アンティゴノス 対 エウメネス (第2ステージ)

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B.C.317
04.10 エウメネス、スサへ向けてバビュロニアにあるカリア人の村を出発
04.10 ペイトン、バビュロニア到着
04.15 エウメネス、ティグリス川で、ペイトンとセレウコスの攻撃を受ける
04.20 セレウコス、アンティゴノスにエウメネスに太守たちが合流する前にできるだけ早く来るよう頼む
04.26 アンティゴノス、エウメネスに向けてメソポタミア出発
05.01 エウメネス、スサ到着
05.01 エウメネス、高地太守領からの参集軍と合流
05.05 アンティゴノス、エウメネスが高地太守領からの参集軍と合流したことを知る
05.20 アンティゴノス、バビュロン到着
05.22 アンティゴノス、バビュロニアで、ペイトンおよびセレウコスと協定を締結
---> アンティゴノス、セレウコスから兵士と戦象35頭を受け取る
05.24 エウメネス、スサを守るクセノフィロスにアンティゴノスに財貨を渡さないように命じる
05.24 エウメネス、スサ出発
05.25 エウメネス、パシティグリス川向こうでアンティゴノスを待ち受け
05.26 エウメネス、ペウケスタスにペルシア弓兵1万を呼び寄せるよう要請
05.31 アンティゴノス、バビュロン出発 [Diod.19.17]
06.15 アンティゴノス、バビュロンとスサの間で暑さのため多くの兵を失う
06.20 アンティゴノス、スサ到着
06.20 アンティゴノス、セレウコスをスシアナ太守に任命
06.20 アンティゴノス、セレウコスに命令を受けることを拒否したクセノフィロスを包囲させる
06.24 アンティゴノス、スサ出発
06.25 コプラテス川の戦い [Diod.19.18, Plut.Eume.14] 戦力と死傷者
06.25 アンティゴノス、エウメネスの攻撃によりコプラテス渡河に失敗
07.01 アンティゴノス、エウライオス川の土手にあるバダケ到着
07.02 アンティゴノス、エクバタナを目指してバダケを出発
07.08 アンティゴノス、コッサイオイの地で多くの兵を失う
07.11 アンティゴノス、エクバタナ到着
---> アンティゴノス、40日間に3つの大きな惨事に遭った (from Babylon 5.31) [Diod.19.20]
07.13 エウメネス、アンティゴノスのメディア到着を知る
07.15 エウメネス、パシティグリス河畔出発 [Diod.19.21]
08.04 アンティゴノス、エウメネスがペルセポリスへ向ったのを知る
08.05 アンティゴノス、メディア出発
08.07 エウメネス、ペルセポリスに到着 [Diod.19.21]
08.08 ペウケスタス、ペルセポリスで軍を饗応する
08.09 エウメネス、アルメニア太守オロンテスからの偽手紙を作る
08.10 エウメネス、ペウケスタスと親しいシビュルティオスを裁判にかける
08.10 シビュルティオス、危険を察知し、アラコシアへ逃亡
08.10 エウメネス、アンティゴノスのメディア出発を知る
08.11 エウメネス、ペルセポリス出発 [Diod.19.24, Plut.Eume.14]
08.13 エウメネス、軍を饗応し、競い飲みをして病気になる
08.14 エウメネス、数日進軍を延期
08.16 エウメネス、少し回復したので、輿に担がれて殿を進軍
08.17 アンティゴノス、エウメネスの病気で輿で運ばれていることを知り、進軍速度を速める
08.17 エウメネスとアンティゴノス軍、遭遇 [Diod.19.25, Plut.Eume.14] 遭遇場所
08.17 アンティゴノス、軍を退いて、陣営を張る
08.17 両軍とも3スタディオン(約555m)の距離で野営
08.22 エウメネス、アンティゴノスがガベネに撤退すると予想
08.22 エウメネス、アンティゴノスに夜襲を警戒させ、先発する
08.23 アンティゴノス、エウメネスに追いつく 追いついた場所
08.23 パラエタケネの戦い [Diod.19.30, Plut.Eume.14] 戦力と死傷者
08.23 デメトリオス、右翼騎兵を率いて初陣(20歳)
08.23 アンティゴノス、戦死者の近くに陣営を築かせ、勝利宣言
08.23 エウメネス、兵をまとめることができず戦場から離れて陣営を築く
08.24 アンティゴノス、メディアのガダマラへ向け出発
08.25 エウメネス、遺体処理後、ガベネへ向け出発
08.28 エウメネス、ガベネで越冬
09.10 アンティゴノス、メディアのガダマラ到着 [Diod.19.34、Diod.19.37]
---> ガベネは、ガダマラから25日、砂漠を通って9日の旅程
12.26 アンティゴノス、ガタマラ出発 [Diod.19.37]
---> エウメネスの冬営場所は、約1,000スタディオンの範囲に広がっていた [Diod.19.37, Plut.Eume.15, Poly.4.6.11]
---> 砂漠を通れば10日、人家のある道を通れば、その2倍 [Diod.19.37, Nepos.18.8]
12.30 アンティゴノス軍は、行軍5日目の陣営で火を使った
 

