第7章 トロイ戦争(BC13世紀-BC12世紀)

home English
Create:2023.12.21, Update:2026.2.15
TrojanWar

1はじめに
ギリシアの伝承によれば、トロイ王国は、テウクロスの娘婿ダルダノスから始まり、エリクトニオス、トロス、イロス、ラオメドン、プリアモスへと継承され、プリアモスの時代に、トロイ戦争があったと伝えられている。しかし、ヒッタイト文書から得られる情報とギリシアの伝承とを突き合わせると、トロイ王国が成立し、発展していく過程で、イリオンの町を戦場とする多くの戦いがあったことが分かる。
その戦いには、ギリシアの伝承には登場しないヒッタイトが大きく関与していた。
ギリシアの伝承を精査すると、イリオンの町を舞台にした攻防戦が4回確認され、2回目以降は、アカイア人も参加した。
1) BC1295年、イロスの子ラオメドンは、トロスの子アッサラコスの息子たちの協力を得たパイノダマスによって、イリオンの町から追放された。ラオメドンは、ヒッタイトの援助を得てイリオンの町を奪還した。
2) BC1244年、ラオメドンの子プリアモスは、アカイア人の協力を得たトロスの子アッサラコスの後裔たちによってイリオンの町から追放された。プリアモスは、ヒッタイトの援助を得てイリオンの町を奪還した。
3) BC1188年、プリアモスの子ヘクトールは、アンテノールの息子たちによって、イリオンの町から追放された。ヘクトールは、アカイア人の協力を得てイリオンの町を奪還しようとしたが果たせなかった。
4) BC1170年、ヘクトールの息子たちは、アカイア人の協力を得て、アンテノールの息子たちが占拠していたイリオンの町を奪還した。

2 戦いの前の状況
2.1 アナトリア北西部への入植
ギリシア人がアナトリア半島北西部に最初に入植したのは、BC15世紀であった。
BC1435年、イダイア (または、イダ, イドテア)の子テウクロス (または、テウクロス)率いる移民団は、クレタ島からトロアス地方へ移住して、ヘレスポント近くにテウクリス (後のダルダノス)の町を創建した。[1]
その当時、後にイリオンの町となる丘には、ヒッタイトの属国ウィルサの人々が住んでいた。
BC1425年、アゲノールの子キリクスは、エジプトからシドンの町を経由してイダ山近くへ移住して、テーベの町を創建した。[2]
BC1420年、エレクトラの子ダルダノスは、アルカディア地方からサモトラケ島を経由して、トロアス地方へ移住して、テウクロスと共住した。[3]
BC1390年、エウロパの子ミノスは、クレタ島のクノッソスの町からトロアス地方へ移住した。[4]
BC1390年、アルカンドロスの子ベロスは、エジプトから移民団を率いて、キュジコス近くのアイセポス川河口近くへ入植した。ベロスの入植地はエチオピアと呼ばれた。[5]
ベロスの種族は、アカイオスの子アルカンドロスに率いられて、アルゴスの町からエジプトへ移住したアカイア人であった。[6]
ベロスの子ピネオスは、ダルダノスの娘イダイアと結婚した。[7]
BC1380年、ピネオスは、黒海南西岸へ移住して、サルミュデッソスの町を創建した。[8]
BC1350年、ピネオスの息子たちは、サルミュデッソスの町からアナトリア半島へ、つぎのように移住した。
1) ビテュノスは、ビテュニア地方へ移住した。[9]
2) テュノスは、プリュギア地方へ移住した。[10]
3) マリアンデュノスは、後のヘラクレイアの町の近くへ移住した。[11]
4) パプラゴン (または、パプラゴノス)は、パプラゴニア地方へ移住した。[12]

2.2 ヒッタイトの対応
ギリシア人が入植したトロアス地方および、その周辺は、ヒッタイトの属国ウィルサが領有しており、両者の間には、争いがあったと推定される。
ウィルサとヒッタイトとは、BC17世紀から親交があった。[13]
当然、属国領へ侵入した異民族へは、ヒッタイトも対応するはずである。
しかし、当時のヒッタイトは、中王国時代の末期にあって、内紛が続いて混乱していた。
ウィルサとギリシア人との争いは、小規模なものであったと思われる。

2.3 黒海周辺への入植
BC1390年、シシュッポスの子アイイテスは、エピュライア (後のコリントス)の町から黒海東岸のコルキス地方へ移住した。[14]
BC1380年、ベロスの子ピネオスは、エチオピアから黒海南西岸へ移住して、サルミュデッソスの町を創建した。[15]
BC1370年、エウロパの子ミノスの子アステリオスは、トロアス地方からコルキス地方へ移住した。[16]
BC1370年、アイイテスの娘婿プリクソスの子キュティッソロスは、コルキス地方から黒海南岸に移住してキュトロスの町を創建した。[17]
BC1345年、ピネオスの息子たち、クリュティウス、ポリュメデス (または、プレキッポス, パンディオン)は、サルミュデッソスの町からタウリケ・ケルソネセ (現在のクリミア)へ移住した。[18]

