小野先生は太宰の桜桃忌について、俳句と共に解説していた。文体乃至文章のうまさ等については全く出
   てこなかった。以下、descriptiveに、できるだけ帰納法的に記述する。そして、小野先生は太宰の苦悩に正面から向き合っていた、文章・文
   体等は重点を置いていなかった、という事に今頃になって気がついた。最初小野先生の自著「太宰治をどう読むか」の巻頭に記念の一筆。そ 
   の賛美歌の一節の末尾に、「・・・平(たいら)かなれとはねがひまつらじ」とあった。賛美歌だから宗教そのものの研究ではない、宗教・神の世 

   界は全く興味は無かったので、軽く考えていた。shakespear劇舞台回し(預言者)の如き小野先生であった。これが上記同じMETHODOLO
   GYの回答である。
(6)小野先生は、太宰生家と宗旨が異なる寺で、桜桃忌として県内文壇の有志、並びに知識階級に呼びかけた。太宰の才能を惜しめばこそ
   直ちに結集した。小野先生は本屋で、太宰の著書を、人目に引くようにこっそり正面に置いたりした。私も真似したことがあった。その本屋は高
   校同期、且つ本屋3店の内の一つで(回想の太宰治ー津島美知子、人文書院 P14 L7)、棚に「虚構の彷徨」3冊並んでいた、とのこと。

    しかし、小野先生と太宰とは精神的には強く結ばれていても、物理的に近い距離に存在していたわけではなかった。私と小野先生との関係に
   近似。上記T紙面では昭和24年と25年の桜桃忌を上記寺で実施した、と記載されている。俳句を全員ひねった割に、小野先生はじめ、当
   日の参加者の俳句は一切記載されていない。これだけの文化人が集まっていながら、誰か一人くらいは掲載してもよさそうである。桜桃忌会 
   場という紙片を、画鋲で翌年も同じ場所に止めたくらい、能率的だった事と比較して。

    私も小学校恩師に6年生の頃、芭蕉のまねごとをして、ノート1冊提出した。まるで天国の小野先生が、無言文体で、穏やかな人格と共に
   蜘蛛の糸を操っているかのようである。後年、奥の細道冒頭は暗記するくらい読んだ。リズムに魅せられた。短詩型文学俳句の切れ味とそっく
   りだった。芭蕉も漢文から、ひょっとしたら拝借したのではないか、とも思った。まるで講談口調にさえ聞こえる。長部氏の言うよう、太宰の文体も

   話し手の歯切れ良さを持っている、といっている。津軽の歴史書引用部分も同じ音楽的リズムである、と思う。万葉集、山上憶良のリズムにも
   通じると思う。

    妹が高校卒業後就職した直後に、二年も浪人し、臨時職員をして奇跡的に大学に合格した私と妹と二人に、父は、松島の絶景を脳裏に
   刻み込ませてくれた。天青く晴れやかに、國破れても緑豊かだった。しかし俳句に思想を表現する技術をもっていなかったので、もう少し長い和
   歌に興味が移っていった。高校の国語の時間、原文(貧窮問答)・山上憶良であった。最初、日本共産党創始者かと思った。高校では、他

   の誰もが真似できない特技を獲得した。休憩時間に脳内を活性化し、授業時時間に休憩することである。しかし、山上憶良だけは例外であ
   った。いまでも、ありありと授業風景が左脳に残っている。一旦獲得したこの特技は消滅することはなかった。大学では、インゼミ記念講演で、

   北海道の夏なのに、暖房のスイッチに眠りにつき、拍手が目覚まし代わりになった(無言文体)。後日、日本経済新聞に、「(戦後日本経済
   の)転換期分析」として「経済教室」に載っていた。1対1の時はただただ申し訳なく、どのように恩返しをしたら、この世も残り少なくなってしまっ 
   た。指導教授は、最初から諦めていたらしい。停年まで面倒みられるのは君だけだとか仰っていた。或いは、やっぱりとるんじゃなかった、とも言っ
   た。しかし、俳句を、どこかの句会結社に所属したらしいと思わせるほどの一番弟子は違った。なめられた、と思ったらしい。怒りが爆発するその 
   刹那、眼が醒めた。つまらないミスが飛び込んできた(無言文体)。おかげで事なきを得た。他の人が休憩するとき脳内活性化し、その他全て

   をあの世までの準備時間にする(無言文体)。間違って時々目を覚ます。この世の延長をあの世と定義するのではなく、あの世を時間縮尺さ
   せ、この世で夢の中に実現させる。だから聞こえぬものでも聞こえる時(無言文体)がある。太宰も一時はそう(無言文体)なったであろう。

    太宰生誕100年祭では神主が祝詞をあげたが、蓮華寺は日蓮宗のお経である。23年前、父が亡くなったので、そのお経を読むべく、寒修
   行に参加した。大学同期のH氏に上記本屋(同期3店の内、太宰の妻が買った店)でばったりあった。大学でHEMINGWAYのノート貸してく
    れた。勉強ぶりに感動した。おかげでいい成績だった。恩返しのつもりで高校同期で主将だったその剣道居合道 道場へ行った。無言文体で
    ある。

    無言文体は居合道でも説明可能である。太宰の同書(P101(L13〜p102(L2))の「袴をたたき座り直す・・・」。後日のことである。主将の
   父が道場主で、居合道の基礎を私に教えてくれた。紹介状を胸に東京に旅立った。早稲田の主将氏は私に、「ここはおまえのような初心者が
   来るところではない」と言った。最低剣道4段、居合道は一応基本全般マスターが条件であった。要するに各道場主が、定期的に技量達成
   度を報告に来る。マー、隅で邪魔しないように基礎の基礎(初発刀)でもするように言われた。こっちも素直に来ただけで、紹介状あったればこ
   そ来ただけだ!等と言えるはずもなかった。多分3ヶ月くらい、馬鹿の一つ覚えで繰り返した。ある日、宗家何十代目かの人に呼ばれた。たった
   一つしか知らなかったので、振り下ろした。その時誰か私の居合い刀の切っ先をわざと押さえているように感じた。この期に及んでもいじめ抜かれ
   るのか(道化証言)、とさすがに腹が立った。2回目はわざとタイミングを早くし、刀を振り下ろした瞬間、後ろをにらみつけた。5メートルくらい離れ

   たところで、3人(当然早稲田主将氏は含まれる)が、座っていた。肩の線は微動だにせず、就中、顔から全員読み取れる何物もなかった。瞬
   間、名状しがたい尊敬に変わった。「さすが」。東京に来てよかった。心底そう思った。オーム真理教の空中遊泳ではないが、私の刀を両手で
   押さえ、100分の数秒直ぐ元の位置に空中遊泳で飛ぶ。「どうした」と宗家氏から聞かれた。私は口をとがらせて「誰かがわざと押さえている」と
   訴えた。その時だった。間髪を置かず、警視庁で剣道教えている方が、すっと前に出て言上した。私にではない。「釣りと同じだ」と言った。私は
   納得した。スッとが無言文体である。以上、太宰の「袴をたたき座り直す・・・」の無言文体の解説である。
     私は全て判った。「何千年もの日本文化が判った(無言文体)」。なぜ歴史書後半で、太宰が袴叩いて座り直した・・・と言ったかを。此が
   太宰的表現方法の真似である。もしも、宗家氏からやってみろ、と言われなかったら。もしも、あの刀の一閃が無かったら、就中、間髪を置か 
   ず、スッと前に出てくれなかったら。もしも、口をとがらして(実際は平常心で言ったはず)・・・以上が無言文体である。「誰かがわざと押さえてい 
   る(真剣白刃取りー柳生家)は有言文体。戦国時代、「剣」のみに生涯を捧げた集団が、ネクタイを下げて「銃刀法所持許可書」を常時携 
   帯している。「いじめぬかれている」という表現方法は誤りである。添削の必要がある。いくら表現における「下降性(奥野氏)」を加味しようとし
   たにしても。又、「何千年もの日本文化が判った(無言文体)」は現在の事である。当時、その瞬間・瞬間を走り続けるだけだった。別にいじめ
   ぬかれた事はない。しかし、刀の先端をわざと後方に引っ張られた、と思った事は事実(無言文体)。

    宗家氏から、「なぜ居合道を?」と聞かれたとき、「親の仇取る為に」と言ってしまった。しかも、ニヤニヤ笑いながら(小学生のチャンバラ並のレ
   ベル)。後日、居合道教科書に「発生の由来」としてそう書かれていた。びっくりした。「空気を斬る」、「雑念を斬る」、「哲学的境地に至る」と 
   言えば褒められていたかもしれない。居合道は敵を必要としない。プロ野球の選手が、キャンプ前、「いじめ抜く」と表現する。「自分」をである。

   太宰は、以上をふまえた上で、キリスト教に正面から向かい合った。太宰がキリスト教会神父、或いは修行者になる、という意味ではない。五
   木氏の言うがごとく、キリスト文明に対峙した。五木氏は「和魂洋才」ではなく、「洋魂洋才」といっている。勿論、太宰は、「津軽」執筆時点で
   の聖書を読んだ。太宰の脳内変化は同書執筆期間を前提としている。そして表現方法としては、例えば「義太夫」における他者の右脳を刺 
   激する「語り」による「下降表現」を使用したのではないだろうか。

     剣道稽古終了後、防具を自転車につけ寒修行に行った。その指導者は今年父の23回忌の、同じ上人である。今も説得力ある説教に 
   変わりはない。昔以上に。「我々は身延山で命がけの修行をした。しかし、皆さんは素人なのでお経を覚えるだけでよい」との有り難い言葉で 
   あった。私は、剣道の疲れで船をこいだ。真冬であったが、ストーブに火は付けない。無料ではある。お賽銭は運良く紙片を誰も入れなかった。
   シュート回転で小銭を入れると大音響と、大発見した。「最後の・・・此経難持 若暫持者・・・に至ると奥歯がガチガチ音立てて、複雑にコー
   ラスした。不思議な、関西弁とも異なる抑揚になった。真の修行者は奥歯ガチガチさせながら数百年も同じ抑揚で読経するのではないだろう 
   か。頭ガンガン、頭悪いのはしょうがないが、頭割れるようであった。さすがに3日目、医者に駆け込んだ。42度。注射一本でガンガンを忘れさ
   せてくれた。

     その寺は、日蓮の直弟子・日持上人が開基した。太宰の津軽(P81 L5〜P85 L13、本學寺の貞傳和尚話(竹内運平著、青森懸通
   史)・(同書(P73 L5〜L11義経伝説、P89 L4〜P91 L15、義経寺)と似てくるが、否、それ以上の真実味を持った話である。しかし、頭
   が割れるような状態で上人の話を聞きかじり、修行したので、長部氏言うがごとく、トリックスター(詐欺師)的に下降性現るルカもしれない。
    勝負は、@「間」である。句読点の句点である。次のsentenceへ行く前の、間で、聞き手に次のsentenceを是非聞きたい、という欲求を
   起こさせ、且つ、前のsentenceに疑問・最低限復習させることである。決して強要してはならない。A自分の体験が聞き手を思わず引きずり
   込んでしまう。B最後に、総括として、仏教であれば、お経が出てくる。C感情は抑える。但し、計算され尽くした激情ほとばしる・・・は良い。で
   きれば、Bを構想し、設計し、@から帰納法的に、descriptiveに上昇することである。この方程式は一旦絡め取られると、認識した時にはも
   う遅い。逃れられない。魔法の方程式である。切断するには、人生を切断するしかない。此を無言文体、という。長部氏言うがごとく、太宰
   は、まず、タケから、次に、金木のイタコから、仕上げは旧制高校の義太夫の話芸で基盤を固めた。多分落語の原点は寺でのお坊さんの説
   教、宜成るかな、と思った。若い美人と顔をくっつけてひそひそ話をするのは絵になる。しかし、頭を丸めた坊さんとである。私は、みんなの手前、
   中断しようとしたが、最後まで逃れられなかった。寺の坊さんで、跡取りであった。一度だけ、感情が出てしまった時があった。本山で修行したと
   き、なぜかみんなからいじめぬかれた、そうである。男は怖い。それ以外、同じ口調・同じリズムで低音で、いつでも中止してもいいよ、と言わん
   ばかりであった。結婚式の2次会、私の隣であった。新郎の親友だった。その坊さんと同じ学年の友人3人とで交通事故にあったそうだ。此が坊
   さんの説教節独演会の開始(DNAが見事に引きずり込む)だった。(私もその朝、社長の、初めての運転手として、同じ従業員の対向車線の
   車と多少接近した。大雪だった。勿論センターラインなど見えなかった。幸い、ブレーキはお互いきいたので何の問題もなかった。又、雪の坂道
   で、私はアクセルを多少踏んだ。直ぐ後ろの大工(社長ーオライの家を改築してくれた、トラックで川に落ちそうになったとき駆けつけた。出勤の 
   時、目の前を黒い物体が横切った。社長運転の車であった。田んぼで芦が高く90度にカーブしていた農道であった。廃材等を燃やしていたとき

   タイヤが溝に落ちた。火がトラックに移りそうになった時万事休止、大声。バラバラッと10人くらいが、柱立て用作業場から、社長の二男が一番
   危険な、燃えそうなトラックに飛び乗り、ギアー変換で脱出、30秒ぐらい。他は全員異なる用具持参、誘導等。山奥の深い穴にトラックをギリ
   ギリまで接近するとき、意外と問題なかった。)から声が飛んだ。ギアーを落としたので速度メーターの調整と言った。左脳にこれだけの蓄積があ
   った。学際的である。)救急車は坊さん一人を残した。血だらけで生存不可能と判定された。先に可能性ある友人達を救急車は優先した。 
   家族が到着したとき、筵をかぶせられていた。家族も諦めた、とのこと。しかし、逆だった。坊さん一人が生還した。たったこれだけのことを、アラビ

   アンナイトよろしく、何時間も店終了まで延々と・・・。)。
    ついでに、伊奈かっぺい氏(太宰治之事、小野先生との共著、2001年6月19日、おふいす・ぐう)がいる。右脳に逆転の光あることに昔か
   ら注目していた。小野先生亡き後、生きてる貴重人(上記著書P34L10、「・・・以前、小野先生に、「太宰と似ている発想をする部分が、一
   カ所だけある」・・・」平成20年10月19日(日)伊奈かっぺい氏と同じ職場のA氏高校同期)から聞いた)と言ったら怒られるかもしれない。
   生体実験ではない。伊奈かっぺい氏はカーラジオで弘前駅から弘前大学までの道のりを、ユーモア交えて話した。決して漫才・お笑いではな
   い。太宰流に言えば、人を喜ばせることの天才である。徒歩でも20分くらいの距離である。とうとう終了まで、30分も付き合わされて、回り道
   するやら約束の時間に遅れるやら、クビの原因を作ってしまった。しかし、90%は左脳の蓄積、節目節目の10%で笑いをとる。関西系のしゃ 
   べくりオ笑いとは異質である。チャンネルを回そうにもその間がなかった。無言文体である。