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B.C.316
01.01 エウメネス、砂漠の近くに住む住人からアンティゴノスの行軍を聞く
01.03 エウメネス、計略により、アンティゴノスの奇襲を回避
01.05 アンティゴノス、右に方向を変える [Diod.19.38]
---> アンティゴノス、まだ略奪されていない人の住んでいる地方へ向かった
01.09 アンティゴノス、エウメネス軍の戦象部隊を攻撃するが、失敗
01.10 アンティゴノス、疲れた兵を休ませるため、1日休止する
01.11 ガビエネの戦い [Diod.19.44、Plut.Eume.16, Poly.4.6.13] 戦力と死傷者
01.11 デメトリオス、右翼騎兵を率いる
01.11 ヒエロニュモスも負傷した捕虜の中にいた
01.12 銀楯隊、エウメネスを捕えてアンティゴノスに引き渡す
01.13 アンティゴノス、エウメネスを裏切ったアンティゲネスやエウダモスらを殺害
01.18 デメトリオス、ネアルコスとともにアンティゴノスに、エウメネスの助命を嘆願する
01.19 アンティゴノス、エウメネスを処刑(享年45歳)
---> アンティゴノス、エウメネスの遺骨を縁者へ送る
01.20 アンティゴノス、ガベネ出発
02.01 アンティゴノス、エクバタナ近くの村に到着
02.09 アンティゴノス軍、ラガイに到着. [Diod.19.44]
B.C.317.06.25 基準日 1 -- シリウスの昇る頃~夏至の頃 [Diod.19.18]
B.C.317.12.26 基準日 2 -- 冬至のころ [Diod.19.37]

バビュロニアにあるカリア人の村
[コプラテス川の戦い前のエウメネスの冬営地]
史料では、カリア人について、つぎのように記されている。
1. ガウガメラの戦いで、インド人やマルドイ人弓兵隊とともに移住カリア人が配置された。(Arr.3.11.5)
ガウガメラの戦いで、民族名と同列で部隊を構成していたことから、相当な人口を有する大きな村であったろうと思料される。
ペルセポリス宝蔵文書には、カリア人が石工として見られ、クセルクセスなどの時代に、職人として強制移住させられた人々の子孫と思われる。