2.4 対立の発生
BC1435年にテウクロスが初めてトロアス地方に入植してから、100年の間に、トロアス地方や黒海沿岸地方には多くの町が建設され、多くのギリシア人が入植した。
危機感を募らせたウィルサ王は、ダルダノスの子エリクトニオスの子トロスの子イロスに娘を嫁がせた。[19]
イロスは、妻の父が死ぬと、ウィルサの王位を継承して、イリオンの町へ移り住んだ。[20]
娘婿が王位を継承することは、ヒッタイト王の系譜にもあり、ヒッタイトはイロスをウィルサ王として承認した。イロスは、ヒッタイトへ朝貢する義務を負ったものの、ヒッタイトと同盟関係になった。[21]
ダルダノスの町は、トロスの死後、彼の息子アッサラコスが継承した。[22]
イロスがウィルサ王を継承した後で、アッサラコスとイロス、つまり、ダルダノスの町とイリオンの町との対立が生じた。
イロスがウィルサの王位を継承したのは、BC1327年と推定される。
ヒッタイト文書に登場するウィルサ王クックンニは、イロスの妻の父であったと思われる。

2.5 東方への領土拡張
イロスは、ヒッタイトの強力な後ろ盾を得て、東方へ領土を拡張した。
BC1325年、イロスは、イダ山近くに住んでいたタンタロスを追放した。[23]
BC1320年、イロスは、さらに東方のミュシア・オリュンペネ地方に進出し、ベブリュケスのビュゾスと戦って、勢力を拡大した。[24]

3 第1回トロイ戦争 (1295 BC)
3.1 王位継承争い
BC1296年、トロスの子イロスが死に、ラオメドンが王位を継承した。[25]
ラオメドンは、イロスとウィルサ王の娘との息子であり、ヒッタイト文書に記されたアラクサンドゥは、ラオメドンであったと推定される。[26]
BC1295年、ラオメドンは、パイノダマス (または、ヒッポテス)によって、イリオンの町から追放された。[27]
パイノダマスは、イロスとアドラストスの娘エウリュディケの息子であり、ラオメドンの異母兄弟であったと推定される。[28]
ラオメドンは、ヒッタイトやヒッタイトの属国から援軍を得て、イリオンの町を奪還した。[29]
戦いに敗れたパイノダマスと彼の息子たちは、ラオメドンによって殺された。[30]
残されたパイノダマスの3人の娘たちは、シシリー島へ逃れた。[31]
シシリー島で、パイノダマスの娘エゲスタに息子アイゲストス (または、アケステス)が生まれた。[32]

3.2 アッサラコスの息子たちの関与
イロスがウィルサ王を継承して、ダルダノスの町からイリオンの町へ移った後で、ダルダノスの町は、イロスの異母兄弟アッサラコスが継承した。[33]
イロスの子ラオメドンの子プリアモスには、47人の息子たちがいた。[34]
プリアモスと同世代のアンテノールには、19人の息子たちがいた。[35]
しかし、伝承では、イロスにはラオメドンのみ、アッサラコスにはカピュスのみが伝えられている。[36]
ダルダノスの町のアッサラコスの息子たちがパイノダマスを支援して、ラオメドンとの間に激しい戦いがあり、カピュスの兄弟たちが戦死したと推定される。

3.3 ミノスの関与
エウロパの子ミノスや彼の後裔リュカストスの子ミノスは、トロアス地方に住んでいた。[37]
BC1297年、ミノスは、タウリケ・ケルソネセからペルセイスの娘パシパエを妻に迎えた。
BC1294年、ミノスの兄弟サルペドンは、クレタ島のミレトスの町から小アジアへ渡って、アリアの子ミレトスと共にミレトスの町を創建した。[38]
この2つの出来事の間に、ミノス兄弟は、トロアス地方からクレタ島へ移住した。
彼らの移住の原因は、ウィルサの王位継承争いであったと推定される。
ミノス兄弟は、トロスの子アッサラコスに味方してラオメドンと戦ったが、戦いに敗れて、クレタ島へ移住した。[39]
ミノスには、エウロパの子ミノスに同行してクレタ島から移住した人々の子孫の他に、トロアス地方に居住していたレレゲスも同行した。[40]
サルペドンと共にミレトスの町を創建したアリアの子ミレトスは、レレゲスの指導者であった。[41]
アリアの父クレオクスは、レレゲス王アンカイオスの子アナックスの息子と推定される。[42]

3.4 エチオピア人の関与
ペルセウスの子ペルセス率いるエチオピア人は、トロスの子アッサラコスに味方してラオメドンと戦ったが、戦いに敗れた。
ラオメドンは、アイセポス川河口近くのエチオピアを攻撃して、エチオピアをトロイの支配下に置いた。[43]
その後、エチオピア人は、ラオメドンの子ティトノス、および、ティトノスの子メムノンに支配された。[44]

4 第2回トロイ戦争 (1244 BC)
4.1 プリアモスの追放
BC1244年、イロスの子ラオメドンが死に、彼の息子プリアモス (または、ポダルケス)がウィルサを継承した。[45]
ヒッタイト文書の中で、プリアモスはワルムとして登場する。[46]
トロスの子アッサラコスの後裔たちは、プリアモスを追放して、イリオンの町を占領した。[47]
彼らは、シシリー島から呼び寄せたパイノダマスの孫アイゲストスを王に据えた。[48]

4.2 プリアモスを追放したアッサラコスの後裔たち
アッサラコスは、彼の異母兄弟イロスがウィルサ王を継承してイリオンの町へ居を変えた時、父トロスと共にダルダノスの町に残った。[49]
アッサラコスの息子は、カピュスしか伝承に登場しない。[50]
プリアモスを追放して、イリオンの町を占領したアッサラコスの後裔たちとは、つぎの人々であった。
1) アイシュエテスと彼の息子たち、アンテノールとアルカトオス
アンテノールは、アイシュエテスの息子であった。[51]
アンテノールは、ダルダニア地方を領していた。[52]
以上のことから、アイシュエテスは、ダルダニア地方に住んでいたアッサラコスの子カピュスの息子と推定される。
2) カピュスの子アンキセス
アンキセスは、アッサラコスの孫であり、ダルダニア地方に住んでいた。[52-1]
3) カピュスの子ラコーンと彼の息子たち、アンティパンテスとテュンブライオス
ラコーンは、アポロの司祭であった。[53]