     ついでのついでに、上記の回答は右脳の使用方法である、と私は思う。つまり、太宰と似ている点。小野先生亡き後、確認はできない。多
   分、此もカーラヂオで聞いた、と思う。相方の女性アナウンサーが突っ込んだ。「どうして、伊奈かっぺいさんには、ユニークなアイデアが湧き上がっ
   てくるのですか?」。「RABの仕事中にユニークなアイデアを捻り出すおん」。嘘だと思った。いくら彼が社業と芸人活動を見事に両立させていると
   は言っても、躯が頑健だと言っても、黒柳徹子女史から、「芸人はいそがしい」、という言葉を吐いてはかん、此を今でも信条として忠実に守って
   いるとしても。しかし、上記会社を社長室でめでたく賞賛と共に退職した。但、此を群緑の歌会で披露したら、全く無反応であった。伊奈かっぺ
   い氏には,SHAKESPEAR の KINGリアは無理なんだベガ。早速私はVERIFICATION.私自身を生体実験した。仕事は左脳(論理)
   を基本とする。突然変異的にDNAのいくつかが右脳に紛れ込む。その切れ切れをメモしようとした。定性的・定量的要因分析は後日。太宰

   の言霊生成の秘密を暴き、特許を取って、大儲けし、詠進歌が上手になるためである。平成15年3月26日(水)。W氏の弁論準備・・・前
   任者のY氏に電話・・・等ごちゃごちゃあった中に、メモとして、「ムスカリ(紫色)通じ合う心、」「憶良らは〜愛〜子への愛〜ましてしのはゆ〜父
   恋し 母恋し 憶良?□ふ 墓見て死なむ 脱北者は〜眼に見えぬDNAの鎖」とあった。残念ながら、格調高き歌を紡ぐまではいかなかった。

    更にもう一つ、平成20年1月18日(金)。家庭裁判所に期日変更申請、・・・K氏免責・・・Y氏破産手続き・・・電話するべき・・・とあった
   中に、赤字のメモ「塚本(右側・左側をどのように使ったか。descriptiveなら感性を豊かに しかし、左側中心なら「語」が制限。太宰は(ex.
   聖書を元にしても右脳+実体験(ex.玉川上水)豊富.」黒字で「それと小学生の文体とどう結ぶ」とあった。同年3月4日(火)。・・・赤字 
   で、「RAB[荒川]太宰  漫画/筑摩書房(長部)・・・ブログ・・・ケータイ小説.貧乏人からみた太宰・・・DS(需要・供給)曲線(人間の

   意志決定・・・脳内変化)・・・しかし全員が「太宰用語=地主」使えない。そこに「行動科学」。左・右脳。「バイリンガル」の中の津軽弁。」と
   あった。太宰の聖書は絶対である。ということを前提として、リズム(津軽弁のリズム・歌の31文字のリズム・ベートーベンの第9のリズム等)中
   心に考えていたことが判る。同年9月19日(金)。・・・M氏夫転職の件を法テラスへ、T氏(サラ金)、S氏差し押さえ、I氏にF氏の金融会社A
   社支払いの件・・・。「彼の霧の流れて雲を隠す今 浮かぶ青春生徒われらの(×)。」 同年9月22日(月)。・・・M氏Tサラ金融に電話、S
   氏・Y氏・14:30 O氏破産相談、Y氏5回目の電話、F氏・I氏連絡等・・・。赤字で「交通事故一歩手前が記載。」黒字で、同期O氏に、
   「思い起こせよ白亜の学舎を。古文で日共創始者?憶良。今65歳。5歳遅れの還暦。即、S君、左後方から、低く幽かな呼び声。「・・・ 
   I・・・」のリフレイン。・・・小卒直ぐのT紙「・・・文体・・・」はや幾とせか。S君の前で指折り数えた。生存日数を。・・・」とあった。だからクビになっ

   たのであろうか。斎藤茂吉は歌を三日三晩考え続けた、とか。確か、TVで妻の映像で見たような。妻は茂吉の集中を気味が悪い、と言ってい
   た。論理的仕事(左脳)中に感性(右脳)をDNA突然変異させるのは、やはり難しい。太宰の言霊生成の謎や如何に。
    日蓮の直弟子・日持上人が北海道に渡るとき風待ちを浅虫近くの浦島さんの家に止宿した、とのこと。漁師を生業としていた、とのこと。現
   在も近くにその名前の、商店の看板がある。日時上人は日蓮宗を公布するべく、現在の北海道(蝦夷)に渡り、樺太・沿海州・北京近くの寺
   までたどり着いた、とのことである。考古学的証拠は無いらしいが、それらしき遺物(傘・数珠等)は出たらしい、とのことである。江戸時代、津
   軽藩は寺町として整備した。武士階級の寺が1番寺、浄土真宗の寺の次(最後の寺)が蓮華寺であった。昔淡谷のり子(歌手)の実家が蓮
   華寺の近くにあった。初代竹山(全盲・三味線奏者)の手を引き、淡谷は実家の客間で、初代の津軽三味線演奏を正座して聴いた。ホイド

   芸とは思っていなかった。その寺で今年父の23回忌であった。墓は縄文遺跡三内丸山近く、三内にある。陸奥湾を一望できる高みにあるの
   が、せめてもの親孝行である。しかし、大間のマグロは見えない。SHAKESPEARE劇場の旗も見えない。
(7)平成18年、斜陽館で何故私が和歌を記載したか、というと、小野先生が「オメモ」とかいった。或いは無言だったかもしらない。無言文体で
   ある。スラスラ書いた。かな書道の文字と思った。英語の筆記体と勘違いした。やっとagainを判別した。「あっ、英語だ!」と素っ頓狂の大声を発
   した。小野先生はスッと離れた。かな書道で和歌を考え(脳内のみ)、更に英語の筆記体でoutputしたと早とちりした。「先生、スゴイ!。先生
   スゴイ。!」と大興奮し、大声を出した。た。次に書こうとした女性はじめ周囲の全員の視線を集めてしまった。後に待っている人のため、詠進の

   みに全エネルギーを傾注した。仕事を休んでまでは斜陽館にこれなかった。他の人よりとろくみんなのお荷物であった。いつ首になってもおかしく
   なかった。しかし、覚悟の上で欠勤した。歌はその意であった。だが思い出せない。わざとそのままがよいと思った。記憶に残るよりも記録に残りさ
   えすればよいと思った。万葉の山上憶良にあこがれる所以(中西進氏の論(万葉集中異質)を誤解しているかもしれないが)である。とは言って
   も、何故お伺いしなかったのだろうか。この年に限って、先生と津軽三味線会場へ歩いていった。直ぐに、先生に一言貰いたい、という若者やそ
   の母親等に取り囲まれた。一期一会。
(8)宗教等難しいことには深入りしようとは思わなかった。しかし無言文体で声なき声を聞こうとする(津川武一、精神科医師・日本共産党 小
   野先生著作、太宰治をどう読むかP24 未知谷)と、太宰のキリスト教(ヘブライ語)も考えざるを得ないのかもしれない。まるで天国の小野
   先生が、無言文体で、穏やかな人格と共に蜘蛛の糸を操っているかのようである。
    桜桃忌は小野先生が中心になり蓮華寺で挙行されたとのこと。住職が太宰と同級生だったとのこと。青森県文壇長老ならではのこと、と推
   察される。参加者も少なかった。生誕100年祭に発展するとは、小野先生も予想だにしなかった、と思う。しかし皆太宰の才能を惜しめばこ
   そ、駆けつけたのであった。そして句会を開催した、との事であった。
    では、第1回目の桜桃忌はどうであったか。上記e−mail送ったA氏から「太宰治と青森のまちー北の会編 北の街社、昭和63年」を戴い
   た。その中に「青森市における最初の桜桃忌」(P186 W氏)があり、句会ではなかったことがわかった。小野先生と文体が全く異なっている。
   小野先生は太宰の弟子として、凛々しき理想を掲げている。対して、W氏は演劇人である。言語は身体言語である。(息子も身長高く、特に
   顔は2枚目である。英語塾で一緒だった。太宰の若き頃を思いださせるものだった。)REALISMもSOCIAL REALISMに近い。1周忌だ

   から、読経。T紙のS氏が用意した2枚の色紙に、阿倍合成が@徳利と桜桃A桜桃のみ描き、全員が署名した。又、自己紹介を兼ねて太 
   宰へのそれぞれの思い出を語った。この思い出を語る、ことで私も経験ある。斜陽館での桜桃忌、マイクが全員に回された。私の番になった。

   何気なく小野先生に視線が行った。私は「もっと作品を読んでから・・・」とか訳のわからないことを言ってしまった。しかし、此が無言文体である。
(9)小野先生のT紙から以下を気づいた。その寺で何故か相撲を取ることになった。否、最初にとろうとした。組み合ったはいいが、相手のズボン
   がかなり破れた。私小学校6年生・相手中学校(多分、頭一つ上なので手がバンドに届かず)。損害賠償事件である。しかし、身長体重、は
   るかに私より上で、投げつけられても仕方がない、と思っていた。銀杏の巨木の下であった。結果的に相撲も取らず、流れ解散になった。何故
   蓮華寺で相撲したのか。土俵があったわけではない。又、父の23回忌で妙法蓮華経寿量品第16を丁寧に何度も読経した上人は、住職の
   親戚で、同じ蓮華寺に勤務する上人の子供であろう、と言った。。相撲やるために寺に行ったのではない。何故・何のために・相手の名前も知
   らない。寺は2キロメートルも離れていた。一期一会。雪合戦と同じ方法論。同級生は直ぐ近くにいた。しかし、小学校で顔を合わせる奴は合
   戦に参加しない。長屋の戸をガタビシ開けると、そこは常在戦場であった。トラホームの手術の時、左目の瞳に傷がある、と言われた。特別相
   手を憎まない、が、親しくもならない。抽象化された記号となり、見えない100手先をシミュレーションする。大昔、意志決定は、需要曲線と供

   給曲線との交点で決定する単純なものではない、といわれた。意志決定は人間の複雑な連立方程式である。風のように来たりて、風のように
   去る。後にはかけがえのない思い出のみ残る。aufhebenする事なき繰り返しであった。

(10)最近裁判員制度がスタートした。その酒席で、太宰の女性関係、法令違反の話が出た。私は無言を通した。法律的には争いの余地は
   なかった。せいぜい慰謝料の金額にかかる判例の中身だけであろう。和歌の全国大会や太宰生誕祭に事務所欠勤したことは皆知っていた。
   仕事はとろいし、にもかかわらず沢山の破産関係の事案を抱えていた。これ以上御荷物になるわけにはいかないと夜も眠れないくらいだった。映
   画寅さんではないが。転職のなれの果てだった。・・・恩師にあの時T君と太宰の女性関係をdiscussしたのと同じシーンだと言った。恩師は頷い
   ていた。その時は。ただ、「津軽」の登場人物皆、誰も心底から太宰を軽蔑していない。一旦芸術、文学の話になると、その実力差は余りにも
   大きく、太宰を見上げるばかりであった。しかも、上記酒席の場合でも、友達の友達をたどっていくと、太宰或いは太宰の知人にたどり着く、と
   言っていた。結局、学校の何とかの何とかが太宰と知り合いだ、と言う落としどころで終わった。
     建て前と本音である。各々の心の中では太宰は単なる物書きではなく、特別な存在である。「津軽(P141 L1)」、深浦の旅館に宿泊し
    た翌朝、津島と記入しなかったのに、旅館の主人がお銚子と塩辛を持ってきた。太宰と記入してあったので最初判らなかったが、よく似ている
    ので、・・・ゆうべは失礼しました。太宰の兄と中学校の同期だと言った。P141 L13(結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚し

    た・・・)という結果になった。
(11)太宰がもし、100歳まで生存したとしたら、小野先生著書(太宰をどう読むか)、石坂洋次郎、キリスト教(初めに言葉ありき)を考える
   と、世界に残る仕事を更にしたかもしれない。「津軽」の歴史書引用からそう言える。感性中心の、右脳中心の文学者は若い頃有名になって
   も、世界に残ることは出来ない。そのかわり、仮説として心中に係る訴訟事件等(まさか、と思うが)について、起訴・立件されるとも思わない
   が。時に最近の裁判員制度により、因果相当関係−私小説が太宰の現実をかなり反映しているとする(東京の萩原葉子に言わせると、私小
   説が実際の太宰)、そして私小説が裁判に証拠資料として採用される、と仮定すると、作品理解はかなり異なってくる。
     小野先生著 「太宰をどう読むか」の最初のインタビュー文、@批判的な津川と石坂に対してA小野先生は「ただ慟哭の涙・・・」とあった。
   この方法論、即ち、小野先生は青森県人を代表している、太宰と同じ言語・同じ空気を共有し、小野先生のように太宰をよく読みこなし、或
   いは太宰をよく読んだ人の著書を少しばかり読み、太宰の才能を惜しみ、等等・・・という人を代表する立場の人である。私のような小野先生
   の著書もろくに読まない者も当然含まれる。
     青森県人なら、高い確率として、反映していない、因果相当関係にないと主張するであろう(佐古純一郎、太宰治の文学 朝文社199
   2年 P205 〜P206 P212〜P220 タケは「佐古先生、修治はね、小説家だば」)。太宰は本当は死ぬ気がなかった。但し、作中の太
   宰は死ぬ運命にあった、と言うだろう。
     しかし、東京の裁判員ならかなりの確率であると認めるであろう。interdisciplinary methodology が妥当とするならばの話である。
(12)昭和30年6月20日付T紙では、藤田金一氏の「桜桃忌に寄せて」 「津島と小泉」と題する一文が寄稿されている。同人雑誌「猟奇
   兵」に持参した太宰が、原稿用紙25枚を一気に読み上げた。しかも太宰の自信たっぷりな、どうだと言わんばかりの顔つきで。しかし竹内氏
   (後に青森県知事)や藤田氏は感心しなかった。近藤勇をテーマとしていたが、心理的な新解釈が不足、と指摘された。「ただ文章は後年の
   文章の萌芽ともみられるあでやかな艶があった。・・・」と、藤田氏は言っている。残念ながら、文体という文言はなかった。太宰最初の小説「虎
   徹」として同人誌に掲載された。小泉は太宰と旧制高校同じくし、仲がよかった。又、太宰の欠点等、短所をあげず、長所のみを褒めた。した
   がって、太宰は自信を強め、創作意欲を高めることができた。

    6月19日をはさみ、6月18日は小野先生、20日は藤田氏。小野先生は太宰の人柄・人間性の紹介、藤田氏は太宰の作品、特に文
   章・あでやかな艶・・・と分析している。・・・仮に、全体を通してこの方法論(小野先生は単にシェイクスピア劇の演出家、次に他の人が「小野
   劇場の役者」、という順序・・・)が認められると仮定するなら、小野先生著書「太宰をどう読むか」にも同じ方法論。即ち津川「死なねば気が
   狂う」、石坂「世界にどっちが残るか」・・肝心の小野先生は「太宰の早死にを嘆く・・・」という方程式が成立することになる。
(13)昭和31年4月18日付T紙では、逆に小野先生一人が太宰に真正面に向き合っている。「科学的な結論に敬服 ー「太宰治論(奥
   野建男」。「科学的」と命名した小野先生はさすが、と思った。小野先生は、太宰の真の苦悩、即ち、ライバルーイエス、とズバリ核心を切り取
   っている、と奥野説を開陳している。

