5. 
スリラーの本格「羊たちの沈黙」

朝靄が濃く漂う森の中をひとりの若い女性FBI訓練生が黙々とランニングをしている。ただそれだけなのに、灰色の陰鬱なこの映画のオープニングのタイトルバックはこれから起こる謎に満ちた惨劇を予感させ、いきなり観客を映画の中にひきずり込む。ジョナサン・デミ監督の見事な手際である。
「羊たちの沈黙」は見終わっても全部が全部ピタリとはまるわけではない。私もトマス・ハリスの原作小説本を後で買って、その傑作ミステリーを読破したうえで「うーん、そういうことだったか」とうなずいた部分も多かったのだった。
しかしそれは実はたいした問題ではない。
その後雨後の竹の子のように数多く造られていく単純なサイコ・スリラーの枠を完全に超えたこの名作は、出演したふたりの名優のあまりにも完璧な演技によって映画史に残る一本に輝いているのだ。
まずひとりはFBI捜査官訓練生、クラリス・スターリングを演じたジョディ・フォスター、ほとんどスッピンに常に地味な色合いとデザインの衣裳がむしろ彼女の美しさをひきたたせ、微妙な表情の陰影を際立たせて素晴らしい。そしてもうひとりは、天才犯罪者ハンニバル・レクター博士を演じたイギリスの名優アンソニー・ホプキンス、クラリスが精神刑務所の奥深くに収監されているこの稀代の殺人者に捜査のアドバイスを請うという常軌を逸したシチュエーションもすごいが、この不気味だが並外れて知性的な極悪人を完璧に演じていた。スクリーンに大写しになった彼の眼の奥に、正真正銘の狂気の炎がめらっと燃えるのを観たと感じ背筋を震わせたのは私だけではないはずだ。
喉の奥になにか小さな骨片が残っているような“奇妙な味”のラスト・シーンも忘れられない。

10年後、続編「ハンニバル」が作られ話題になった。ジョディ・フォスターに代わってクラリスを演じたジュリアン・ムーアの好演もあり、「羊たち…」には及ばないものの水準以上の佳作となった。しかしその後まもなく作られたシリーズ三作目「レッド・ドラゴン」のほうが自分としては好みである。時間軸としては「羊たち…」の前篇にあたるこの作品、レクターが若いFBI捜査官についに捕まってしまう前半からオーソドックスながらサスペンスフルな展開のテンポがなかなか良い。そしてあの「羊たちの沈黙」の衝撃の悪夢へと返っていくラストがたまらない。

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