4.3 アッサラコスの後裔たちに協力したアカイア人
4.3.1 イピクロスの息子たち、プロテシラオスとポダルケス
メストラの父エリュシクトン (または、アイトン)は、テッサリア地方のドティオンの近くに住んでいた。[54]
ドティオン近くのピュラケの町に住むイピクロスの子プロテシラオスの妻は、黒海への航路を知っているミニュアス人が住むイオルコスの町のアカストスの娘ラオダミアであった。[55]
また、イピクロスの母クリュメネは、ミニュアスの娘であり、ピュラケの町にもクリュメネと共に移住して来たミニュアス人が住んでいた。[56]
プロテシラオスとポダルケスは、ヘレスポントを通過して、黒海沿岸地方との交易を行っていたと推定される。

4.3.2 ポイアスの子ピロクテテス
また、エーゲ海に面したマグネシア地方のメリボイアの町に住んでいたピロクテテスもヘレスポントスを利用して交易を行っていたと推定される。[57]
メリボイアの町は、紫染料貝の産地であった。[58]

4.3.3 アンピュトリオンの子ヘラクレス
ヘラクレスのトロイ遠征について、多くの伝承がある。[59]
ヘラクレスがリュディア地方からテュリンスの町へ帰還してから、エリス攻めをするまでの間に、ヘラクレスがイリオンの町を攻略したという伝承である。[60]
つまり、ヘラクレスのトロイ遠征は、BC1246年からBC1243年の間であった。
プリアモスの王位継承争いがあった頃と時期的に一致する。
ラオメドンが支配下に置いたエチオピアは、ペルセウスの妻アンドロメダの出身地であり、ペルセウスの子ペルセスが住んでいた。[61]
ペルセスは、ヘラクレスの父アンピュトリオンの父アルカイオスの兄弟であった。[62]
ヘラクレスは、テッサリア地方に住むアカイア人と共にトロイへ遠征したと推定される。
アポロドロスは、ヘラクレスがイリオンの町を攻略した後、プリアモスが王になったと記している。[63]
ヘラクレスと共に、ヘラクレスの異母兄弟イピクレスと彼の息子イオラオスもトロイへ遠征したと思われる。[64]

4.3.4 アイアコスの子テラモン
テラモンは、ヘラクレスのトロイ遠征の伝承に登場する。[65]
つぎのことから、テラモンは、ヘレスポントの利用を通じて、アッサラコスの後裔たちと交流があり、ヘラクレスと共にトロイへ遠征したと推定される。
テラモンは、サラミス島に住んでいたが、サラミス人は、アテナイ人より航海術に優れていた。[66]
テラモンの子テウクロスは、銅の採掘、あるいは、銅の交易のために、キュプロス島へ移住した。[67]
テラモンの妻ペリボイアは、ヘラクレスの異母兄弟イピクレスの妻アウトメドゥサの姉妹であった。[68]
つまり、テラモンは、妻を介して、ヘラクレスの義兄弟であった。

4.3.5 マンティオスの子オイクレス
オイクレスは、ヘラクレスのトロイ遠征の伝承に登場する。[69]
オイクレスは、亡命していたアイトリア地方からアルゴスの町へ帰還した直後であった。[70]
オイクレスの帰還には、ミュケナイの町のエウリュステウスが協力したと思われ、後に、エウリュステウスがヘラクレスに命じたエリス攻めにオイクレスが参加している。[71]
オイクレスは、エウリュステウスとの関係で、ヘラクレスと共に遠征に参加したと推定される。

4.3.6 アイアコスの子ペレウス
ペレウスは、ヘラクレスのトロイ遠征の伝承に登場する。[72]
次のことから、ペレウスもトロイ遠征に参加したと推定される。
1) プロテシラオスとポダルケスが住んでいたピュラケの町は、ペレウスが住んでいたプティアの町の近くであった。
2) ペレウスの子アキレスが次のトロイ遠征に参加している。
3) ペレウスは、サラミス島から遠征に参加したテラモンの兄弟であった。
BC1260年にデイマコスの子アウトリュコスが、テッサリア地方のトリッカの町から黒海南岸のシノペの町へ移住して以来、ヘレスポントを通過する船は増加した。[73]
アウトリュコスの妻は、プティアの町に住むミュルミドンの子エリュシクトンの娘メストラであった。[74]
メストラに同行して、プティアの町からトリッカの町へ移住した人々が、アウトリュコスと共に、シノペの町へ移住した。プティアの町とシノペの町との間には、交易があったと思われる。

4.3.7 ネレウスの子ネストル
ネストルは、ヘラクレスのトロイ遠征の伝承に登場する。[75]
次のことから、ネストルもトロイ遠征に参加したと推定される。
1) ネレウスの妻クロリスに同行したミニュアス人がネストルの近くに住んでいた。[76]
ミニュアス人は、黒海方面の航路を知っている人々であった。
2) ネストルの子アンティロコスが次のトロイ遠征に参加している。
3) ネレウスは、黒海方面との交易をしていたイオルコスの町の出身であった。