    T君とこの年に会ってはいない、と思う。又、小野先生は特に文体・文章等を記述していない。同著では、奥野氏は文体を重視し、技術的
   な文章表現と太宰の苦悩・キリスト教とを表裏一体として活写分析している。太宰の無言文体を考えるとき、タケの浄土真宗から太宰のキリ
   スト教までを視野に入れざるを得ない。しかも、太宰が読んだ聖書は、キリストが実際に民衆に語った言語とは異なる。
(14)昭和31年8月11日付T紙。小野先生の写真入りで掲載されている。青森県立図書館長として。閑話有題(46) 人を喜ばせるのが
   ー太宰治 二十年前の原稿返す 几帳面と礼儀と完璧な文章の持ち主 がタイトルである。
    太宰死後8年ではあるが、小野先生にとり二,三日前に死んだような、センチメンタルな気持になる。それは、太宰の人間性と、太宰の作品
   から来る皮膚感であろう、と表現しいる。
   蟹田に建てた太宰の碑文は、井伏鱒二の発案で、佐藤春夫が揮毫した。碑文は、「彼は人を喜ばせるのが何より好きだった」である。除幕式
   後、急に土砂降りの雨になった。碑文建立にコマネズミのように奔走した中村貞次郎氏が、濡れながらお客の心配をしていたら、誰かが言っ
   た。「太宰はここらで一雨降らそうではないか、と言ってニコニコ笑っているんじゃないか」、と。みんなどっと笑った。その次、小野先生ならではの
   総括。即ち、「太宰には綿密な計算があるから、死んでからも(以下碑文)「彼は人を喜ばせるのが何より好きだった」を例示kしている。ユーモ
   アのセンスは抜群である。小野先生の皮膚感によれば、太宰が生きている。又、次元の高い作品を創作しているはずだと思うに違いない。私
   もそう思う。キリストは英語で聖書を語ってはいない。ヘブライ語である。笑ってすまされる話ではない。
    青中三年のエピソードとして、ストライキをやろうとして廊下で話し合っていた。「頭を丸めた小坊(コンボウ)と言うあだ名の教師が通りかかった
   ら、みんなで拍手してやろう」、ということになった。冷やかしのためである。偶然その先生が通りかかった。みんなはびっくりした。あまりの偶然に手
   を叩こうとはしなかった。しかし、正義感強く、礼儀正しい太宰は、ただ一人、約束を守った。手を叩いた。太宰が教職員室で、どのように油を 
   絞られたかは、推して知るべし。

    小野先生に太宰が依頼した原稿100枚を、20年後に太宰の妻が持参して返還してくれた。除幕式の為に来たのである。小野先生は作
   家の妻として物書きの心をよく理解し、空襲・疎開にもかかわらず保管していてくれた、と感激した。
    太宰の文章は、読んでいってそこを流れる道化とか、人生観などをくみとるようにすればよい。と小野先生は言っている。又、佐藤春夫が言う
   には、太宰は文章にかなり自身を持っていた。だから、太宰の文章には、アラがない。佐藤春夫が一つの作品からアラを探そうとして、、一つずつ

   文字を拾っていったが、とうとう発見できなかった。
    ここに小野先生の太宰との交流、太宰に対する思い、そして太宰の真の姿が紹介されている。真贋弁別への警告ともとれる。初めて太宰の
   文章がテーマに上った。しかし、文体という文言は無なかった。無くとも、仮に私がこの紙面を読み、T君に8月15日会ったとすると、動かぬ証拠
   となる。いずれT君と再会できると思う。文体なる文言は後付かもしれない。或いはラジオかもしれない。太宰がラジオでタケに呼びかけた、が、
   返事はなかった。タケはその事実を知るよしもなかったように。
     問題は私の脳内変化である。此は私一人しか知らない。毎月の歌会で、太宰に全く興味ない人に、太宰への接近方法・方法論を記述
   化することは可能である。しかし、私の脳内・無言文体を和歌に詠進・言霊にすることは、私の能力不足もあり、不可能に近い。
     小野先生にお会いしたのは、大学入学後である。この時点(昭和31年)では、全て藪の仲である。小野先生を、特に意識したわけではな
   い。いくら綿密な計算がこの世に存在していたとしても、スーパーコンピュータがどんなに高速で計算したとしても。

     この寄稿文は、昭和34年7月1日付、東奥日報編集局文化部内「閑話有題」刊行会に転載されている。恐らく全て同一の題名・同一
   の内容と推測される。その一文は、簡にして意を尽している。小野先生の人柄を余すところ無く表現している。すばらしき文体である。
(15)昭和33年6月24日付T紙(夕刊 四面)。「不思議な親しさ」と題して、小野先生はこの原稿を6月20日夜完成させた、と末尾にあ
   る。T紙は6月24日掲載した。やはり、文体という文言はなかった。「昭和23年6月13日。・・・」から始まっている。上記「太宰治をどう読む
   かー小野先生著」と同じく、津川武一と石坂洋次郎と比して、御自身の追悼文としては感傷的であった、と再度繰り返している。しかし、桜桃
   忌10回目になり多少精神的に余裕ができたのか、「・・・投資した会社がつぶれた、というふうなショックであった・・・」と、経営学的なユーモラス
   な表現をしている。そして、「・・・死後、・・・十年の評価にたえたばかりでなく、どうやら、新しき古典としての地位をきずきつつあるようである。大
   學の卒業論文では、もっとも豊富なしかも難解なテーマの提供者である。・・・」。知事在任中の兄文治氏は、卒論で金木に来た学生に対

   し、便宜を図った、とある。講演のために青森に来た文化人(天野貞裕・池田潔・佐藤春夫・井伏鱒二・小山潔等)を紹介している。太宰治
   全集として、豪華本決定版、筑摩全集をあげている。
    太宰研究は、奥野建男氏は当然とし、最近評判の「佐古純一郎氏、太宰治におけるデカダンスの倫理」とによって、ようやく見事な塑像を
   形成されつつある。「死後十年にして、太宰治は日本文学史上不滅の存在としての容貌を見せてきた」。と小野先生は生誕百周年につなが
   る礎を確立した。三鷹の禅林寺では亀井勝一郎氏を発起人として、年々盛んになってきた。青森でも、単なるお祭りではなく、「青森の文化
   人の交歓が行われる」ことに意味がある、と強調している。「・・・われらの太宰治は今やすべての人々の太宰治である。そのことを誇りとし   
   て、・・・」、まさに、経営者的官僚(無言文体・脳内変化)としての小野先生の面目躍如である。

    「キリスト教と太宰・・・」と小野先生に伺おうとした時、先生はかなり腹に力を入れ、「佐古純一郎」とズバリ言った。あわてて私は話題をそらし
   た。大学四年までに、太宰の文体についてものし、先生に提出できたら、という夢は無かったわけではない。佐古純一郎は女子学生を引率し
   て、越野タケを訪問した。当時、映画「戦争と平和」がブームを巻き起こした。そこでトルストイを読破した。ナポレオンにも興味を持った。但、ベ
   ートーベンの第九と歌誌結社「群緑」・「潮音」は後の事である。したがって、私は太宰の脳内・言霊発生のメカニズム、就中、短詩型文学の
   和歌に応用できないものだろうか、と考えるようになった。

    例えば、荻原葉子(洋々社 1991 NO7、太宰治7ー太宰治のこと P7 L7)の、「「・・・「葉」の一節「葉の裏だけがち”りち”り枯れて
   虫に喰われてゐるのだが、それをこっそりかくして置いて、散るまで青いふりをする。あの樹の名さへ判ったらねえ」。それを読んだ時、それまでの
   多くの文学作品がすべて嘘であると思ったほど、私は自分の中に眠っていた感性みたいなものを、総立ちにさせ、ふるわせ、そのふるえが止まら
   なかったのを覚えている。・・・」がある。更に、同書P7 L9、「・・・「葉」の書き出しの「死なうと思っていた。」「その日その日を引きずられて暮ら
   してゐるだけであった。」などの文を、涙と共に繰り返して読み、暗記し、途方に暮れていた。」とたたみかけ、最後に同書P8 L14に、「・・・大抵
   の小説家は、小説は虚構で、実生活は現実であるのだが、太宰の場合は逆で、虚構に生き、小説<作品>は現実と、私は見ているので、
   第三者に実生活を聞く必要が無かったとも言えたのである。・・・」と結論づけている。無言文体を解析するとき、かくやと思える一文をものした
   いものである。
    卒論は、やはり、太宰の死後数年間は、太宰をテーマとしないことに決められていた、とのことであった。戦後直後、太宰がいかに若者の心を
   熱狂させていたかを、思い知らせてくれる。
(16)昭和33年6月24日付T紙(夕刊 四面)。「作家太宰の誠実」と題して、小野先生の隣に、藤田桂三氏(五農高校教員)の一文が
   ある。「誠実」をキーワードにして、太宰本人と作品を解説している。特に、魂の誠実さが神と対決しうる、と規定している。だから、太宰文学の
   倫理、
    即ち、下降の極限に降り立った人間の姿を見ることが出来る、といっている。誠実だったからこそ、太宰は死す。基本的には「他のため」の
   下降とし、奥野建男論と通底している。「死」「誠実」は、「文学は表現なり」の定義を遙かに超えている心証の真実である。と結論づけてい
   る。文体という文言はついに登場しなかった。しかし、小野先生がSHAKESPEARE劇場の演出家、役者が藤田氏という構造である。
(17)昭和33年6月13日付T紙,「太宰文学への情熱」と題して、ドナルドキーン氏の斜陽とヴィヨンの妻の翻訳が紹介されている。死後十
   年、確かに太宰の研究・翻訳等盛んになってきたことがよくわかる。
    結局、文体という文言はT紙から発見できなかった。しかし、小野先生にお会いする遙か以前、太宰についての情報源は、やはり、毎日配達
   されるT紙が一番身近な存在であった。今となっては全て霧の中である。しかしながら、上記のT紙から次の事が言いうる。(12)昭和30年6
   月20日付T紙の、藤田金一氏は太宰の文章を、将来完成するであろう文体の片鱗を認めている。特に、太宰は同人誌の仲間に自分の小

   説を音読した。この、わざわざ自身が声に出して観客の前で作品を披露する、という点が重要である。長部氏が言うよう、耳から言語を聞くと
   いう方法で、最初は乳母・タケ、次はイタコ、義太夫等から太宰の脳細胞に蓄積されていった。換言すれば(有言文体)で太宰は情報を蓄積
   した。そして、上記同人の前で、太宰は自信満々で原稿全てを音読した。しかも、弘前から青森に来るまでに修正もした。念入りに電報で藤

   田氏に到着時刻等を連絡さえしている。
    私は、小学校6年生(昭和29年頃)、俳句をノートに1冊恩師に提出していた。短詩型文学に興味があったので、太宰のように小説を書こ
   うとは全く考えなかった。しかし、太宰の、片言隻語をうらやましくは思ってはいた。俳句等に取り入れる(著作権法侵害)ことはできないものか、
   と常に考えていた。上記荻原葉子(洋々社 1991 NO7、太宰治7ー太宰治のこと P7 L7)の、「・・・私は自分の中に眠っていた感性
   みたいなものを、総立ちにさせ、ふるわせ、そのふるえが止まらなかったのを覚えている。・・・」というほどの感性は無かったが。同様に、萩原氏の
   「・・・同書P8 L14に、「・・・大抵の小説家は、小説は虚構で、実生活は現実であるのだが、太宰の場合は逆で、虚構に生き、小説<作品
   >は現実と、私は見ているので、」というところまでは、いくら何でも、考えていなかった。多分、大學で小野先生にお会いして初めて太宰の方
   法論に気がついたように思う。しかし、「須佐の男劇」でパンドラの筺を開けて以来、現実に起きていることを演劇的に発想し、納得させ、慰め 
   たものだった。例えば、雪合戦の場合、現在進行形、走りながら納得させた。一つ一つの事象を論理的に整合させるためにである。


 2 無言文体
  (1)雪合戦
    小学校同級生T君と太宰をdiscussした。その過程での私の脳内変化である。証拠となる何物もない。又、恩師の、人間は内にもう一人
   の人間を抱えている、に納得させてしまった。T君とdiscussしながらそれを感じていたことになる。甲子園球場でサイレンなりひびき試合終了後
   の、あの光景とも異なる満足基準原理・津軽の心の平安に近い(昔感じた何か)であった。それが雪合戦であった。走りながら考えた。満足し
   た(無言文体)。誰が何の為に完璧なsystemを作ったのか。平成30年6月18日付T紙の小野先生(桜桃忌)一文を、改めて読んでも感じ
   た。雪合戦は遊びで、頭から湯気を出し、見えなくなるまで、昼メシも忘れるときもあった。トラホームの手術の際瞳に傷があるといわれたが、決
   していじめとか、そのようなレベルでは、毛頭なかった。

    太宰・ナポレオンと真逆である。特にナポレオンの場合、左脳に貯金した教科書通りを演繹的に(例、クラウゼヴィッツ(小野先生のお宅を初
   めて御訪問したとき、奥さんから森鴎外を読め、と大声で怒鳴られた。怠け者だから読まなかった。クラウゼヴィッツは表紙を眺めただけであ

   る。))、否、教科書以上の結果を出したはずである。と、教官は感心したはずである。しかし、ナポレオンが母の胎内にいた時、ゲリラ戦の、し
   かも、負け戦であった。DNAには教科書に書かれていないゲリラ戦の要素が右脳に光りあったはずである。早い話、グローバルな現代、同一の
   ソフトをコンピューターで、同時にインプットしたら何が起こるか。将来世界史を変えるだけの、民族の運命を託すに値する脳内変化を、演繹的
   方法論だけではない天分を、一体何人の教官が見抜いたことであろうか。リーダーの資質とはそういうことである。と、思う。
    太宰・ナポレオンと決定的に異なる点は、硬い雪等で怪我しそうになり、終了した、ことにある。逆であった。石と同じくらい硬い雪つぶてを誰か
   が作った。小学校6年生がグループ最高学年であった。皆直ちに真似した。手の平で一皮ずつ温かみをつける。雪つぶてを両手で圧縮しても
   石にはかなわない。玉壊し、といって石に雪玉をぶっつける遊びもした。
    松下幸之助的発想が許されるとして、組織は同質であってはもろい。雪つぶての細かい雪の粒一つ一つが、雪つぶてという組織を構成する。
   就職内定後、暇ならアルバイトしてくれ、といわれた。実質的就職試験とピンときた。コンピュータの調査であった。全くコンピュータ経験無い学

   生も希望した。調査に資質ありと思った。即諾した。しかし、担当の旧松下氏から「コンピュータ」を全然わかっていない、と非難された。面前で
   言われたから私のことだ、と思った。土足で居間にズカズカ上がりこまれ、コンピュータの情報を巧妙に探り込まれては怒って当然である。紙テー
   プにホッチキスのようなもので穴を開けながら、これがコンピュータでござい、という人類史上旧石器時代のコンピュータではあった。確かに私はわ
   かっていなかった。0と1が何故大事なのか、苦悩するばかりであった。学歴無くとも経営の神様になった松下幸之助にあこがれ、寝台列車に飛
   び乗り朝大阪に到着した。しかし、松下会館の食堂でおばちゃんから大根の尻尾をかけ声と共に戴き、感激するくらいであった。但、家庭教師
   で松下製品販売店の長男に会った。技術系父と商売人系長男、母親は間に入り困っていた。悪いのは私であった。契約違反であった。英語

   と数学を英語だけにしてくれないか、といったから。当然父親は怒った。普通はクビである。しかし、長男は逆だった。おとなしいが、その冷静な、
   関西的そろばんの確かさにびっくりもした。松下王国を支えているのは、このような販売店の人的資源であろうと思った。名誉の為に旧松下氏に
   これだけは。就職後再教育された。IBM方式の自学自習形式であった。唯、90点以下だと不合格、首もありうる、とのことだった。最年長だっ
   たが、首という脅しがあったので最終回前まで、合格続けた。しかし、妹の結婚式とぶつかった。事業部長に一応お伺い立てた。全く予想もしな