戦象35頭
史料では、戦象について、つぎのように記されている。
1. ヒュダスペス川の川岸沿いに、ヘパイスティオンが200頭の戦象を引率した。(Arr. Ind. 19)
2. クラテロスが、インドからカルマニアへ老兵および戦象を率いて行軍した。(Arr.6.17.3, Arr.6.27.3)
3. ヘパイスティオンが、カルマニアからペルシスへ軍勢の大部分と戦象を率いて行軍した。(Arr.6.28.7)
4.バビュロンでの歩兵と騎兵の対立したとき、ペルディッカスが、反抗した兵を戦象で踏みつけさせた。(Curt.10.9.18)
5. ペルディッカスのエジプト進攻時、ナイル川の流れを弱めるために、戦象を使った。(Diod.18.35)
6. アンティパトロスがアジアを去るとき、アンティゴノスに戦象の半分を与えた。(Arr.Succ.1.43)
7. カッパドキアでのエウメネスとの戦いで、アンティゴノスは30頭の戦象を有していた。(Diod.18.40)
8. アンティパトロスが死んだとき、アンティゴノスは30頭の戦象を有していた。(Diod.18.50)
9. ポリュペルコンのアッティカ進軍時、65頭の戦象を連れていた。(Diod.18.68)
以上のことから、
クラテロスとヘパイスティオンがインドから、バビュロンに連れて来た戦象は、130頭であったろう。
また、ペルディッカスがバビュロンを去るとき、戦象の一部を残したか、トリパラデイソスの決定後、バビュロン太守となったセレウコスが戦象の一部を連れてバビュロンに赴任したかのいずれかで、バビュロンに35頭の戦象がいたものと思われる。

エウライオス川
史料では、スサ近郊の河川は、つぎのように記されている。
1. 大王は、スサからエウライオス川をペルシア湾まで下っている。(Arr.7.7.1)
2. コアスペス川とエウライオス川とは、湖で合流する。(Strabo.15.3.4)
3. エウライオス川は、スサの東西を流れて、ペルシア湾に注いでいる。(Ptolem.6.3.2)
4. スサはコアスペス河畔にあった。(Strabo.15.3.4, Paus.10.31.7)
5. バビュロンからスサへ向かった大王がコアスペス川で出迎えを受けた。(Curt.5.2.9)
6. コアスペス川のつぎがコプラテス川とパシティグリス川である。(Strabo.15.3.6)
7. コプラテス川は、パシティグリス川に合流する。(Diod.19.18)
8. コプラテスの渡河は不可能だと信じたアンティゴノスは、エウライオス河畔のバダケへ向かった。(Diod.19.19)
以上のことから、スサと河川の位置関係は、西から、エウライオス川、コアスペス川、スサ、コプラテス川、パシティグリス川の順になっていたと思われる。

バダケ
[コプラテス川の戦い後のアンティゴノス軍の陣営]
バダケからメディアに至る道は2つあり、コロンを通るルートは、王の道であり、40日間の行軍である。他方、コッサイオイ人の地を通るルートは、9日であった。
以上のことから、バダケは、エウライオス川の上流で、コッサイオイ人の地に近いところにあったのではないかと思われる。

ガベネ
[ガビエネの戦い前のエウメネスの越冬地]
史料では、ガベネについて、つぎのように記されている。
1. エウメネスは、アンティゴノスがガベネに撤退するだろうと結論した。(Diod.19.26)
2. エウメネスは、パラエタケネの戦いの後、ガベネへ向かった。(Diod.19.34)
3. エウメネス軍は、ガベネのほぼ全域にわたって分散して冬営した。(Plut.Eume.15)
4. アンティゴノスとエウメネスの遭遇地点から、ガベネまで3日行程であった。(Diod.19.26)
5. ペルシス地方の高地区域のガバエに王宮があった。(Strabo.15.3.3)

パラエタケネの戦い
[戦力]
アンティゴノス軍 : 歩2万8,000、騎8,500、戦象65
エウメネス軍 : 歩3万5,000、騎6,100、戦象114
[死傷者]
アンティゴノス軍:戦死、歩3,700、騎54。負傷4,000以上
エウメネス軍:戦死、歩540、騎若干。負傷900以上

ガビエネの戦い
[戦力]
アンティゴノス軍 : 歩2万2,000、騎9,000、戦象65
エウメネス軍 : 歩3万6,700、騎6,000、戦象114
[死傷者]
アンティゴノス軍:戦死5,000以上
エウメネス軍:戦死300

ガダマラ(ガマルガ、ガダマルタ)
[ガビエネの戦い前のアンティゴノス軍の越冬地]
史料では、ガダマラについて、つぎのように記されている。
1. アンティゴノスは、ペイトンの支配下にあったメディアのガマルガに向かった。(Diod.19.32)
2. アンティゴノスは、メディアのガダマラで越冬していた。(Diod.19.37)
3. アンティゴノスがメディアのガダマルタの冬営地にいる間、1,000スタディオンにわたってエウメネスの兵によって非常線が張られ監視されていた。(Poly.4.6.11)