4.4 プリアモスのイリオン奪還
プリアモスは、ミレトスの町に住む彼の姉妹ヘシオネを頼ってミレトスの町へ亡命した。[77]
ヒッタイト王は、ヘシオネの夫に対してプリアモスをヒッタイトに引き渡し、ウィルサの王に据えることができるように要請した。[78]
当時、ミレトスの町は、ヒッタイトの属国であり、ヒッタイト王の要求した通りに、プリアモスはヒッタイトに引き渡された。プリアモスはヒッタイト軍と共に、王位を奪還するためにイリオンの町へ進軍した。[79]
イリオンの町は、ヒッタイトやヒッタイトの属国の軍に攻められた。
アイシュエテスの子アンテノール、アンキセス、アイゲストス、そして、プロテシラオスやピロクテテスは、イリオンの町から逃れて、プリアモスは、イリオンの町を奪還した。[80]
ギリシアの伝承は、ヘシオネがポダルケスと呼ばれていたプリアモスを救ったと伝えている。[81]
プリアモスは、アンテノールが住んでいたダルダニア地方をも支配下に置いた。[82]
これによって、トロスの名前に因んで、トロイと呼ばれていた地方は、ウィルサと同一視されるようになった。

4.5 敗者たちの消息
4.5.1 エゲスタの子アイゲストス
アイゲストスは、シシリー島へ帰還した。[83]
アイゲストスには、カピュスの子アンキセス、アンキセスの子エリュモス、ピロクテテスが同行した。[84]
アイゲストスは、シシリー島の北西部にアイゲスタ (または、エゲスタ)の町を創建した。[85]

4.5.2 カピュスの子アイシュエテス
アイシュエテスは、イリオンの町の南約1kmの平原で、プリアモスの軍勢を迎え撃って、戦死した。[86]
アイシュエテスは、カピュスの長男であり、総大将であったと思われる。
アイシュエテスの子アンテノールの息子たちは、その後の戦いで主導的な役割を果たしている。[87]

4.5.3 アイシュエテスの子アンテノール
アンテノールの妻テアノは、ミュシア・オリュンペネ地方に住んでいたミュグドンの子キッセウスの娘であった。[88]
次のトロイ戦争時代、アンテノールとテアノの息子イピダマスは、マケドニア地方に住んでいた。[89]
伝承では、アンテノールは、アドリアス海の奥にパタウィウム(後のパドゥア)の町を創建したことになっている。[90]
しかし、アンテノールは、彼の妻の祖父ミュグドンと共にパイオニア地方へ移住したと推定される。

4.5.4 カピュスの子アンキセス
アンキセスは、彼の息子エリュモスやアイゲストスと共にシシリー島へ逃れた。[91]
アイゲストスとアンキセスには、スカマンドロス川流域の多くの人々が同行した。[92]
この時、ホメロスの「イリアス」の主要な登場人物の一人、アンキセスの子アイネアスは、まだ誕生していなかった。[93]
アイネアスは、シシリー島で生まれた。

4.5.5 アンキセスの子エリュモス
エリュモスは、ピロクテテスやアイゲストスと共に、トロアス地方からシシリー島へ向かった。[94]
途中、エリュモスは、ピロクテテスと共にイタリア半島南部に入植した。[95]
エリュモスと共に入植した人々は、エリュミア人と呼ばれるようになった。[96]
BC1240年、エリュモスは、古くからイタリア半島南部に住んでいたオイノトロイ人に追われて、シシリー島へ移住した。[97]
エリュモスは、シシリー島の北西部にエリュマ (または、エリュクス)の町を創建した。[98]

4.5.6 カピュスの子ラコーン
カピュスの子ラコーンは、彼の息子たち、アンティパンテスとテュンブライオスと共に、プリアモスに対する戦いで、死んだと推定される。[99]

4.5.7 イピクロスの子プロテシラオス
プロテシラオスは戦死して、トラキアのケロネソスのエライソス(または、エレウス)の町に葬られた。[100]
伝承では、プロテシラオスは、アガメムノンと共にトロイへ遠征している。[101]
しかし、プロテシラオスは、イアソンの母アルキメデの兄弟イピクロスの息子であり、イアソンと同世代であった。[102]
イアソンの子メルメロスの子イロスは、オデュッセウスと同世代であった。[103]
つまり、アガメムノンは、プロテシラオスの孫の世代であった。プロテシラオスが参加した戦いは、アガメムノンの時代の第3回トロイ戦争ではなく、第2回トロイ戦争であった。

4.5.8 ポイアスの子ピロクテテス
ピロクテテスは、アイゲストスに案内されて、アンキセスと共にシシリー島へ向かった。[104]
ピロクテテスは、イタリア半島南部で、彼らと分かれて、クロトン地方のマカラに定住した。[105]
ピロクテテスは、クロトン地方にペテリアの町を創建した。[106]
伝承では、ピロクテテスは、プロテシラオスと同様にアガメムノンと共にトロイへ遠征している。
しかし、ピロクテテスは、物語では敵であるトロイ人のアイゲストスと共に行動をしていた。[107]

4.5.9 オトレオスの子ミュグドン
ミュシア・オリュンペネ地方に住んでいたミュグドンは、アンテノールに味方して居住地を追われて、パイオニア地方へ移住した。[108]
ミュグドンは、アンテノールの妻テアノの父キッセウスの父であった。[109]