   い答えだった。結婚式は一生に一回だから、必ずいってあげろ、と。そのときだけ90点に足らなかった。また、現場から「全員参加の原則」を思
   想的にいかにも日本的と思い、後日system設計の際、短大コンピュータ授業に生かした。キリスト系であった。キリスト(宗教)とキリスト文明
   とは異なるのではないか、と思った。「全員参加」は一神教のキリスト(宗教)から発生していったのではないか、とも思った。即ち、砂漠で民族

   滅亡の危機を迎えたとき、メシアを渇望したとき、「全員参加の原則」を貫徹しなければならない、のではないか。仏教が漢字を経由して伝道
   されたが、同じアジアなので多少の揺らぎは、寧ろ許容されているような気がする。

    長屋の構造が無言文体に、すべてである、と思った。雪合戦は小学校3年までである。耳すれすれに飛んでくるビューットいう音。柱に食い
   込む金属製の音。広場なら体格の劣る私は太刀打ちできなかった。投げ方も投手・外野手型で腰が入り、捕手・内野手型ではなかった。
     当時皆食うだけで精一杯だった。両親が汲んで肥桶を担ぎ運んでいった。私は知らない人と偶然同じ方角を歩いているような顔をしてい
   た。知っている誰にも会わなかった。太陽が影をクッキリ出した。どのルートを通っても必ず誰か級友に会わざるを得ないことに気がついた。線路
   を何本もまたぎ操車場の隅に来た。暗黙の了解であった。カボチャ等大量にとれた。すぐ下痢するタイプだったが、INPUTで同量以上を補っ  
   た。

    夏休み等は母の実家で暮らした。さわやかな風が田んぼの上を通ってきた。秋田民謡を聞き、寝そべって一日中蓄音機を回した。小学校6
   年まではbilingualだった。しかし、その後、但の一度も遊び友達と会っては居ない。一期一会。今年、母の弟の一周忌であった。その寺で25
   0回忌の人もあった。その弟は私が退職間近に終末医療ということで帰宅した。退職したら、救急車で再入院。帰らぬ人となった。御見舞を御
   霊前に書き換え急行した。蔵から出したばかりの、高等小学校用算数の教師用虎の巻(旧文部省作成)が置いてあった。叔父が母の為にそう

   した、といった。母は百姓仕事しか知らない、と言って来た。名優とは、演技を墓場まで持って行くのではなく、ほんの少し綻びを魅せる人だと思
   う。

    高等小学校教本捨て、無学道化に生きし母に「生まれてすみません」

    NHKTV「HARVARD大學 MICHAL SANDEL教授の「政治哲学JUSTICE(正義論)第8回(H22.5.23(日)」が放映された。テーマは

   「What’s a Fair Start?」である。千人を超える受講生で、第1子に出生したのは、75%から80%であった。教授自身もそうだった。「第

   1子に生まれた人は手を挙げて。”How many here[hi:r]? Raise your hand.Those who are the first

   embodiment.”」「自分の力で最初に生まれてきたのか? ”Is this first order your doing? Even by birth order.”」

    「生まれてすみません(無言文体?)」と言っても、最初に生まれるとハーバードに合格できる確率は高くなる。不公平ではないか、という事か

   ら、(道徳的)原理とは、正義とは何か?と論理展開していった。「生まれてすみません」は、たとえ著作権法侵害と判っていても、一度は使いた

   い言霊である。同時に、その時の太宰の左脳と右脳の秘密も知りたいものである。

    三等列車は常に荷物で一杯だった。警官が来た。手で一つずつ確認してきた。父のリュックの前でその手が、止まった。私は心臓が飛び出そ

   うだった。私の視線はのんびり車窓の外を向いていた。大館駅であった。父はきまって子供達のため、米をパンパンにリュックに詰めていた。

  (2)山上憶良
    春先、八甲田山系の雪解け水を、集めて急流。陸奥湾に流れる前に、太宰も隅田川のようだと形容した堤川に流れてゆく。太宰と同様、
   私も高校3年間、毎日その川を見つめ、通学した。但し、校舎は海辺から山手に移転した。又、私は、小学校入学1学期は、海の近くであっ
   た。太宰が見ていた川の場所近くであった。その川から、太宰の脳内変化(無言文体)を検証できる。例えば、小学校恩師は、堤側を太宰が
   自殺した多摩川に添削し、私の詠進歌を潮音に送った。高校同期のこぎんさし継承者(銀座で個展開催)且つ歌誌群緑氏(私自身は山上
   憶良の歌方法論(理解不足かもしれませんが)―中西進氏(奈良県立万葉文化館館長、NHKTV(大学講座)・山上憶良(中西進編 楼
   楓社)・悲しみは憶良に聞け 光文社))、は、堤川に浮かぶ汚い泡沫を、重厚な美しく、極度に抽象化した作品で県展受賞した。相対的で
   ある。脳内変化(左脳・右脳)は・意志決定は、大昔の、需要曲線と供給曲線との交差点で決まるような単純なものではなかった。
    従って、太宰の小説は、私小説に名を借りた、計算され尽くしたFICTIONである。少なくとも{津軽」は。

            背中見せ泡沫見つつ芝居せし 太宰思ふは神のおはりを

   (神は、「太宰治論」奥野健男著 から引用)
     山上憶良に出会った頃、60年安保であった。マルクスも読んだこともないのに、義務感に駆られた。勉強も手につかなくなってしまった。県内
   北の高校でデモの噂がT紙に載った。そのタイミングであった。「お説教」と題する一文を見た。多分文藝春秋。正確には高価そうな葉巻を燻ら
   せている吉田健一の、憎たらしいほどの、人生を透明化した文体を予想した。読まなかった。何もしなかった。勉強も。あの、人を煙に巻く紫煙
   のみ、脳裏に残っている。
     「貧窮問答」にある社会的弱者を、仮に現在に置き換えてみて、仮に太宰が小作人等社会的弱者を考えてみたとする。日本経済新聞 
   経済教室 慶応義塾大学教授 中島隆信(平成22年5月10日)に社会的弱者として、障害者・人生の落伍者・犯罪者等と定義づけてい
   る。そして社会的弱者は生まれたときから運命づけられる事はまれである。そこで長所(残された機能)を引き出して経済的に自立できるようにさ
   せる、という趣旨である。
    仮に、実行する手段として、人的資源会計(Human Resource Accounting 人的資源会計論 1973年森山書店、企業会計の基
   礎的考え方ー第10章 2009年 東京リーガルマインド 両著作 若杉明)を、個人の家計簿に、人間の一生に、特に大脳に注目し、応用で
   きたとする。最近問題になっている自己破産申立者、個人再生開始決定者も含めた、社会的弱者にも再生可能にさせる。現在の資本主義
   体制を維持しつつ、再生の為投資された以上の価値を生み出せるように、経営コンサルタント等専門家集団の指導の元に、次世代に繰り越
   させることが可能にさせる。全国ネット、否、全世界ネットを構築する。しかも、松下幸之助流民間ベースで達成できるCHEAP GOVERN
   MENTが理想である。地球生命体、いずれかは必衰であろう。死を迎えぬ者はない。しかし、何を残すかである。Human Resource 
   Accountingなら次世代に、人間、「脳」を残す事ができる。
     平成20年同期会の昼、母校を訪問した。久しぶりであった。
   いたるところ疎外(太宰のキーワード)させない工夫があった。又、個人の自由を尊重していた学風の伝統も見て取れた。図書室に太宰の答案
   があった。(県立図書館では、太宰のノートに太宰自身の似顔絵・イラストが大量に書き殴られていた。太宰は目をツブッテテも画けた、と太宰
   の妻は記載していた。)検証するべく、その答案を、太宰の左脳・右脳と弁別するべく夢中になってしまった。3年同級生だった女性のHさんが、
   あきれ果てたように迎えに来た。私は、ガラスを食いちぎらんばかりに見ていた。しぶしぶみんなに従った。校長は剣道をよくしていた。NHKTV、稽
   古後一人一人膝詰めで対話していた。まだ汗をしたたらせながら。模範試合では、最後に「後の先」で決めていた。
  (3)イエスの墓
    BIBLEのイエスの言霊は絶対かもしれない。が、イエスは英語でなく、ヘブライ語を話した事は歴史的事実である。非常勤講師であったA
   短大で、哲学N教授から、最近聖書研究も非常に盛んになってきた、と聞いた。しかし、青森県、新郷村イエスの墓の前で、毎年お盆に、ヘブ
   ライ語でイエスの霊を慰めている、と言ったら、同教授から、にべもなく、「観光だ」と一蹴された。(NHK TVで、しつこく、証拠を見せてください
   の追求に、2000年前のことだから、わからない、と答えていた。なおも追求したので祖父の目は青かった(大正時代)、と言った。先祖の写真
   にその外人らしい(DNAの先祖返り?)人物が写っていた。残念ながらモノクロだった。更にNHK氏は追求した。「証拠を」と。裏の物置に紋章
   がある、と言った。確かにTVに映し出された。)太宰言霊生成の謎は、英訳聖書にあることは間違いない。それを翻訳した文語体にある。特に
   文語体の日本語は、原文以上の調べを醸しだし、詠進歌に応用できないか、と我が非力を嘆くのみである。しかし、聖書の言葉は絶対であ
   り、神そのものとも思うのは素人の浅はかさなのであろうか。まさか、ヘブライ語の誤訳があったとは夢にも思わなかった。
    せっかく新郷村ヘブライ語、と振ったにもかかわらず(偶然のことであるが、当時ヘブライ語訳の誤訳に係る著書が発行されていた)N教授も、
   示唆する何事も残さなかった。キリストの墓に行った。暖かくさわやかなみちのくの秋風であった。まぶしいくらいの太陽であった。しかし、海岸線
   を走り出してから一変した。ヤマセであった。(昔、青森県東北町橋の近く、A銀行の向かい側食堂に入ったら、ストーブがまだ真っ赤であった。
   8月であった。)江戸時代以前も太宰の時代まで、ヤマセは稲に大敵であった。太宰が同書でわざわざ凶作の年を1行に1年のみ記載した。
   たった1行に東北農民の万感の思いが凝縮されているのである。当時の科学技術の水準では、津軽方言詩人・高木氏の「シコアダネムラ」そ
   のものであった。無言文体である。私は金縛りにあいつつあった。目はまっすぐ、目は据わり、寒くてガタガタ震えが来ても、トイレにも行かず、信
   号など眼中になかった。道端の雑草も、腰曲げて歩く老人も私は見てなかった。唯真正面を。まるで天上のイエスに会いに行くような私の全身
   硬直だった。(真正面のみ見つめる人の横に私は立った。じりじりと太陽は照りつけていた。東京タワー近く、東京プリンスホテルの中華料理店を
     私たちは目指していた。講師の接待役を私は仰せつかっていた。講師は経済性工学の第一人者だった。満場の技術者に私は冒頭、「講師の
   片言隻語も聞き漏らさないように・・・」とお願いした。決して遺言のつもりで私は言ったのではなかった。私たちは道路の端に立った。六本
   木から来る車列は多かった。東京プリンスホテルを真正面に、右側に歩道橋、左側に信号のある交差点であった。どちらも100メートル位あっ
   た。私は最初交差点、次に歩道橋を見ようとした。講師はいなかった。講師は人生を小休止する思想など持ってなかった。生き急ぐキリストの
   ようだった。その次の瞬間、私は講師の横に立っていた。目に道の片側が映っていた。あの最後の晩餐・中華拉麺の味は格別美味しかった。
   講師は学際を体現している方だった。あの世で「不手際」を私はなんとお詫びしたらいいのだろうか。
     W大近く、大きな道路があった。太宰のトカトントンならぬスパイクの音が催促した。回転させながら走っているような音だった。ピッチ走法の
   音だった。純白のユニフォームだった。練習用?しかし、背番号も何もなかった。背は大きく、全体やや丸みを帯びていた。必殺ではなかった。
   大き目がひたと私の目を、しっかり射ぬいた。その眼は周波数も角度も固定させた。後ろ向きのまま飛び込んでいった。ワニが大きな口開けてい
   た、うようよと。あの眼だけが時々出る。記憶は断絶した。白日夢という漢語がある。喉をカラカラに締めつける無言文体。)
    迷ひが平では迷った。十字架は二つあった。青森県は青森市を中心に、左(西)が津軽、右
    (東)が南部である。言語も異なる。太宰は津軽弁、新郷村は南部瓣である。
    奥野氏の言う下降性を必死にこらえていたようなものであった。だからこそ、太宰の言霊を転職のたび、無断拝借した。文章にメリハリを付け
   る為だった。著作権法侵害である。普通、ある程度の経済基盤が確立された時点で、普通の生活を送れるようになり、転職はストップ(aufh
   eben)する。しかし、映画「寅さん」の語法のように、普通の人の非日常をrutin work化した。転職したその日から、次の転職を考えた。太
   宰の言霊は、人生に成功した人には似合わない。今思う。人間の発声する言語が中心である(人体模型で発声の仕組みは、旧万博会場、
   歴史民族博物館で見た)。