ラガイ(ラガ)
[ガビエネの戦い後のアンティゴノス軍の越冬地]
史料では、ラガイについて、つぎのように記されている。
1. アンティゴノスは、昔そこに起こった災害からそのように呼ばれているラガイという地方に兵士を分散した。(Diod.19.44)
2. メディア地方にあるラガイはカスピアイ・ピュライ一帯の大地が地震で破断した(ラゲイス)ために、この名がついた。(Strabo.1.3.19)
3. アポロドロスによるとカスピアイ・ピュライから、ラガイまでは500スタディオン(90キロ)ある。ポセイドニオスによると地震によって数多くの市や村が倒壊し、その数は2,000にも達した。(Strabo.11.9.1)
4. ラガは、セレウコス勝利王が再建し、エウロボスと名づけたが、パルテュアイア族はアルサキアと命名した。ラガはカスピアイ・ピュライよりさらに南へ約500スタディオン(92.5km)離れたところにある。(Strabo.11.13.6)
5. パルティア人の王は、冬はバビュロンで過ごし、春をラガイで過ごした。(Athen.12.513F)
6. ラガイは、カスピ門から一日行程のところにあった。(Arr.3.20.2)
7. メディアのその他の町に、フィスガンザガとラギアネと呼ばれるアパメイアがあった。(Pliny.6.43)

コプラテス川の戦い
[戦力]
アンティゴノス軍 : 歩3万2,000、騎8,500、戦象65
エウメネス軍 : 歩3万2,700、騎7,900、戦象120
[死傷者]
アンティゴノス軍 : 死傷者多数、捕虜4,000
エウメネス軍 : 不詳

BattleOfCoprates

エウメネスとアンティゴノスの遭遇場所 (M)
1. アンティゴノスがエクバタナからペルセポリスまでに要した日数 20日(Diod.19.46)
エクバタナからペルセポリス間の距離 約775Km
したがって、1日の進軍距離 38Km
2. ペルセポリスから行軍2日目、エウメネスは軍を饗応し、競い飲みをして病気になった。(Diod.19.24)
3. エウメネスは少し回復したので輿に担がれ殿を行軍した。(Diod.19.24)
4. 捕虜から、エウメネスが病気であり、輿で運ばれていることを知ったアンティゴノスは、進軍速度を速めた。(Plut.Eume.15)
5. エウメネスがアンティゴノスと遭遇したとき、輿に担がれていた。(Plut.Eume.14)
以上のことから、エウメネスが行軍を再開した後の日数は少なくても2日、長くても4日であろう。
したがって、(M)は、ペルセポリスから 152km(4日行程)  ~ 228km(6日行程)

アンティゴノスがエウメネスに追いついた場所 (N)
[パラエタケネの戦いのあった場所]
エウメネスは、2哨戒時間先行 6時間
アンティゴノス 騎馬 17.6km/h
(参考) The Man versus Horse Marathon
https://en.wikipedia.org/wiki/Man_versus_Horse_Marathon
22mile = 35.2km もっとも速い馬で、2時間 17.6km/h
エウメネス 人・象 5km/h ※ 輜重隊は先発している
アンティゴノスがエウメネスに追いつくまでに要する時間(H)
17.6 × H = 5 × H + 5 × 6
H = 30 ÷ (17.6 – 5) ≒ 2.38h = 2h23m
17.6 × 2.38 = 41.9km
(M)から(N)までの距離 約41.9km
エウメネスが(M)を出発してから、8時間23分後
アンティゴノスは、夜明け方に敵の殿に追いついた。(Diod.19.26)
(N)での8月23日の夜明け時刻 午前4時23分
http://www.hoshi-lab.info/env/solar.html
エウメネスの(M)出発時刻は、B.C.317.8.22 午後8時05分
アンティゴノスの(M)出発時刻は、B.C.317.8.23 午前2時05分

BattleOfParaitacene