5 第3回トロイ戦争 (1188 - 1186 BC)
伝承では、アガメムノン率いるアカイア人はトロイを占領して、ネオプトレモスはプリアモスの子ヘレノスやヘクトールの息子たちを連れて、モロッソス人の地へ移住したことになっている。[110]
しかし、次の史料の記述から、アカイア人はトロイを占領できなかったと推定される。
1) AD5世紀の神学者ヒエロニムスは、「アンテノールの子供たちが追放された後、ヘクトールの息子たちはイリオンの町を奪還し、ヘレノスが彼らを援助した。」と記している。[111]
2) クレタ島のディクテュスは、直接、トロイ戦争を体験した自身の記録の第5巻の最後に、最終的にイリオンの町を掌握したのは、アンテノールであったと記している。[112]
3) ヘロドトスは、ペルシアによるギリシア侵攻に匹敵する悲惨な出来事が、ダレイオスより20世代前にあったと記している。[113]
ヘロドトスは、3世代を100年で計算しているので、ダレイオスより667年前の出来事になる。[114]
ダレイオスが即位したBC522年を基準にすると、BC1189年頃に、その悲惨な出来事があったことになる。
以上のことから、アカイア人は、ヘクトールに味方して戦ったが敗れたと推定される。
ヘクトールは死に、彼の妻と息子たちは、彼の兄弟ヘレノスやネオプトレモスに連れられて落ち延びたということになる。
そして、ネオプトレモスが戦った相手は、プリアモスの息子たちではなく、アンテノールの息子たちであった。

5.1 ヘレスポントの支配者の交代
トロスの子イロスがイリオンの町へ移り住んだ後で、ダルダノスの町には、イロスの異母兄弟アッサラコスが住んでいた。[115]
ラオメドンの時代には、アンテノールがダルダニア地方のダルダノスの町に住んで、ヘレスポントを支配していた。[116]
しかし、ラオメドンが死んで、王位継承争いが起こり、アンテノールの一族がいなくなったダルダニア地方は、プリアモスが住むイリオンの町の支配下に入った。[117]
プリアモスの一族は、ヘレスポント近くの町を、次のように支配した。
1) アビュドスの町は、プリアモスの子デモコーンが支配した。[118]
2) アリスベの町、プラクティウスの町、そして、アビュドスの町の対岸のトラキアのケロネソスのセストスの町は、プリアモスの妻アリスベの子アシオスが支配した。[119]
3) ペルコテの町は、プリアモスの兄弟ヒケタオンの子メラニッポスが支配した。[120]
4) トラキアのケロネソスは、プリアモスの娘イリオナの夫ポリュメストル (または、ポリュムネストル)が支配した。[121]
ホメロスは、ダルダノスの町の名前に言及していない。恐らく、BC1244年に、プリアモスがイリオンの町を奪還後に、ダルダノスの町を破却したと推定される。しかし、ダルダノスの町は、その後、再建された。[122]
プリアモスがイリオンの町を奪還後、ヘレスポントの支配者は、アンテノールではなく、プリアモスになった。

5.2 反抗拠点
アンテノールの息子たちの反抗拠点は、パイオニア地方やマケドニア地方であった。
そこは、56年前、トロアス地方を追われたアンテノールやミュグドンの後裔たちが住んでいた。
トロイ遠征の物語には、パイオニア地方やマケドニア地方から、次の人々がトロイへ遠征している。
1) アンテノールの子イピダマス [123]
2) ミュグドンの子アクシオスの子ピュライクメス [124]
3) ミュグドンの子アクシオスの子ペレゴンの子アステロパイオス [125]
4) ミュグドンの子ビサルテスの子エイオネオス (または、エイオン)の子レソス [126]
伝承によれば、彼らは、プリアモスの子ヘクトールの援軍として、トロイへ遠征しているが、実際は、彼らは、ヘクトールの敵であった。

5.3 イリオンの攻防
BC1188年にプリアモスが死ぬと、アンテノールの息子たちがイリオンの町を占領して、王位を簒奪した。
この頃、プリアモスの王位継承争いで、プリアモスを援助したヒッタイトは滅亡寸前であった。[127]
イリオンの町から追い出されたプリアモスの長男ヘクトールは、ヘレスポントの利用を通して友好関係にあったアカイア人に援軍を求めた。
アカイア人は、ヘクトールに味方するために遠征軍を組織して、トロイへ遠征した。
アカイア人の総大将は、ペレウスの子アキレスであり、軍の主力は、テッサリア地方とボイオティア地方の部隊であった。

5.4 戦いの結果
この戦いで、ヘクトール、アキレス、メノイティウスの子パトロクロス、オイレウスの子アイアス、テラモンの子アイアス、ネストルの子アンティロコスは、戦死した。
BC1186年、アカイア人のもとへテッサリア地方がテスプロティア人によって占領されたという知らせが届いた。それより前に、総大将アキレスを失っていたアカイア人は、イリオンの町の攻略を断念した。[128]

5.5 総大将アキレス
ペレウスの子アキレスは、アカイア人の総大将として、トロイへ遠征したと推定される。
テッサリア地方以外の人々がアキレスに従ったのは、アキレスがヘラクレスの義理の甥であったからと思われる。
アキレスの父ペレウスの兄弟テラモンの妻ペリボイアの姉妹アウトメドゥサの夫イピクレスは、ヘラクレスの異母兄弟であった。

5.5.1 ヘレスポントの利用
つぎのことから、アキレスは、ヘレスポントを通って黒海沿岸地方と交易していたと推定される。
1) アルゴ船の遠征物語で有名なイオルコスの町は、黒海沿岸地方との交易で繁栄した町であった。[129]
イオルコスの町は、ミニュアス人によって破壊され、ペレウスがミニュアス人を追放した。[130]
ペレウスは、イオルコスの町が行っていた交易を継承したと推定される。[131]
2) 黒海に、アキレスに関係した神域や島などがあった。
黒海に、アキレスに捧げられた島があった。[132]
黒海北岸に、アキレスの走路と名付けられた半島があった。[133]
黒海からマイオティス湖(アゾフ海)への入り口に、アキレイオンの町があり、そこに、アキレスの神域があった。[134]

