太宰治と月見草 桜桃忌にちなんで/6月13日

本県金木町出身の作家太宰治が昭和23年6月に死去して今年で50年。13日は彼が玉川上水に入水した日とされている。 12日、桜桃忌を前にNHK総合TV生活ホットモーニング「私のおすすめ旅」で「太宰治の富嶽百景を歩く」が放映された。
「富嶽百景」の文中富士には、月見草がよく似合うの一節は、あまりにも有名だが、以前から二つの素朴な疑問を持っていたし、心象風景も出来上がっていたので、この機会に、ちょっと問題の箇所を読み直してみた。 大先輩でもある太宰さんの失笑は覚悟の上で掲載したが・・・・。
1.太宰の云う月見草は、どんな種類だったのか?
2.太宰が見た風景は、どんな構図だったのか?
> 結果は
1.アレチマツヨイグサと思っていたが、オオマツヨイグサの可能性も残る。
2.前景が月見草で、その背景に富士山と想像していた構図(写真)ではなかった。
詳しくは19日の桜桃忌までに掲載したいと思うが、既に誰かこの件に関しては考証しているのではなかろうか。 下に、「太宰治の富嶽百景を歩く」の静止画像と「富嶽百景」を抄録。それに「太宰治のペンネーム」を転載したので、 余裕のある方はご覧になって、結果の正否を考察?されてはいかがでしょう。


「富嶽百景」概念図
_NHKTV転載

アレチマツヨイグサ?と富士_河口湖で撮影
現地アマチュアカメラマンの入賞作品_NHKTV転載

ビールをそそぐ太宰


太宰が逗留した二階の部屋入り口
現在は太宰治文学記念室

「此処に座って」と茶屋の外山ヤエ子さん
太宰の初対面の印象は「おかしな人」

太宰が「綺麗な富士は好きじゃない」
と言うのを聴いて「何云ってんの!」
と思ったそうだ。

太宰が使った火鉢



井伏・太宰が登った三ツ峠の茶屋
ガスで富士山が見えず2人は茶屋 のお婆
さんに慰められた。

●「富嶽百景」より
○昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。
・・・・・・・ 私は、甲府市からバスにゆられて一時間。御坂峠へたどりつく。御坂峠、海抜千三百米。
  この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。 私は、それを知つてここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しょうと思つてゐた。
私は、どてら着て山を歩きまはつて、月見草の種を両の手のひらに一ばいとつて来て、それを茶店の背戸に播いてやつて、 「いいかい、これは僕の月見草だからね、釆年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちやいけないよ。」娘さんは、うなづいた。  ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合ふ と、思ひ込んだ事情があつたからである。
御坂峠のその茶店は、謂はば山中の一軒家であるから、郵便物は、配達されない。
峠の項上から、バスで三十分程ゆられて峠の麓、河口湖畔の、河口村といふ文字通りの寒村にたどり着くのであるが、その河口 村の郵便局に、私宛の郵便物が留め置かれて、私は三日に一度くらゐの割で、その郵便物を受け取りに出かけなければならない。
天気の良い日を選んで行く。
河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色 の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの詠嘆ともつかぬ言一葉を、突然言ひ出して、 ・・・・・・・間抜けた嘆声を発して、車内はひとしせり、ざわめいた。
けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥も輿へず、かへ つて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感 ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せ てやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素撮りを 見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぽんやり崖の方を、 眺めやつた。
老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぽんやりひとこと、「おや、月見草。」
さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。
さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあぎやかに消えず残った。 三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。 富士には、月見草がよく似合ふ。

「富嶽百景」日本文学全集54「太宰治集」新潮社より月見草関連分抜粋

●太宰治のペンネーム由来(「天地人」東奥日報6/13 転載)
津島修司が初めて「太宰治」の筆名を使ったのは東奥日報に寄せた短編「列車」でだった。
当時京大の仏文に太宰施門という先生がいた。
竹内俊吉記者が「太宰施門のまねだろう」と聞くと「いや、ボクのは天神様の太宰府の太宰だ」 と答えたという話が有名だ。
万葉集にある「ダザイノゴンノソツ」からつけたという説があれば、このほかにも、退廃主義の デカダニズムから採ったとか、いや、ダダイズムから借りたものだとか、説は多いが真相は不明だ。
ツとチ、スとシの誤発音を避けるために「ダザイ・オサム」にしたという解釈まである。
「新潮」七月号で井上ひさしさんがドイツ語の「ダーザイン」(現存在)をもじったものだという説を 紹介している。
その「現存在」を否定するかのように、五十年前の六月十三日、玉川上水に入水自殺した。
身は滅びたが、ペンネーム「太宰治」は滅びることがない。