       万博のゲル近し彼の人体の模型発声せり 無言の我に

    A短期大学で、情報処理概論を担当した。短大には小さくかわいい修道院があった。私も一生はいるべきと思った。ペギー葉山の蔦のからま
   るチャペル・・・という歌が聞こえそうな、窓際のTIME誌が置いてあるすぐ近くであった。しかし、土下座しても断られることであった、と思う。何故
   なら、女子修道院であった。教会にはN教授との義理もあり参加した。教会が近代経営学発祥(キリスト文明)と実感した。偶然、C短期大学
   から転職して遠くなかった。比較可能であった。勿論、どちかに優劣をつける、という事ではない。経営学の教科書に近い、と表現したら理解し
   やすいのかもしれない。抑も経営学は西欧のものである。C短期大学の学長は小野先生であった。経営者・理事長は、私が小学校の頃そろ
   ばんを教えてくれた。私が理事長ご夫妻の運転手をしていたら、理事長ご夫妻の会話は、もっぱら土地・建物の話題であった。時勢の先に敏
   感であり、センス抜群であった。だからこそ夫婦でそろばん塾からスタートし、短大までこぎ着けた。
     音楽科N助教授の教会(夜)での信者に対する賛美歌、ベートーベン第九合唱等の倒れるのではないか、という熱血指導に、失業保険
   もらいながらの私のコンピュータ授業もしっかりやらねば、と思った。一種の合わせ技、無言文体かなとも思った。第九では、いつもテノールが直ぐ
   隣であった。途中からテノールに、あわててベースに。常に相手にあわせる。赤信号、みんなで渡れば怖くない、というビートたけしそのものであっ
   た。教会では合唱の楽しさを教えてくれた。そして声の質はテノールと指摘され、第九も第二テノールに変わった。常に他人の顔色をうかがう癖
   が出来ていたので、合唱も一拍様子を見てから加わわった。楽譜通り歌うよう、指導受けた。元々和歌のためであったが、純粋に音楽として眺
   めつつ出来るようになった。大変感謝している。第九では、指揮者の真っ正面に位置するよう指導された。安心して合図と共に入り込められ
   た。しかし、光あった。特にカメラはいる場面ではなかった。翌日のT紙見て冷や汗ドット出た。私のみ口の大きさが異なっていた。この時のみ合
   図が無かった。
    経営コンサルタントの団体の経験を元に、全員参加の原則による、ゲームソフトを作成した。元々百人一首のプログラミングが添付されてい
   た。著作権法侵害であった。OHPも各自についていた。私のVTR歌会や作業手順等流すことが出来た。又、LAN可能であり、私から全員の
   CRTにメッセージ・プログラミング修正も出来る、という信じられない持ち腐れ 宝であった。誰でもいつでも全部見てもいいことにした。私の不器
   用なトロイ落ちこぼれの経験からであった。就職当日から即戦力になれるよう、毎回キー操作のテストを時間と点数双方の成績を表示した。
   期末にはフロッピーデスクを回収し、自動的に成績計算させるプログラミングした。当然各自の暗証番号を設定した。但し、乱数表利用するの
   で決して同じ問題は出ないようにした。ゲームソフトは、音楽科なら、プッチーニのマダムバタフライを、上の句 イタリア語、下の句日本語とinpu
   tする。20例作成後発表してもらう。正解・時間双方から点数表示される。成績評価方法その他注意事項は、毎回スイッチ入れたとたん、自
   動的に画面に出るようにした。同時に自動的に出席を記録されてしまう。代返を防ぐためである。右脳を徹底的に使用してもらうため、定性的
   判定のいくつかの中に創造性評価は100点満点を150点計上する、と約束した。いくら暇な私といえど、直ぐ完成したわけではない。各学生か
   ら要望の都度プログラミングを修正した。無言文体も含まれるのは当然の事である。
    (中国人留学生から、私に、日本語(標準語)で言ってくれ、という要望があった。太宰も方言から終生逃れられなかった、と妻は記載してい
   た。あの(bilingual)の太宰でさえ。そこでスイッチ入れてから電源切るまで全てマニュアル化し渡した。最後列は柱の影であったが、理論的には
   何百人いても可能ということになる。
    THE TAMING OF THE SHREWには感動した。高校生とは思えなかった。一期一会。これだけの舞台は二度と無い、と思い、翌年
   は見なかった。癪にさわったのは、隣の高校生が私よりも常に早く笑い出すのだった。字幕があるとはいえ、感心した。衣装・小道具に至るまで
   必要最小限、しかし何度も使用したかもしれないが、輝きは失っていなかった。何よりも、キャスチングがよかった。伝統。特に主役二人は宝塚
   男役に、いくら田舎といえど、ひけを取らなかった。完全に役に入っていた。・・・笑う時は有言文体。他は全て無言文体であった。
    ついでに大ホール改修前の宝塚を、冥土の土産に恥ずかしながら見た。天井桟敷であった。何気なく窓を見た。ちょうど外から蔦の絡まる外
   壁を写真に撮った場所であった。スターがキャーキャーという歓声の中入場する場所だった。近くば寄ってギョッとした。カーテンがぼろぼろだった。
   感動した。創立者小林氏の経営学を教えられた。おかげで華やかなラインダンスも舞台レビューも見た記憶がない。しかしBIG APPLEの発
   音の正確さに驚嘆した。基礎とは、眼に見えないところまでも訓練するのだということを。
  (4)神の発見(五木寛之・森一弘、(株)平凡社、’05年)
    P2 L5 五木氏は言う「・・・私は勝手にブッディストだと思っている。ブッダと一般に呼ばれる釈迦に深く共感し、その思想と生き方に帰依して
   きた。しかし、奇妙なことにいつも読んで感動するのは聖書である。・・・」太宰の言霊生成の謎は此である。太宰も感動したのに違いない。五
   木氏は現在も第一線で活躍しておられる。恐らくこの感動は、ある一定レベル以上の文学者(左脳と右脳・無言文体)でなければ共有でき
   ない、と思う。教会に行き、イエスキリスト以外関心持たず、イエスキリストのみを賛美したとしても、この感動は生まれない。interdisciplinary
   methodorogyだからこそ本質に迫れる。感動する。太宰も浄土真宗派である。タケに連れられ、地獄図を見て泣き出したほど感受性が強
   い。だからこそ、イエスキリストである。しかも反逆した。金木の民謡(太宰の妻)・即ち太宰を太宰たらしめた郷土である。又、このジョッパリ故
   に、世界に残れる(石坂洋次郎)。たとえ、ヘブライ語のイエスキリストであったとしても。更に、右脳の芸術性だけなら、20代で芸術が枯れるで
   あろう。左脳の古事記・日本書紀、イエス・キリスト等の蓄積あったからこそ、残れるのである。又、小野先生のように昼は青森県立図書館長
   として、左脳中心(東京大学 法学部出身者として、官僚をMANAGEMENTする天賦の才を遺憾なく発揮)、夜のみ太宰研究家として右
   脳中心、という生活を太宰は送っていない。生まれたときから終生、農作業や肉体労働は勿論、ホワイトカラーの生活も経験無かった(太宰の
   妻ー戦争中の皆戦場なのにぶらぶら、近所の小学生不思議に思う。)。故に、けじめ(夕方勤務が終了し帰宅)が経験無かった。この世もあ
   の世も、太宰にとって大した距離ではなかった。だからこそ、計算され尽くしたフィクションになれる。言霊生成できる。
  (5)南国に「あっ 雪だ!」
    今、オランダ戦4時間10分前、チームが一つになった瞬間と画面に出ている。4年前、日の丸を背負ったサッカーをテーマにして、6月分の歌
   10首を送った。そのため、斜陽館での小野先生の「英語」は記憶無い。斜陽館に記録があるし、太宰生誕100年祭に、小野先生が存在しな
   いなど、一体誰が想像出来ようや?あれから4年過ぎたことにある種の感慨を覚える。本来、大学卒業時に小野先生に記念に提出するべきだ
   った。今回も、「文体」という文言を探す内に、今日までになってしまった。しかし、結果的に、太宰の本当の苦悩はキリスト教ではないのか、と
   思うようになった。但、私は宗教に縁がないので、キリスト教ではなく、キリスト文明(経営学)からinterdisciplinary methodorogyでアプロー
   チできれば(出来るはずもないが)、と願っている。「太宰はイエスに面と向かって立っている。福音書を読んでいるというより、常に自分をその中に
   入れ込んでいる。」(赤司道雄 太宰治ーその心の遍歴と聖書 P363 L9 八木書店 昭和60年)となった。同期A氏からもらった本が出発
   点だった。聖書学を専攻とする著者であるので、重みがある。「津軽」には、聖書に関係ある言葉として、「愛」がある。これは山上憶良にも通
   じる。悲しみとは愛しみである(悲しみは憶良に聞け 中西進 光文社 2009年)と中西氏は解説している。余りにも遠回りした、と思うが、太
   宰の言霊生成の謎を巡る旅は続きそうである。
    同じように遠回りした経験がある。南国の雪が北国の雪とは異なるものだった。この一文はコンピュータ基礎理論をイメージしている。大昔、大
   學が全共闘に占拠された時があった。提出期限前、指導教授の指示通り(レベルは低いに決まってはいるが)一応完成し、浄書も一応終了
   した。これ程の悪筆は見たことがない、と浄書氏が苦情を言った。しかし、時間の余裕ができた。そしてこの余裕が心の平安(津軽・太宰)
   につながった。山あり・谷あり、否、谷の連続、今日のことに全力投球するだけの毎日があった。御恩返しなんぞ、考えるゆとりなどあるわけがな
   い。唯之で卒業は確保できそうだ!
    以前から私は願ってた。指導教授の美しき数式を、暇が出来たら、この頭の悪い私でも、数式に入り口から取り込まれ気がつくと出口に立た
   される、という手品を、私は味わってみたい。そう思いつつも、ほっとして例により、私はうとうとした。玄関を仕切って格安の部屋を作ってくれた大
   家さんの好意に、その玄関で私は横になった。南国の夕日は暖たかった。しかも指導教授の分厚い著書を枕代わりにして、これがいけなかっ
   た。その刹那、右脳に光りあった。つまらない誤差を私が口走ってしまった。指導教授は無言。私はあわてて単なる思いつきです、と言おうとして
   指導教授の顔を見た。私も無言になった。指導教授は眉間に皺を寄せていた。モンゴルの草原の風に指導教授の方法論のヒント・・・等が走
   馬燈のように走った。
    初めて指導教授と真正面から向き合った。指導教授はカントの方法論を土台としているが、私が授業で受けたコンピュータ基礎理論と関連
   があるのではないか、と妄想した。完全に眼が醒めてしまった。しかし、事務本部(本丸)以外は全て占拠されている。書き換えている内に提出
   期限が過ぎてしまえば、就職決まった意味がない。そこで本部に確認した。皆の顔つきが平常でなかった。全く関心がなかった様子であった。学
   長・学部長が行方不明、否、プールで学長が浮かんでいたとか。(実際は似た人、御老人が白いパンツで泳いでいたらしい、との噂)。それどこ
   ろでないという風であった。後は時間との戦いであった。朝食後、今日は曇りかと思ったら、夕方であった。ともかくも提出した。記録に残ればよ
   い、と思ったからである。アイデアはいいが、今一自信がなかった。同居の先輩に聞いた。一読後、ニヤニヤしながら言った一言。「反逆児」。は
   っと思ったが、提出期限は過ぎていた。今更大学に行こうが、本丸も落城していた。全体の論理的整合性は確保した。定量的分析・数字・結
   果は同一である。ただし、わかりやすく説明しようとして、指導教授と対比しながら、METHODOLOGYを解説した。勿論、己の独自など、無
   い物ねだりである。できの悪い頭を考えると永遠に不可能である。指導教授の真逆の方法論であった。それが帰納法的・descriptiveと称す
   る一見便利な、しかしやっぱり不便な所もある。雪合戦で会得した方法論でもある。単なるゲリラ戦と言ってしまえばそれまでだが。事務から指
   導教授からの呼び出し、と来た。極度の緊張で玄関に立った。指導教授は、「東京のどこか?中心部に近いではないか?(神谷町)、通勤
   は?等等」。想定問答集が全く無駄になった。ボートしている内に帰ることになった。玄関で謎のような言葉、「もう大丈夫」。そしてグッドバイと
   手を挙げ、「津軽」最後のシーンのような晴れやかな空気になった。長居の陸上競技場まできて、やっと落ち着いた。指導教授は競技場の中
   を走っているとか、本当だろうか、と考えながら。
    指導教授が心配してくれた就職先の、東京タワーを見上げる資料室で、全く同じ原書を開いた瞬間、重要なページが眼に飛び込んでき
   た。驚きの余りぴょんと跳び上がった。そのまま、ピョンピョンと係のベテランの女性の前にまで来た。何でこの本があるのですか?と私は興奮して
   尋ねた。女性は気の毒そうな顔をしていた。
    程なく又事務から連絡あった。指定の時間に大學に来てくれ、とのこと。行ったら、知らないおじさんといつもの事務責任者とが立っていた。新
   学部長だった。2人だけの卒業式だった。もう一人は私の生活面を親身になって面倒見てくれた。言語気候風土の異なる南国で卒業できたの
   は彼のおかげだった。私と異なり最初から優秀であり、将来を確実視されていた。そしてそのとおりになった。私は早く抜け出したかった。いつ全共
   闘がゲバ棒持って襲ってくるかと、気が気でなかった。彼も外をしきりに気にしていた。彼は別のテーマでいるらしかった。それが「あっ、雪だ!」。
   皆一斉に外を見た。上からスーット雪のようなものが糸を引いてきた。雪と言うよりは雪の結晶みたいであった。
   広義の雪であろう。北国の者には、雪とは地吹雪のような真っ白になることを意味する。まさか、全共闘が
   屋根の上で花咲じいさんよろしく、灰を撒いているわけでもあるまい、とあらぬ疑いを持ったりした。
     あの感動は忘れられない。

第3章 言霊
 1 始めに
  (1)苦しいから旅に出る
    太宰は「津軽」冒頭「・・・苦しいから旅に出る」と言っている。「苦しい」理由を消去法で消してゆくと、理由がなくなってしまった。苦しい理由
   とは? ライバルイエス・キリストだけがその理由であろうか?2000年前のキリストはヘブライ語で説教した。2000年間のキリスト教を中核とし
   たキリスト文明ではなかろうか?太宰が「津軽」で歴史書を引用した瞬間から単なるキリスト個人からキリスト文明へと大きく舞台が転換した。
   太宰が「津軽」で歴史書を引用している時の脳内周波数、即ち無言文体を検証してみたいものである。
    太宰は人を喜ばせるのが好きだった、と言われているが、猛暑日に「あっ、雪だ」とは言えない。同様に、第2章 (5)南国に「あっ、雪だ」と言
   われても喜ぶ人がいるかどうか、疑わしい。まして、たった2人だけの卒業式である。故松下幸之助氏によく似た、山奥の、戦後満州から引き
   上げてきた開拓団の小学校校長先生から卒業を認めてもらう。その時、窓に雪がないと夢は完成しない。私は、夢を見ているようだった。否、
   私は、夢の中に生きているような人生だった。時々、私は目を覚ます。それもとんでもない時に。私は、指導教授に、最初に手紙をさし上げた
   時、蛇足として、秀吉辞世を書いてしまった。その歌は、最後「・・・夢のまた夢」で終わっている。
    私は、あの「あっ雪だ」氏に歌を送った。

      スコットランド、霧濃くむせぶ声聞の息すら我はアーナンダのごと

    ただし、「潮音」の指導者氏は、「息」を「呼吸」に(息は、息子と間違えられるから)、「アーナンダのごと」を「アーナンダたらむ」と添削指導して
   くれた。送った歌が手練にかかった歌なのか、私の素人くさい歌だったのか、今となっては、私は、特定できない。後日、「あっ雪だ」氏は「迫力あ
   りすぎる」と、笑いながら。言い訳を許してもらえば、私は歌に山上億良の「左脳」を残したかった。
    「潮音」6月号(昭和50年6月1日)には、残念ながら取り上げられなかった。分かりやすいごく普通の歌が掲載されていた。「あっ雪だ」氏は
   大変な趣味人ではあった。しかし歌詠みとまではいかないはずだった。実験的な歌は、右脳トレーニングに訴えるような歌は、日本語の制約も
   あり、難しい。あれから幾星霜、私は未だに素人の域を脱していない。
    尚、東京に転職中であったので、当然、私は、三鷹市の禅林寺に詣でた。第1章に記述したとおりである。「潮音」9月号(昭和50年9月1
   日)には、