5.5.2 テッサリア随一の実力者
BC1236年、栄華を誇っていたイオルコスの町が破壊された。[135]
BC1227年、イオルコスの町に代わって勢力を増したラピタイが、ヘラクレスとの戦いで弱体化した。[136]
BC1223年、ヘラクレスが死んだ。[137]
アキレスが成人した頃、ミュルミドン族を率いるアキレスは、テッサリア地方で随一の実力者となっていた。

5.5.3 アキレスの死
アキレスは、アンテノールの息子たちとの戦いで戦死し、シゲイオンに埋葬された。[138]

5.6 トロイ遠征に参加したアカイア人
トロイ遠征には、総大将アキレスとの関係があったアカイア人、あるいは、ヘレスポントの利用を通じて、プリアモスの息子たちと親交があったアカイア人が参加した。

5.6.1 アキレスの子ネオプトレモス
伝承によれば、ネオプトレモスは、アキレスの死後、トロイへ召喚されたと伝えられている。[139]
しかし、系図を作成すると、遠征開始時、ネオプトレモスは、24歳であり、ネオプトレモスは、父アキレスと共にトロイへ遠征したと推定される。
アキレスやヘクトールが戦死して、戦いに敗れたアカイア人は、各地へ移住した。
ネオプトレモスは、プリアモスの子ヘレノスとヘクトールの妻アンドロマケとヘクトールの息子たちを連れて、トロアス地方から逃れて、モロッソス人の地に定住した。[140]

5.6.2 アミュントルの子ポイニクス
ポイニクスは、ドロピア人を率いて遠征に参加した。[141]
ポイニクスは、アキレスの育ての親であった。[142]
ポイニクスは、ネオプトレモスと共にモロッソス人の地へ向かう途中、テルモピュライ付近で死んだ。[143]

5.6.3 ペイリトウスの子ポリュポイテス
ポリュポイテスは、ギュルトンの町からトロイ遠征に参加した。[144]
ポリュポイテスは、トロアス地方からイオニア地方へ逃れて、コロポンの町に定住した。[145]

5.6.4 コロノスの子レオンテオス
レオンテオスは、アルギサの町からトロイ遠征に参加した。[146]
レオンテオスは、トロアス地方からイオニア地方へ逃れて、コロポンの町に定住した。[147]

5.6.5 エウアイモンの子エウリュピロス
エウリュピロスは、オルメニオンの町からトロイ遠征に参加した。[148]
エウリュピロスは、トロアス地方からアカイア地方へ逃れて、パトライの町に定住した。[149]

5.6.6 アスクレピオスの子ポダリロス
ポダリロス (または、ポダリリオス)は、トリッカの町からトロイ遠征に参加した。[150]
ポダリロスは、トロアス地方からカリア地方へ逃れて、シュルノスの町を創建した。[151]
トロイ遠征物語には、ポダリロスの兄弟マカオンが登場する。[152]
しかし、次のことから、マカオンは遠征に参加しなかったと思われる。
1) マカオンを討ち取った相手が伝承によって異なっている。[153]
2) マカオンの遺骨をネストルが持ち帰ったと伝えられている。[154]
しかし、ネストルが自分の息子アンティロコスの遺骨を持ち帰らずに、マカオンの遺骨を持ち帰ったとは考えられない。
3) ポダリロスの子供は知られていないが、マカオンには、息子だけでも、5人いた。

5.6.7 アルキリュコスの子アルケシラオス
アルケシラオスは、ボイオティア人を率いてボイオティア地方からトロイへ遠征した。[155]
ラクリトスの子レイトスがアルケシラオスの遺骨を持ち帰って、レバデイアの町に埋葬した。[156]
アルケシラオスは、テッサリア地方のアルネの町を通じて、アキレスと関係があった。

5.6.8 アステュオケの子イアルメノス
オルコメノスの町のアステュオケ (または、ペルニス)の子イアルメノスは、ミニュアス人やアスプレドン人を率いてトロイ遠征に参加した。[157]
イアルメノスは、トロアス地方から黒海北岸へ逃れて、サウロマタイの地に定住した。[158]
ミニュアス人は、古くから、黒海東岸のコルキス地方と繋がりがあった。[159]
イアルメノスの母アステュオケは、プレスボンの子クリュメノスの子アゼウスの子アクトールの娘であった。[160]
プレスボンは、コルキス地方で生まれ、ボイオティア地方へ移住して、祖父アタマスの跡を継いだ。[161]
プレスボンの父プリクソスの孫娘ペルセイス (または、ペルセ)の2人の息子たち、ペルセスとアイイテスは、タウリケ・ケルソネセとコルキス地方の支配者であった。[162]
ペルセスの娘ヘカテ (または、イデュイア)の娘キルケの夫は、サウロマタイ人の支配者であった。[163]
以上のことからイアルメノスは、遠征前から黒海方面との交易で、ヘレスポントを利用して、プリアモスの息子たちと親交があったと推定される。
ホメロスは、エジプトのテバイの町の富と並べて、オルコメノスの町の富を挙げているが、その富の一部は、黒海方面との交易による収入であったと思われる。[164]

