次代への証言−棟方啓爾   第1集 P14−15
コールタールを噛んで
<青森空襲の想い出>青森空襲を記録する会


    当時、私は小学校三年生だったが、新城の母の実家に母と弟二人の四人で疎開していた。
そこは馬屋を急拠模様替えしたもので窓もなく、夜になると天井から籾穀等がおちてきて、 暑苦しいうえに、あらこちかゆくて寝苦しい毎日だった。 それでも田舎での生活は、喰い盛りの私にとっては、たまらない魅力があった。
食事はまさに雲泥の差があったうえに、遊んで空腹になった時は裏の畠に行けばいくらか満 たすことができた。
   連絡船が空襲されて沈没したり、座礁して炎上したり、また野内の石油タンクが黒煙を上げ て数日燃え続けたの等、みなこの畠を少し登った丘から眺めたものだ。今思い出してもその 情景をみたという現実感がなく、まして恐怖心などまったくなかったのが不思議でならない。
ただアブ(グラマン)が好き勝手に暴れ廻り、飛び去ってしまった後で、決まったように油 川の飛行場から唯一機友軍機が飛び立つのには、子供心にも無念に感じたのを覚えている。
   この油川飛行場が爆撃されたのも、私は偶然目撃している。
従弟と二人で松ヶ丘保養園から南へ一キロほど離れた畠に、瓜を盗りに行った日のことだっ た。
その日は高曇りだが暑かったことを覚えている。しかし瓜を盗んで喰べたかどうか記憶がはっ きりしない。突然、鶴ヶ坂のテレビ塔付近の上空から、グラマン二機が、まさに二人に向って 降下して来たのだ。
二人は仰天してカラマツ林に逃げこんだ。と同時に真上で爆弾が機体から離れるのが見えた。 間もなく炸裂音がして地面がぐらぐら揺れた。
しばらくあってから、二人は顔を見合せ涙が出るほど笑いころげた。
後年、この従弟と久振りに逢う度に、お互いにあの時、先にカラマツ林に逃げたのはお前の 方だといいあいながら、「爆弾だきや、真上で落されでも絶対大丈夫だもだね」ということ では意見が一致した。

    授業が続けられているうらは、この従弟の家から七キロの道を長島国民学校に通った。
今は会社や工場が建ち並んでしまったが、当時、滝内から石江までは一面田圃が続いてい て、トボトポ歩いて通うには随分長く感じたものだった。
   青森空襲の前か後か忘れたが、或る日、すぐ下の弟を連れて新城へ帰る途中、艦載機の 機銃掃射をうけた。滝内と石江のはぼ中間にさしかかっていたと思う。
突然後方から飛行機が降下する音がし、大人達がクモの子を散らすように田圃の堰などに逃 げこんだ。一瞬状況もつかめないまま、道路から田圃にそれたものの、身を伏せることもせ ず立ちすくんでいた。敵機が引返していたら二人は間違いなく恰好の標的になっていただろ う。
   田圃で仕事していた人だろうか、スコップで路端の銃弾のあとを堀っているのをみると、 深さは六十センチ以上もあろうか、弾は黒土をつらぬいてカベ土の中ににぶく光っていた。
艦載機は地上で動くものは猫の子でも射つときいていたので、まったく生きた心地がしなかっ た。

   青森空襲の日、私は友達数人と営林局の裏の砂浜で泳いでいた。水にあきて積まれたヒバ 丸太の上で遊んでいるうち、突然丸太がくずれ左足をうってしまった。
幸い軽い打撲傷ですみ、どうにか一人で左足をひきずりながら新城へ帰ることができた。
   母から聞いたのだが、帰ったのは七時をすぎて日はとっぶり暮れ、随分心配したという。
怪我がもっとひどく、長島の家に帰っていたら、父は姉の他に私をも連れて火の中を逃げな ければならず、状況はすっかり変っていたかも知れない。(空襲の夜の光景は多くの方々が 書かれているので割愛する。)
   翌朝、国道七号線は西へ向う被災者の列が続いた。その中で一匹の牛の背に眠って、揺 れていた少女の姿を、今でも時折り思い出す。それはまるでゴヤの一枚のエッチングで見た 情景のような錯覚を私に与える。
   後日、一緒に水泳した細川君が兄を病院に見舞い、そのまま看護に残って焼死したのを知 った。
 幸い私の家は被災せず、間もなく長島の家で生活が始まったが、焼け出された親類が二世 帯同居するなど、衣食住とも惨澹たる生活が続いた。
特に、空腹をまぎらすため、道路舗装用のコールタールをチューインガムのように噛んだこと は、いつまでも忘れないことだろう。
   苦しみは人を鍛えるというが、空襲の苦しみだけは子供達に決して味わさせたくないと思う。