     鴎外の墓へ小さく掘り行かむ太宰のトンネルにむしあつさ無し

    と掲載された。著作権は潮音結社にあるので、これで申し分無いと私は思う。「太宰の」は「紅き」で私は提出した、と思う。「潮音」の指導
   者氏は、添削はしなかった、と思う。寧ろ、歌会出席者に紹介した。しかし、太宰に遍く関心を持って貰うためには、より左脳で理解してもらうた
   めには、潮音結社は上記が良いと判断した、と思う。「素人の直感を許してもらえば、「津軽」の「紅き」トンネルの意味として私は歌会で発表し
   た。左脳と右脳の使用方法は難しい。
    当然、「あっ雪だ」氏は輝かしい未来に向け、アダム・スミスを研究する為英国に留学した。
 2 アダム・スミス問題
  (1)論理的矛盾
    アダム・スミス問題とは、同氏の主著、「道徳感情論」と「国富論」とは、論理的矛盾がある、という事である。しかし、100年間の論争の
   後、論理的矛盾が無い事が証明された。決定的証拠が「グラスゴウ大學講義」(編者、高島善哉・水田洋 鞄本評論社 昭和22年11
   月 弐百参拾円)である。アダム・スミスが1762年から1763年、或いは1763年から1764年に同大学で講義したノートであった。原書
   は、Lectures on Justice,Police,Revenue and Arms,delivered in the University of Glasgow by Adam
   Smith,reported by a student in 1763 and edited with an introduction and notes by Edwin Cannan,
   Oxford,at the Clarendon Press,1896 (アダム・スミス グラスゴウ大學講義 正義 治政 国家収入、および軍備につい
   て、アダム・スミスがグラスゴウ大學でおこなった講義。1763年に一學生によって筆記され、ここにエドウイン・キャナンが、序説および註を附して
   編輯したもの)である。
     学際人であればあるほど(アダム・スミス哲学論文集 水田洋ほか訳 名古屋大学出版会1993年、P111 古代物理学、P203 音楽
   舞踊イギリスの詩形とイタリアの詩形等)、論理的一貫性を保つことは至難の技である。「見えざる手」は上記著書に各1回しか登場していな
   い。五木寛之氏はインビジブル・ハンド・オブ・ガット(P6 L6)、大内兵衛訳国富論(第4編 P51 L14岩波書店)・堂目卓生(アダム・スミス
   「道徳感情論」と「国富論」の世界P170 L14,P88 L15中公新書 2008年3月)の両者共にインビジブルハンドとして表現している。正に、
   五木寛之氏は「神」を発見した。
    以上より、無言文体は、何も日本独自のものではない。太宰は「津軽」でキリスト自身よりも、キリスト文明に挑戦した。死ぬ理由はなくな
   るのではないか?
  (2)経緯
     太宰をT君と最初に議論した時(第2章)のT紙を、私は特定できなかった。しかし、彼と議論しながら、と言っても、私はただ単に2乃至3日
   前に読んだT紙を機械的に言っていただけだった。そうしてその時、私は右脳に光を感じた。それが雪合戦だった。
    第2章で帰納法的に記述した結果、小野先生の最初の著書「太宰をどう読むか」の讃美歌に私は戻って行ってしまった。その讃美歌の末尾
   「・・・平らかなれとは願ひまつらじ」とあった。映画寅さんのように笑みて漂泊するのではなく、イエス・キリストに正面から対峙する事だった。
    しかし、私の貧弱な頭脳では荷が重すぎる。又、最初から経済的側面からアプローチする事に決めていた。即ち、萩原葉子が太宰の一文を
   絶賛した(第2章)。あの言霊生成の謎を、私は、短歌に応用したいのである。つまり、無言文体、太宰の脳波を、私は、解明したいのであ
   る。22世紀末までには何とかなる、と私は楽観視しているし、商品名(ダサイなる無言文体)も決めてしまっている。しかし、太宰関係者が著作
   権法侵害等で私を訴追するかもしれない。尚、「なる」とは、「なる」という意味のHebrewの、動詞ハーワーの変形で四文字語(テトラグラマト
   ン)で、神が「わたしは自分がなるところのものとなる」とモーゼを通して言った(出エジプト三:44 イエス・キリスト 奇跡の人 津山千恵 P331
   L10〜L12)、ことから由来している。失敗した場合、詐欺師になるので、長部氏のトリックスター説を用意してある。又、二十二世紀末まで、
   私が生きているはずがない。
    五木寛之氏が「神の発見」を世に出し(第2章2(4)、アダム・スミスの「見えざる手」を紹介した。キリストの宗教的面のみならず、キリスト文
   明「洋魂洋才」が大事だ、と同氏は主張している。経済(市場原理・自由競争等)のシステムを土台で支えているのは、見えざる神の手に対
   する深い信頼である。
    米国大統領宣誓式でもバイブルに手を置いて宣誓している、それがキリスト文明である、と同氏は言っている。オバマ大統領の時、ささいな
   読み飛ばしを大統領夫人は「クスリ」と笑った。大統領はそこの部分を後でやり直した。
    五木氏は言っている(同書、P5 L14〜P6 L12)、『・・・民主主義の土台である人権は、天賦の人権と呼ばれる。(尚、ジェファーソンの
     「独立宣言」から、「天賦の権利」を、神の与えたもうた人間の権利とし、人間の権利は人間が生まれながらに持っているのではなく、
   神が、一人ひとりに授けた権利を「天賦の権利」と五木氏は言っている)。さらに、同氏は天賦の人権とは何か。それは神が与えたもうた権利で
   あり、デモクラシーが神の意識なしには成立し得ないことは、アメリカ大統領の就任のセレモニーを見れば、一目瞭然である。聖書抜きでは、大
   統領の就任式さえ行えないのだから。・・・「神に対して」真実を述べると誓うのである。すなわち西洋・欧米の近代文明とは、基本的にキリスト
   文化であり、それこそが洋魂と呼ばれるべきものだろう』。
    平成22年5月28日(金) 神の発見 五木寛之VS森一弘 兜ス凡社 2005年、と私はノート1ページに刻みつけた。それまで、宣伝
   のチラシの裏とかに気の向く侭に私は書き散らしていた、NHKTV刑事コロンボよろしく、右脳に光あった時。青森のパチンコ屋の裏紙は白紙が
   多かった。(旧歌会氏は見るに見かねて津軽こぎん刺しのノート(津軽の百姓が創造した高度に芸術抽象化された幾何学模様)をプレゼント
   してくれた。あまりに勿体無くて神棚にまつってしまった。)
    実際の月日は5月3日(月)だったが、月日だけ記入した。父の23回忌の日であった。すべて私の左脳で十分だった。その左脳の何処かの
   赤い糸か、白い糸とかは知らねど、玄関を仕切った格安の部屋に、即ち、鰻の寝床に、私がみんなみの夕日差し込みくるまれし時、私の右脳
   に光あった。枕は指導教授の学士院賞受賞著書だった(第2章2(5))。
   
          まどろみて夢発見せし玄関に南(みんなみ)の陽(ひ)は深く脳射る

    第2章2(5)で、満杯で断られたが、同居氏の関西流交渉術と大家さんの好意で格安の部屋を、私は提供された。その大家さんの奥さん
   が5月27日死去。万葉集にも登場する和歌ノ浦(たった一度両親を案内した、最低限の親孝行)の、信長を苦しめた雑賀崎(鉄砲隊)の旅
   館から電話あった。昔の声で4人が周波数を流してくれた。懐かしさがこみ上げてきた。葬式ではないけれど、来し方奥さんのこと等を偲んでい
   る、とのことだった。月影の照り映える海の、万葉の青と共に大昔の青春が蘇った。奥さんは転倒後入院し3日目にお亡くなりになった、と言っ
   た。勿論私のノートとは何の因果関係はない。ただ、生前希望通りの大往生だった、とのこと。母の弟(第2章2(1))のこともあり私は救われる
   思いだった。・・・その奥さんから私はカルチャーショックの洗礼を受けた。私はこれが関西なのだと実感した。(だから、宝塚歌劇大劇場で、蔦の
   からまる壁の最上階の、一階の華やかな男役スター入場口を見下ろすボロカーテンに私は感動した、経営者の左脳と右脳とに。あの感動を、
   みそひともじに私が記号化するなんぞ、不可能であろう、私の貧しい右脳では。)玄関でも、ともかくも私は転がり込んだ。最初転入の挨拶に
   言った際、奥さんは始末(宣伝の裏紙の再利用法等)を言った。色白の知性あふるる奥さんが、あっけらかんと、長屋のがたびしなる戸を開け
   て出てきた人ならともかく。最後2人だけの卒業式後、私が挨拶に言った際、奥さんは涙声で「よう頑張りなはった}と明瞭に仰られた。

           「神の発見」の前日に身罷りしとふ逆流するは何我が脳内を

   日本人に有名な北海道大学クラーク博士の「青年よ、大志をいだけ!』という名言がある。銅像はキャンパス内にあり修学旅行の定番でも
   ある明治維新後、現在でも若人の心を奮い立たせた。上記第2章(5)南国に「あっ、 雪だ!」氏、 即ち 創価大学副学長 北政巳氏そ
   の人であり、同氏の著書「御雇い外国人ヘンリー・ダイアー」(P210 L7〜L14、 P211 L6〜L7、 P212 L6〜L12、 P213 L13〜
   L15、)2007年10月、兜カ生書院)に、同博士は近代日本史に「北海道酪農の父」として日本史に定着した。しかし、クラーク博士がうし
   ろ髪をひかれる思いで遺した言乃葉は、「BOYS BE AMBITIOUS FOR THE GOD!」であるというのだ。何故神が削除されたか。
   誰が日本の、当時の日本の政情を考慮し、キリスト教に遠慮したか。それは内村鑑三達であるという。確かに英和辞典でAMBITIOUSを引
   くと、どうしてもBOYSと文体・脳波(無言文体)の周波数が合わなくなる。
  (3)青森県新郷村にはキリストの墓がある(第2章)2(3)
    既述したように、「大正時代の青い目の人の写真をNHKTVで、私がモノクロでなく見たとしても、その御仁は西洋画の青白きインテリのキリス
   トとは似ても似つかわしくない農夫のような風貌だった。」同様に、私がA短大の図書館の聖書を読んだ時、殊勝にもその時読んだのだ。キリス
   トは逞しい農夫の、宗教的経営者の印象を私は得た。
    いかなる宗教者でも、天に召されれば、その宗教は下火になる運命を持っている。しかし、何千年も永続し、かつ世界にその宗教が広まり、
   なおかつ文明として定着した謎とは何であろうか。その謎を解明する要因のひとつとして、学際的に考えて、経営学(組織論)からの接近も有効
   と思う。既述したように、私はA短大(キリスト系)がC短大よりもより経営学(教会経営・学校経営)に近い、のではないかという光が右脳に差
   した。E・ルナンの著書にめぐり合った。同書では、下記のように言っている。イエスがなしとげたもっとも根本的な業績は、彼の周囲に一団の弟
   子を組織し、その人達にイエスを限りなく愛する心を吹き込み、その心に自分の教養の種をまいたということである。(イエスの生涯  E・ルナン
   人文書院 忽那錦吾・上村くにこ訳 2000年8月) 以下、より詳細に紹介する。
    同書 P202 L6  教会の芽生え
   「教会の萌芽はこの頃から始まっていた。結び合った人々(エクレシア)の1つに関する豊かなイデーは、まさにイエスのものであるようだ。愛によっ
   て結び合うこと、それこそ霊を現存せしめる、というまったく理想主義的教理に力を込めて、「わたしの名の下に集まるときは、わたしは必ずその中
   にいる」と告げるのだった。彼はむすび、ほどき、罪を許し、懲戒し、権威をもって勧告し、願いが確かに叶えられるように祈るという、これらの権
   利を教会に託した。〜P203 L6「彼は書き記さなかっただけでなく、聖典を編もうと望む初期宗派の考え方に反対であった。」
    P294 第23章 イエスの事業(わざ)の根本にあるもの
   世界の片隅のかすかな声
   P294 L3〜L6「イエスは決してユダヤ教より外に活動を広げることはしなかった。ユダヤ教の正統派から侮られていた人々に同情し、異教徒を
   神の国に入れると説き、一度ならず異郷の地に住みさらに異教徒に好意を表して人々を驚かした事もあったが、彼の生涯の活動は、生まれた
   地の閉ざされた小さな世界に限られていた。
   P295 L7〜L12「イエスへの愛から始まった。イエスがなしとげたもっとも根本的な業績は、彼の周囲に一団の弟子を組織し、その人達にイエス
   を限りなく愛する心を吹き込み、その心に自分の教養の種をまいたということである。・・・彼の教義にはすこしも教条的なところはなく、彼はそれ
   を書こうとも、書かせようとも思わなかった。・・・彼の人格を慕い愛するゆえに、弟子となった。   
   P295 L13「イエスの残したものは、説教を聞いた人々からの聞き書きと、とりわけ模範となった彼のモラル、それに彼の残した印象、これだけで
   ある。」
   P296 L9〜L11 「心清きものの即位、美の創始 だれでも神の国に参与する権利がある、とイエスは宣した。宗教は、こののち原則として国
   家から分離する。」
   P296 L15〜P297 「キリスト教は、イエスという一庶民の大胆な主張から生まれ、民衆の前に花を咲かせ、だれよりもまず民衆により愛され
   讃えられた。その生来の特徴は決して消えることはないだろう。之は革命最初の華々しい凱歌、民衆感情の勝利であり、心清きものの即位、
   民衆の心にかよう美の創始だった。」
    だからこそ、だからこそ、西洋では2000年間にわたり、神学論争の組織(経営体=教会)を発展させることができた。だからこそ、アダムスミス
   問題を100年間議論し、最終的に決定的証拠を元にアダムスミスの論理的一貫性を正当化できた。これがキリスト教的文明でなくしてなん
   であろうや。また、万葉集・山上億良にも私はその論理的一貫性の匂いを感ずるのである。
    しかし、日常、キリストを私は意識しない。日本には800万もの神様がいることになっている。A短大ではさすがにキリスト教を私は意識した、
   キリスト教を含む学校経営方法である。
    だから、既述したように、キリストが組織した弟子たち、キリストの意思を継承した集団、キリストを中核とするキリスト文明、即ち経営学に私
   はたどり着いたのであった。それは小野先生が学長だったC短大から、左脳に業務内容の意思決定過程が消えていないうちに転職したばっかり
   だった。幸運だった。私は経営学的に比較できたからである。C短大で私は理事長(経営者)の運転手もした。運転中、理事長夫婦の会話
   は、知性とはほど遠い不動産の査定であった。指導教授の経営分析、安全性に該当する。左脳右脳による、その分析はさすがであった。戦
   後、焼け跡闇市から、身を起こし短大までこぎ着けた。指導教授の収益性の分野が活躍したと思う。理事長から競技用の算盤を教えて貰っ
   た。勝負の空気が充満していた。だから、経営者としては成功した。総合優勝は1回だけだったが、私はコンピュータの時代を予感するようになっ
   た。だから後年コンピュータの前に立ったとき、私は全知全能の神に跪いている奴隷の気分だった。成功と引き替えに理事長は前立腺ガンで入
   院した。父を癌で亡くしている私は、青くなって御見舞にすっ飛んでいった。理事長は元気溌剌野性味ァフルル顔をしていた。私は拍子抜けし
   た、不謹慎ながら。
    太宰の「津軽」の脳波は単なる青森県紹介ではない。
   まして観光案内ではない。なぜなら、苦しいから旅に出るのである。
    「見えざる手」は無言文体に直結できる。私は喉から手が出るほどであった。青森県立図書館に「グラスゴウ大学講義」があった。日本経済
   新聞2007年1月と2月の記事を私は知っていた。何よりもNHK TV「ハーバード大学Michael・Sandel教授の正義論(JUSTICE)」に感
   動した。
 (4)マイケル・サンデル(Michael・Sandel)教授の弁証法
  @しかし、無言文体の定義、私自身の生体実験、弁証法が許されるなら(サンデル教授 これからの「正義」の話をしよう 早川書房 20
   10年、鬼澤忍訳「第1章 正しいことをする 道徳のジレンマ P42 L9〜L14)。引用文中、道徳を太宰(多少飛躍するが、内面にある神
   の代理人(胸中の公平な観察者)堂目卓生著 アダム・スミス 「道徳感情論と国富論の世界」 中公新書 ’08 P59 L13)、原則を無
   言文体、壁の影を無言に置き換えていただければ、私は幸いに思う。「・・・プラトンが言いたいのは、正義の意味や善良な生活の本質を把握
   するには、先入観や決まりきった日常生活を乗り越えなければならないということだ。プラトンは正しいと思うが、それは一部に過ぎない、洞窟の
   声にも聞くべきところはあるのだ。道徳をめぐる考察が弁証法的プロセスを踏む・・・つまり具体的状況における判断と、そうした判断の土台とな
   る原則のあいだを行ったり来たりする・・・なら、いかに偏っていて素朴なものであろうと、たたき台としての意思や信念が必要となる。壁の影を無
   視する哲学は、不毛のユートピアを生み出すにすぎない。」キリスト(文明)に本格的にとりかからねば、との思いが強まった。