5.6.9 テラモンの子アイアス
5.6.9.1 アイアスの遠征参加
アイアスは、メガラの町からトロイ遠征に参加した。[165]
テラモンは、アキレスの父ペレウスの兄弟であり、アイアスは、アキレスの従兄弟であった。[166]
アイアスが遠征に参加したのは、アキレスとの関係ばかりではなく、ヘレスポントの利用を通して、プリアモスの息子たちと親交があったからと思われる。
アイアスが率いたサラミス人は、航海術に優れていた。[167]

5.6.9.2 アイアスの息子たち
アイアスには、遠征中に捕虜の女性から生まれた息子が2人いた。
1) アイアンティデス
アイアンティデスは、イリオンの町の南にあるコロナイの町のキュクノス (または、キュグノス)との戦いで捕虜になったキュクノスの娘グラウケとアイアスから生まれた息子であった。[168]
アイアンティデスは、後にアイアンティスの名祖になり、マラトン近くに住んだ。[169]
2) エウリュサケス
アイアスは、プリュギア地方のテウトラスと戦って、彼の娘テクメッサを捕虜にした。[170]
アイアスとテクメッサとの間に息子エウリュサケスが生まれた。[171]
エウリュサケスは、アッティカ地方のメリテの町に住み、そこには、エウリュサケスの神域があった。[172]

5.6.9.3 アイアスの墓
ストラボンは、アイアスの墓がロイテイオンにあったと記しているが、アキレス、パトロクロス、アンティロコスと同じく、アイアスは、シゲイオンに埋葬された。[173]

5.6.10 テラモンの子テウクロス
テラモンの子テウクロスは、トロイ戦争より前に、キュプロス島へ移住していた。[174]
テウクロスは、パライパポスの町のキニュラスの娘エウネと結婚した。[175]
テウクロスの移住の目的は、キュプロス島のアマトスの町で産出される貴重な鉱石の交易のためであった。キニュラスの母は、アマトスの町の名付け親であった。[176]
テウクロスは、兄弟アイアスに加勢するために、キュプロス島からイリオンの町へ駆け付けるが、アイアスが死んで、勝敗が決した後であった。[177]
テウクロスは、移住を希望したトロイ人を連れて、キュプロス島へ戻り、サラミスの町を創建した。[178]

5.6.11 テストールの子カルカス
カルカスは、メガラの町に住んでおり、メガラ王アイアスに従ってトロイへ遠征した。[179]
カルカスは、トロアス地方からパンピュリア地方へ逃れて、セルゲの町を創建した。[180]
BC4世紀、セルゲの町の住人は、アレクサンドロス大王の信頼される同盟者となった。[181]
ストラボンは、カルカスの後で、ラケダイモン人がセルゲの町を創建したとも述べている。[182]
当時、スパルタの町は、アレクサンドロス大王の敵であり、セルゲの町には、カルカスの先祖の町アルゴスに縁のある住人が多かったと思われる。

5.6.12 オイレウスの子アイアス
パウサニアスは、黒海に浮かぶレウケ島 (現在のズミイヌイ、蛇島)に関連した伝承を記している。[183]
その伝承には、アキレスやテラモンの子アイアスの他に、オイレウスの子アイアス、パトロクロス、ネストルの子アンティロコスが登場する。
オイレウスの子アイアス以外の者たちは、トロアス地方に墓がある。[184]
伝承では、オイレウスの子アイアスは、デロス島近くで溺死したことになっている。[185]
実際は、オイレウスの子アイアスもまたトロイで死に、アキレスと同じように黒海沿岸との交易に関係していたのではないかと思われる。
オイレウスの子アイアスは、ロクリス・エピクネミディオス地方のナリュコスの町に住み、オプス人を支配していた。[186]

5.6.13 メノイティウスの子パトロクロス
パトロクロスは、オイレウスの子アイアスの支配下にあったロクリス・エピクネミディオス地方のオプスの町に住んでいた。[187]
パトロクロスは、オイレウスの子アイアスに従ってトロイへ遠征した。
パトロクロスは、トロイで死に、シゲイオンに埋葬された。[188]

5.6.14 ネストルの子アンティロコス
5.6.14.1 アンティロコスの遠征参加
ネストルの父ネレウスと、オルコメノスの町のアンピオンの娘クロリスとの結婚の際には、多くのミニュアス人がクロリスに同行して移住した。[189]
ネレウスの子ネストルもオルコメノスの町からクリュメノスの娘エウリュディケ (または、アナクシビア)を妻に迎えて、ピュロスの町にもミニュアス人が住んでいた。[190]
ミニュアス人は、黒海東岸のコルキス地方への航路を知っており、ピュロスの町も黒海地方と交易をしていたと推定される。
アンティロコスは、トロイで死んだ。[191]
アンティロコスの墓は、シゲイオンのアキレスやパトロクロスの墓の近くにあった。[192]

5.6.14.2 ネストルの遠征不参加
伝承によれば、ネストルもトロイ遠征に参加して、トロイで死んだアスクレピオスの子マカオンの遺骨を持ち帰ったことになっている。[193]
しかし、ネストルが自分の息子アンティロコスの遺骨を持ち帰らずに、マカオンの遺骨を持ち帰ったとは考えられず、ネストルはトロイへ行っていないと思われる。
系図を作成すると、当時のネストルは、74歳と推定される。
アレクサンドロス大王の死後、80歳位の年齢のアンティパトロスが騎馬でマケドニアとエジプトの間を往復した例がある。しかし、当時の平均寿命を考慮すると、ネストルは生きていなかったと思われる。