            太宰の発見せし神キリストに我も真向ふる弐拾壱世紀

  A太宰の無言文体・歴史書引用部分は、日本史の津軽の歴史である。太宰が「津軽」を短期間で完成させた。それは、太宰の幼少から
   の、特に旧制中学の歴史認識、即ち、我々青森に長年居住する者の歴史観とを共有する。太宰の歴史書引用執筆時の、左脳と右脳との
   脳波の周波数、将来、太宰と同じような文体創造できる実力ある人の、執筆時の脳波を測定する(可視・可聴化)。文体が限りなく太宰に
   近いと認定される、とする。その可視化・可聴化されたソフトが、太宰の言霊生成の謎解明の鍵の一つになりうる。
    又、文章と文章との空間(読点と句点)等も文字化されていないので無言文体に入る。その文字化されていない最大のものがキリスト文明
   である。太宰研究者が、キリストに太宰は真正面から対決・苦しんできた、といっている。しかし、この2000年間に何故キリスト文明が世界
   中に広まったのだろうか。それが、アダムスミス・見えざる手(100年論争) 即 キリスト文明、と考えるのも一つの解決方法であろう。
    太宰の「津軽」無言文体を分析する前に、太宰が何故日本の歴史書を引用しようとしたか、考えてみたい。言霊生成の謎解明前に、日本
   語の創造、日本民族はどこから来てどこへ行くのだろうか。太宰は考えただろうか。太宰にとり「津軽」は100年に一度、否、数千年に一度の
   天からの「始めに言葉ありき」の瞬間だった、と思う。グーテンベルクの発明以来、印刷された文章には、句読点から次の文章までは、空間・無
   言である。万葉集・定型では上の句下の句の中間は無言である、一応そうなっている。アダム・スミス主要2大著書が論理的に矛盾している
   なら、唯単 に独立している。その空間は無言、とも言いうる。その無言を100年かけて「有言」にした。それが以下の著書であった
 (5)青森県立図書館の「グラスゴウ大学講義」
  @発見の経緯
    第3章 2(1)で記述したように、上記著書は、アダム・スミスがグラスゴウ大學でおこなった講義を1763年に一學生によって筆記された事に
   なっている。アダム・スミスが1762年から1763年、或いは1763年から1764年に同大学で講義したノートであった。いわゆるアダムスミス問
   題解決の決定的証拠となった。100年間の論争というから、まずそれに驚いてしまった。エドウイン・キャナンが、序説および註を附して編輯した
   のが1896年である。133年の時間を要していることになる。編者、高島善哉・水田洋 昭和22年11月出版 弐百参拾円で発売。太宰の
   死亡の前年である。当時230円というと大金と思われるが、よくぞ青森県立図書館が購入してくれた、と感謝している。当然小野先生は図書
   館長ではなかった。太宰が何故終戦後の若者に熱狂的に受け入れられたか、という一考察に老婆心ながら、次の一文を付加する。譯者小
   序 P1 L2「・・・この草稿は太平洋戦争の勃発直前に着手され、・・・協力者水田君も南方より饋還することができ・・・」とあるように21世
   紀の現在からは伺うことができないような雰囲気ではある。
      更に本書の意義として、P1 L10「本書がスミスの二大著書、すなはち道徳情操論(The theory of Moral Sentiments)と國富論
   (An Inquiry into the Nature and Causesof the Wealth of Nations)とをつなぐ媒介的意味をもってゐるということであ
   る。」といっている。解説P1 L2 一、アダムスミス問題で、「・・・大体定説的解釈が決定した・・・」が上記問題の理論的意義が消失したわけ
   ではない、としてP2 L1「論争の焦点は、道徳情操論と國富論の間に矛盾があるかどうか・・・道徳情操論の原理は利他的な同情で、・・・
   國富論の原理は利己心・・・」である。そして、1759年出版の道徳情操論と1776年出版の國富論との間にスミスのフランス滞在という事実
   があり、スミスは利己心だけでなく経済学もフランス思想から得たのではないか、と思われていた。しかし、P3 L4「決定的意味を持つ・・・グラス
   ゴウ大學講義の発見であった。この講義が行われたのは、キャナンのすいていによれば、1762年から3年あるひは1763から4年の学期でフ
   ランス旅行前・・・内容も國富論の萌芽もみられ、道徳哲学者のみならず、経済学者でもあった。・・・スコットの発見した國富論の草稿によっ
   ても立証された。
       尚、同様のことは以下にもある。全体の流れを知る上で参考までに引用する。グラスゴウ大學講義以外に同種の他の著書があるというの
   だ。アダム・スミスの自然神学 田中庄司 1993年 お茶の水書房 P280 L4 アダム・スミス問題に於いて、
   P280 L15〜P281 L4 Aノート(1978年公刊・法学講義A ノート)は Bノート(グラスゴウ講義)では概説的な形でしか
   知られ得なかったスミスの「正義論」、それを根幹とするスミスの法学の内実を明確化しただけでなく、それを契機とする法学研究の進展は
   「感情論」倫理学とその課題の展開としての法学→治政論→国富論関係の明確化をも可能とし促進することになった、と記述して
   いる。更に、スミス法学の内実が具体的に知られるようになった結果、スミスが法学講義に於いて依拠していたグロティウス以来の近代自然法
   学、とりわけプーフェンドルフ→ロック→スミス関係の認識が大幅に進展した。その次第は、最近のホントの研究に象徴されるように、20年ほど
   前までは消極的・否定的に評価されていたプーフェンドルフ→ロック→スミス関係の研究が正当化しつつある事実からも傍証されるが、こうした
   評価の変化の根本理由としては、自然法の本質認識の深化が考えられる。
    又、(P263 L9 五 みえない手の論理(「道徳感情論」のみえない手は、自然の必然法則、ないしその起動因としての目的因を意味す
   るものであった。)(P289 L12 「天文学史」以降のスミスの一貫した基本テーマは、「見えない手」の理論化にあり・・・)・・・(P289 
   L17・・・みえない神の手に導かれる人間の行為の法則を経験科学的に分析しようとした・・・)と記述している)。
  A上記同書(グラスゴウ大學講義) 解説 P30 七 スミスの体系に於ける講義の位置 即ち、第一に、同講義は、道徳と経済との中間
    の、法の領域をあらはしてゐる。第二に、自然法の経験化の過程をあらはし、国富論が理論・歴史・政策の統一だとすれば、理論を實践的
   な全体認識へ媒介する歴史の項をあらはしている。従って、スミス経済学が市民社会の体系的把握として成立してゆく過程を示すものであっ
   て、この意味で講義は、道徳情操論と国富論が矛盾しないのみならず体系的連関を有する事をあらはしている。第三に、それにもかかはら
   ず、講義と国富論との間には、経済学的内容に置いて、かなりの隔たりがある、と解説している。たとへば生産と消費の問題のごとく、市民社
   会の体系的把握の見地から理解できたが、それでもなほ、若干の点において、フィジオクラットの影響は明瞭である。しかしそれでも、フィジオク
   ラットから借りたとしても、そこからスミスが出発してきづきあげた市民社会の体系的把握は、はるかにフィジオクラットに勝る、と解説している。
  B上記同書(グラスゴウ大學講義) 編者(キャナン) 序説( P37) 第1章 講義筆記の由来(P37) P38 L5〜1773年4月ロンド
   ンに向け出発するにあたり、アダム・スミスは彼の著作に関する遺言執行人としてゐたヒュームに、「萬一の場合に彼の原稿の処分につき指示を
   興えた。すなはち國富論の草稿以外・・・机底あるひは私の寝室にある戸棚のガラス折戸の内部にあるすべての未綴原稿を、・・・約十八冊
   の二つ折版原稿綴りをも合せて、とやかく吟味立てしないで破棄されんことを私は望む。」と述べてゐる。「朝友人が彼(スミス)を訪問した時(17
   年前と同様原稿綴りは戸棚にあった)、彼(スミス)は床についていた。しかし、P40 L7〜彼の病状は非常に悪かったので、夕方になって小康を
   得るまでは、全く彼(スミス)にはどうすることもできなかった。かういふ事情の下では、何よりも自然の結果として、彼(スミス)がその来訪者に頼
   んで草稿を戸棚から取り出させその寝室の彼の眼前・・・でただちに破棄させることになった・・・。かうして草稿は消失してしまったので、その後三
   世代の間、我々はドウガルド・ステュアートが、講義の全部もしくは大部分を自ら聞いたと思われるヂョン・ミラーJohn Millarから入手した講
   義の説明で、満足せざるをえなかった(HISTORICAL VIEW OF THE ENGLISH GOVERNMENT p.528 および Rae, L

   fe of Adam Smith,pp 43。」すなはち「スミス氏がこの大學へ初めて就職して、論理学の教授に任命される・・・約1年たって、スミス氏
   は道徳哲学の講座に選任された。・・・内容は、第1部・・・自然神学、第2部・・・倫理学(後にその「道徳情操論」において公にした、諸学説
   から成ってゐた、第3部・・・徳性の内 正義 justiceに関する部門を取り扱った・・・」。1895年4月21日、私(キャナン)がオクスフォード・マ
   ガジーン Oxford Magazineの編集者と・・・たまたま初対面の弁護士チャールズ・マコノキー氏Mr.Charles Maconochie が偶然そこ
   に居合わせたが、彼は即座に、自分は法学に関するアダム・スミスの講義の写本を持ってゐる、・・・この草稿は・・・縦九インチ、横七インチ、厚
   さ一インチ八分の一、・・・綴り字法、筆跡または紙質の特徴から見ても、草稿がその題紙に附されてゐる日附すなはち一七六六年よりも後の
   ものでなからうかと疑ふべき理由は少しもない。・・・マコノキー氏は草稿が彼の所有に帰した次第について、・・・エディンバラ ノーサン バーラン
   ド街六十五番地 一八九六年六月十二日 キャナン氏ヘ(P46 L12)「まことに残念ですが、アダム・スミスの講義の草稿がどこから私の大
   伯父のジェームズ・アラン・マコノキーJames Allan Maconochie の手に入ったか、その出所を調べることはできませんでした。・・・彼か、
   彼の父である初代のメドーバンク卿 Lord Meadowbankか、または二代目の、同じくメドーバンク卿と名のった裁判官である彼の兄か、その
   うちの誰かがノートをとって、それが後で写本にとられたものであらうとは思われないのです。そこで私にはどうも、その本が競売かまたはどこか他
   の場所で購入されたにちがひないと思われます。・・・弁護士でありオークネーの州長官 Sheriff of Orkneyだった ジェームズ・アラン・マコ
   ノキーは、独身のまま一八四五年に他界しました。彼の蔵書の多くはまだメドーバンクにあります。この百三十年の間に、その領地の所有者の
   うちには、二人の裁判官と一人のグラスゴウ大學法学部教授があり、またその家族のなかには他に数人の者が、ジェー・エー・マコノキーと同じ
   く、法律関係の職業についてゐたのですから、その蔵書には法律書が澤山あつまってゐたのは当然のことでした。これらの非常に多くの書籍は、
   若干の非常に大部のものを含んでゐて、時折、屋根裏部屋の床の上にうづたかく積まれてゐたものです。そして私が弁護士の資格を得る直
   前の一八七六年に、私にとって有用だと思はれる書物をそこから持出してもよいといふ許しを得ました。私は多くの本のなかでも特に問題の草
   稿を取出し、その日からずっと草稿が私の手中にあることとなったのです。    敬具    チャールズ・シー・マコノキー」と結んでいる。
     (P48 L9)「この草稿が浄書であって、講義のときにとったもとの筆記でないことは、第一に、アダム・スミスが一七六四年一月に教授の職を
   去ってゐるのに、その表題の頁の日附が、一七六六年となってゐることから知られる。第二に、その字体が綺麗で達筆であり、・・・第三に、誤り
   の若干が聴き誤りではなくて明らかに読み誤りから生じたもの・・・この浄書が、もとの筆記者によってされたのでないことは、次の事実によっても
   知られるのである。すなはち、もとの筆記者は、才能もあり聡明な人であったにちがひないが、この書き写しは、自分の書いてゐることが一体何
   であるか時折わからなくなるやうな人の手になったものであることが明瞭である。・・・文章の意味におかまひなく、’ship’を’shop’とし、’coi
   n’を’corn’としてゐる。・・・文章や段落をまちがった場所で分けて、論述を無意味なものとする。その上、どこか手のこんだ、しかも特色のな
   い筆跡は、大學をちゃうど終へたばかりの青年といふよりは、むしろ相当の年輩の専門の筆耕ではないかと思はせるものがあるのである。」と編
   者は分析している。

  C上記同書 第2章 講義筆記の価値(P55 L12)
    「一大学生によってつくられた講義の筆記を刊行するのが、正しいかどうかといふ疑問がおこるのは、もっともなことである。講師の明らかに永
   遠不朽な思想が、彼の生徒達の心や筆記を通過するとひどく低調なものとなってしまふのが普通である。しかし、結局、古代の、もっとも偉大
   な教師達にして、その口述を聞いた弟子達の残した記録によってのみ、その学説が我々のところまで伝へられたといふものは、その数一人に止
   まらない。もし、かやうな方法で伝へられたものをすべて却けてしまふとなると、哲学においても、宗教においても(P56 L4)、ある非常に大きな
   間隙が残されざるを得ないだらう。いまの場合としては、我々はその弟子なる人が忠実であり、聡明であったことを知ってゐる。我々は彼の作品
   の正確さを判断するのに、とてもなみなみならぬ手段をもってゐる。そして、その作品が、速記といふ武器を持つ近代の筆記者をさへ羨望せしめ
   るほどに、峻厳な吟味にたえるものであることを知ってゐる。ここでわざわざ例をあげる必要はないが、読者が試みに、國富論からの百を数える
   引照や、註に記された四百といふ他の引照のうちから、二三のものを調べるだけの労をとられるならば、この点については容易にまんぞくしていた
   だけることと思ふ。」
    以上より、編者(キャナン)はアダム・スミスのみならず、もっと深く考え、古代の哲学者や宗教家(当然イエス・キリスト)にまで左脳と右脳との、
   脳内周波数範囲を拡充している。特に太宰の無言文体を考えるならば、イエス・キリストは右脳に訴える宗教的直感を、イエスの周囲に直弟
   子達を経営学的に組織し、英語を話したわけでもないが、英語圏の民族(アダム・スミスで言えば英国)にも「その口述を聞いた弟子達の残し
   た記録によってのみ、その学説(聖書)が我々のところまで伝へられた(同書 P56 L2)」。従って、終戦後の混乱した下降性の日本で、若者
   を熱狂させた太宰は、ライバルを イエス本人と認識するのではなく、五木氏の言う、キリスト文明こそ真のライバルとするべきであった、と思う。こ
   れこそが、太宰のみならず、戦後の若者達と共有した「無言文体」そのものである。次に具体的内容・論理的証明を下記に紹介する。
 (6)堂目卓生著 アダム・スミス 「道徳感情論」と「国富論」の世界 中公新書 ’08 3月25日初版
  @上記同書 第1章 秩序を導く人間本性(P25)
    1 「道徳感情論」の目的
    スミスがグラスゴウ大學で道徳哲学の講義を行っていた時期に書かれた書物である(L4)。主な目的は、・・・社会秩序を導く人間本性とは
   何かを明らかにすること。といっている。
    2 同感の仕組み(P27 L8)
       「道徳感情論」は次の文章で始まる。「P27 L10 人間がどんなに利己的なものと想定されるにしても、明らかに人間の本性の中に
   は、何か別の原理があり、それによって、人間は他人の運不運に関心を持ち、他人の幸福をーそれを見る喜びの他には何も引き出さないにも
   かかわらずー自分にとって必要なものだと感じるのである。この種類に属するのは、哀れみまたは同情であり、それは、われわれが他の人々の悲
   惨な様子を見たり、生々しく心に描いたりしたりするときに感じる情動である。われわれが、他の人々の悲しみを想像することによって、自分も悲
   しくなることがしばしばあることは、明白であり、証明するのに何も例を挙げる必要はないであろう。(「道徳感情論」第1部第一編第1章」)。
    次に、もう一人の自分を紹介している。P35 図1−3 自分の感情・行為に対する判断(P35 L6〜L9)の解説をしている。「・・・当事者と
   しての私は、ある対象に対して、何かの行為を行ったりする。一方、私の胸中には、公平な観察者impartial spectator P34 
   L2)としてのもう一人の自分がいて、私の感情や行為が適切なものであるか否かを判断する。「もう一人の人間がいる」と小学校
   の時耳にしが、アダム・スミスと太宰との分析(無言文体、弁証法が許されるなら)は後日を期したい。次にスミスは、上記観察者は成熟した観
   察者として判断を下せるようになる、といっている。具体的には賞賛と非難の仕組みである。それらは偶然(fortune)によって影響されると考え
   ている。その結果、不規則生が生ずる。スミスは、世間が、このような不規則生をもって個人の行為を評価することには社会的な意味があると
   考える。こうして、私たちは、称賛・非難の不規則性という、いわば「見えざる手」に導かれて、知らず知らずのうちに住みやすい社会を形成する
   のである。しかし、当事者が結果的に残念に思うとき、スミスは「世間が、意図によってでなく結果によって判断するということは、あらゆる時代に
   不満の種であったし徳を大いにくじく者である」(「道徳感情論」二部三編三章)と述べている。スミスはこのような不規則性への対応には、賢
   人(wise man)と弱い人(weak man)とがあるとする。スミスが強く影響を受けたとされるストア哲学なら、賢人とはあらゆる状況でも精神
   の不動を保つ・保てる、そういう人であった。しかし、スミスは、公平な観察者の判断に従って、平成を保つが、根拠のない避難は避けようとす
   る、と考える。弱い人は、自己欺瞞(self−deceit)によって公平な観察者の是認・否認を無視するように自分をしむけるであろう。では、自己
   欺瞞という致命的な弱点に対して、私たちの中の「賢明さ」は、どのような対策を取るのであろうか。スミスは論じる。
  A上記同書 4 いかにして正義のルールが作られるか(P55 L5)
     一般的諸規則(general rules)の設定(P55 L6)
   上記は二種類の規則から成る。即ち、(1)胸中の公平な観察者が非難に値するであろう、全ての行為は回避されなければならない。(2)胸
   中の公平な観察者が称賛に値するであろう、全ての行為は推奨されなければならない。第一の規則は、正義(justice)すなわち他人の生
   命、身体、財産、名誉を傷つける行為をおこなわないことを私たちに指示し、第二の規則は、慈恵(benificence)、すなわち他人の利益を
   増進することを私たちに指示する。
     上記同書 義務の感覚(sense of duty)(P57 L14)
   スミスは、自分の行為の基準として、一般的諸規則を考慮しなければならないと思う感覚を義務の感覚と呼び、「人間生活において最大の重
   要性をもつ原理であり、人類のうちの多数がそれによって自分の行為を方向付けることができる唯一の原理」(「道徳情操論」三部五章」)で
   あると考えた。
    特に重要なのは(P59 L4〜 義務の感覚によって制御されるものの中に、利己心(self−interest)慈愛心が含まれていることで
   ある。実際、スミスは、はっきりと、「自然は(中略)われわれを慈愛心の妄想に全てゆだねてしまうことはなかった。」(「道徳感情論})三部四
   章)と述べている。利己心や慈愛心は義務の感覚のもとに制御されなければならないし、通常は制御されるはずであるとスミスは考える。このこ
   とを理解しておくことは、「国富論」において、スミスが利己心に基づいた自由な経済活動を容認したことの意味を正しくとらえる上で非常に重要
   である。無制限の利己心が放任されるべきだという考え方は、スミスの思想からは出てこない。)
    では、(上記同書 P59 11〜 私たちは、義務の感覚に基づいて、情念、欲望、慈愛心を抑制することによって何を得るのであろうか。スミ
   スは、この問題に対して、次のように答える。「・・・われわれの内面にある、これらの神の代理人(胸中の公平な観察者 impartial spectat
   or)は、それら{一般的諸規則}に対する侵犯を、内面的恥辱感と自己非難の責め苦によって必ず処罰するのであり、反対に、従順に対して
   は、つねに心の平静、満足、自己充足をもって報償するのである。・・・(「道徳感情論 三部五章」)。結局(上記同書 P60 L6〜義務の
   感覚にしたがうことによって私たちが得るものは、「心の平静」なのである。と著者は結論づけている。太宰は「津軽」で「心の平安」を得た。
   両者の定義と、その動的過程は、後日分析したい。弁証法が許されるなら。NICHT DIESE T”oNE,太宰の言霊生成の謎が解明され
   るならFREUDE!となる(?)かもしれない。)
  B上記同書 第二章 繁栄を導く人間本性
     3 野心と経済発展
       弱さの役割(P85 L12)
    スミスは、経済を発展させる仕組みを、国富論で詳細に分析しているが、道徳感情論でも少しだけ論じている。それは弱い人・私たちの中に
   ある弱さだと言っている。(上記同書 P87 L15〜(スミスは、土地を持たない人々が、広大な土地をもつ一人の地主から生活必需品の分け
   前を引き出す仕組みについて次のように述べる。P88 L15〜・・・彼ら(裕福な人々)は、見えざる手に導かれて、大地がそのすべての住
   民の間で、平等な部分に分割されていた場合になされていただろうのと、ほぼ同一の生活必需品の分配を行うのであり、・・・こうして、それを
   意図することなく、それを知ること無しに社会の利益を推し進め、種の増殖に対する手段を提供するのである。・・・)(「道徳感情論」四部一
   章)。
    上記同書 P89 L5〜この箇所は、「道徳感情論」の中で「見えざる手(invisible hand)」という言葉が使われる唯一の箇所で
   ある。又、著者は、以下のように解説している。(P90 L9〜・・・地主の利己心と貪欲によって幸福が人々の間に平等に分配される。スミス
   は、ここでは、この仕組みを見えざる手と呼んだのである。・・・又、「弱い人」の定義として、スミスの例では(上記同書 P90 L14〜高
   慢で無感覚な地主だとしている。そしてこの地主はより多くの奢侈品を手にすることによって幸福になろうとする。この「弱い人」の野心によって、
   経済は発展し、社会は繁栄するのである。・・・)
  C日本経済新聞
    同氏は、「グラスゴウ大學 講義」が「道徳情操論」と「国富論」との媒介をなす、と解説している。即ち、理論的矛盾はない。道徳感情論の
   原理は利他的同情、国富論の原理は利己心である。「グラスゴウ大學 講義」では「交換性向」は議論されている。「国富論」では「交換性
   向」は議論されていない。「国富論」では個人の利己心は、見えざる手(価格調整メカニズム)を通じて公共の利益を促進すると考えている。こ
   れが市場社会である。市場社会の原点は、同感・同情に基づき交換する社会である。交換する人間の性質は交換性向である。この交換性
   向は説得本能によって取得される(「グラスゴウ大學 講義」)。説得本能とは、同感を得ることを目的とする言語的能力である。(言語的能
   力とは、私見ではあるが、有言文体・無言文体をも含むと思う)。人間は、何故、ものを交換するか、それは「道徳感情論」にある。この交換
   は相互の同感・相互の正義に基づいている。依って、論理的矛盾はない。以上を100年間に渡り議論した。太宰はキリスト一人に芸術的
   極限化を行っているが、キリストを中心とした集団、即ちキリスト文明、と理解するべきであろう。以下、堂目氏の上記日本経済新聞の一部を
   紹介する。
    「国富論」において、スミスは分業が豊かさを増進する根本的原理である。・・・分業を促すのは、ある物を別の物と取引し交換する人間の
   性質、即ち、「交換性向」である。・・・「国富論」においては・・・論じられていない。しかし、「国富論」の出版前にスミスがグラスゴウ大學で行っ
   た講義の記録には、交換性向は「説得本能」によって取得される、と記載されている。説得本能とは、他人からの同感を得ることを目的とする
   言語的能力である。人間は、言葉を交換することによって互いに相手からの同感を得ようとする。・・・では、何故人間は物を交換するのだろう
   か。「道徳感情論」の中に・・・人間は生まれてから死ぬまで、生存のために他人からの世話を必要とする。・・・しかし、見知らぬ人から世話を
   受ける方法として、・・・私はあなたが必要とする物をあなたにあげよう、そのかわり、あなたは私が必要とする物を私にください。・・・相手を説得
   する・・・自分の世話と見知らぬ人の世話を交換することである。
    この交換は、他者への愛情に基づいていないが、相互の同感、相互の正義に基づいている。・・・同感という能力に基づいて、見知らぬ者
   どうしが世話を交換する社会、これが市場社会の原点である。
  D上記同書 説得性向 P159 L7
    交換性向の原因となる人間の能力は、「国富論」では「推理したり話したりする人間の能力」とされていたが(上記同書 P160 L8)、「法
   学講義(水田洋訳、岩波文庫、2005年 P282)」では、「説得性向」(principle to persuade)とされている。・・・そこで、「法学講義」
   の訳文と「グラスゴウ大學 講義」との訳文を紹介したい。内容は同じである。しかも、常識的に考えて「法学講義」が紙の質がよい。何よりも
   理解しやすい。しかし、太宰の文体・実験である。表記法は「グラスゴウ大學 講義」方式が近い。口語訳にはない「リズム」がある。両者を音
   読し、脳波の周波数を可視化・比較してみたら、アル一定の法則が発生する、と思う。万葉集の定型までは行かないまでも、文語文体独特
   のリズムが確認できるのではないだろうか。太宰は、少なくとも、「津軽」創作期間中、口語文体ではなかった。・・・。
    「法学講義」訳 (上記同書 P159 L14〜P160 L7)「交換性向の本当の基礎は、人間本性の中で、あのように支配的な説得性向
   なのである。説得するための何かの議論が提起されるときには、それが適切な効果をもつことが、つねに期待される。ある人が月について、真実
   とはかぎらないことを何か主張するとき、彼は反論されるかもしれないことに不安を感じるであろう。そして、もしも説得しようとしているひとが彼と
   同じ考え方をしていることがわかれば、彼は非常に喜ぶだろう。したがって、われわれは大いに説得能力を養成すべきであり、実際に、われわれ
   は意図しないでそうしているのである。人間の全生活が説得能力の訓練に費やされるのだから、その結果、物を交換するために必要な方法が
   取得されるにちがいない。」
    「グラスゴウ大學 講義」訳。
    第二部 治政について(上記同書 P313)
    第一編 清潔と安寧
    第二編 低廉または豊富(上記同書 P317)
    第五節 分業を発生せしめるものは何か(上記同書 P332)
    (上記同書 P317 L2〜L9)「・・・交易性向の眞の基礎は、人間天性のなかにきはめて廣い場所を占める説得本能principle to pe
   rsuadeである。説得しようとして何か議論をもちかける場合には、つねにその議論が適当な効果を興へることが期待されてゐる。もし一人の者
   が月について何かを主張すれば、たとへその主張が眞理でなくても、彼は反駁されることにある不安をかんずるであらふ。そして彼が説得しようと
   努力してゐるその人が、彼とおなじやうに考へてゐるなら、彼は非常に喜ぶだらう。そこで、我々は、主として説得力を養成すべきである。実際
   我々は期せずしてこれを養成してゐる。我々の全生活はこの説得力の行使に費やされるから、互ひに取引(バーゲン)する手近な方法が疑ひ
   もなくできあがるに違いhない。・・・」
  E「国富論」の見えざる手
    「道徳感情論」と「国富論」の世界 堂目卓生
    市場の機能と条件 P169 L1
    (P170 L14〜P171 L4)「(中略)個人はこの場合にも、他の多くの場合と同様に、見えざる手に導かれて、自分の意図の中にはまっ
   たくなかった目的を推進するのである(国富論 第四編第二章)。
    この箇所は(P171 L4)、「国富論」の中で、見えざる手がという言葉が出てくる唯一の箇所である。ここでいう見えざる手は、市場
   の価格調整メカニズムを意味する。スミスは、個人の利己心は、市場の価格調整メカニズムを通じて、公共の利益を促進するー互恵の質を
   高め量を拡大するーと考えた。
    上記を英訳する(ネット 「国富論」 見えざる手 で検索)
    「・・・;and he is in this,as in many other cases,led by an invisible hand to promote an end which 
   was no part of his intension.・・・」 
    残念ながら、 an invisible hand of Godという文言は無かった。しかし、2000年間のキリスト文明を考えるなら、五木氏の言うよう、
   「of God」が入って当然と思う。
 (7)不言対話 (小野みちこ著 詩集 雪のオルガン 北方新社 昭和59年、 P6 偽画 3節 P7 L4)
    著者は小野先生の奥様である。「不言」とは、無言と言い換えうる。「対話」とは文体と言い換えうる。その詩集は偶然発見した。詠進せむと
   した。枝垂れ櫻は花皆散り落とし もりあがりもりあがり 覆ひかぶさむとすという失敗作を推敲しようとした。故小野先生を、道に迷ひ、御見舞
   いし、御子息、を又迷ひ、大手門に来てしまった。吸ひ寄せられ木を見た。一瞬小野先生かと思った。暮れなずむギリギリのあかりに、人間を
   覆ひかぶさむと。あの時の記憶をたぐり寄せるため、遠いドイツ語訳より今の詩集。手にしてしまった。一片の記憶でもと、何気なく眼に、・・・
   熱流が吹き出た。奥様の無念を思った。思えば、ご自宅の玄関先で小野先生は長身の細い首を更に伸ばして待っていた。約束の時間にとう
   に遅れていた。小野先生は怒らなかった。奥様は「森鴎外を読め!」と一喝した。常識的に、小野先生の「太宰をどう読むか」であろうが、怠
   け者の私は読まなかった。同じ地球生命体、完璧な独創はあり得ない。太宰の言霊生成の謎は、謎で終わるのだろうか。その小野先生は玄
   関先で、雪に転倒したやに聞いた。そうして入院。だから私は御見舞。
    太宰の・・・実験・・・だったはず。もしも仮に私が「不言対話」から「無言文体」を・・・というシミュレーションは?紅の糸は?