5.6.15 アルゴス人
5.6.15.1 テュデオスの子ディオメデス
パウサニアスは、成人していないアイギアレオスの子キュアニッポスの代わりに、ディオメデスがアルゴス人を率いて、トロイへ遠征したと伝えている。[194]
キュアニッポスは、ディオメデスの姉妹コマイトの息子であり、ディオメデスの甥であった。[195]
これは、トロイ遠征物語の作者が、当時の有名人として、ディオメデスを登場人物に加えたのではなく、史実に基づいていると思われる。
ディオメデスは、トロアス地方からアルゴスの町へ帰還した後、アイトリア地方を経由して、イタリア半島へ移住した。[196]

5.6.15.2 ステネロスとエウリュアロス
ホメロスのイリアスでは、アルゴス人の指導者たちは、ディオメデスの他に、カパネウスの子ステネロスとメキステウスの子エウリュアロスであった。[197]
ステネロスは、アナクサゴリダイに属し、エウリュアロスとディオメデスは、ビアス王家に属していた。
アルゴスの3王家のもう一つのメランプス王家は、トロイ遠征に参加していない。
アルゴス人の指導者たちの名前は、当時のアルゴスの町の実情を反映していて、史実に基づいていると思われる。
メランプス王家は、アンピアラオスの子アンピロコスに率いられて、ギリシア北西部へ移住して、トロイ戦争時代には、アルゴスの町に住んでいなかった。[198]

5.6.16 ナウプリオスの子パラメデス
AD3世紀の著述家ピロストラトスは、レスボス島のメテュムナの町に、パラメデスの墓があったと伝えている。[199]
メテュムナの町には、アンテノールの子ヒュプシピュロスが住んでいて、ヒュプシピュロスは、アキレスと戦って戦死した。[200]
パラメデスは、トロイ遠征に参加して、アキレスと共に、メテュムナの町を攻めて、ヒュプシピュロスとの戦いで死んだと推定される。[201]

5.6.17 ピュレウスの子メゲス
ホメロスのイリアスでは、メゲスは、エキナデスから遠征に参加している。[202]
メゲスの配下には、エレイア地方のキュレネの町に住むエペイオイ人を指揮したオトスがいた。[203]
メゲスの父ピュレウスは、エリスの町のアウゲアスの息子であり、キュレネの町のエペイオイ人がメゲスの配下にいたとしても不思議ではない。
これらのことは、当時の実情に合っており、メゲスのトロイ遠征参加は、史実に基づいていると思われる。

5.6.18 アルカディア人
5.6.18.1 アンカイオスの子アガペノール
伝承では、アルカディア人を率いたアガペノールは、トロアス地方からキュプロス島へ行って、パポスの町を創建したと伝えられる。[204]
また、アガペノールは、銅の採掘のために、キュプロス島へ行ったという伝承もある。[205]
アガペノールの父アンカイオスの父リュクルゴスの母ネアイラの父ペレウスの母ラオディケは、キュプロス島のパライパポスの町の創建者キニュラスの娘であった。[206]
キニュラスの後裔で、テラモンの子テウクロスの妻エウネの父キニュラスは、ミダス王と並び称される富豪であった。[207]
キニュラスの富は、彼の母アマトスの名前に因んで名付けられた町で産出される銅であった。[208]
アガペノールはアルカディア人を率いて、アカイア人のトロイ遠征に参加して戦った後で、古くから交易していたキュプロス島へ渡ったと推定される。

5.6.18.2 マンティネイア人
アルカディア人の一員として、遠征に参加したマンティネイア人は、トロアス地方からビテュニア地方へ逃れて、ビテュニオンの町付近に定住した。[209]

5.6.19 アテナイ人
5.6.19.1 メネステオスの遠征不参加
伝承では、アテナイ王メネステオスは、アテナイ人を率いてトロイへ遠征している。[210]
しかし、ミュケナイの町のアガメムノンの場合と同様に、アテナイの町の支配は盤石ではなかった。
メネステオスは、彼が王位を奪ったテセウスの息子たちにいつ攻められるか分からない状況であった。実際、メネステオスのアテナイ人の王位は、エウボイア島から帰還したテセウスの子デモポンによって奪われている。
テセウスの息子たちの帰還には、カルコドンの子エレペノールが協力し、エレペノールはメネステオスとの戦いで死んだと思われる。[211]
メネステオスは、アテナイの町からメロス島へ逃れて、その島で死んだ。[212]

5.6.19.2 遠征に参加したアテナイ人
メネステオス本人はトロイ遠征に参加しなかったが、アテナイ人の一部はトロイへ遠征したと思われる。
黒海南岸のシノペの町からアッティカ地方のプラシアイの町への航路があった。その航路は、ヒュペルボレオス人の地から、デロス島へ初物を運ぶ経路の中にあった。[213]
この航路を使って、アテナイ人も黒海沿岸と交易を行い、ヘレスポントを利用して、プリアモスの息子たちと親交があったと推定される。
メネステオスがアテナイの町を追われた結果、アテナイの町へ帰還できなくなったアテナイ人の一部は、イタリア半島南部へ逃れて、スキュレティオンの町に定住した。[214]
また、アテナイ人の一部は、ミュシア地方へ逃れて、エライアの町に定住した。[215]
ミュシア地方には、アルカディア地方から移住したアルカディア人が住んでいた。[216]

5.6.20 ミュケナイ人
5.6.20.1 アガメムノンの遠征不参加
伝承では、ミュケナイ王アガメムノンは、アカイア人の総大将として、トロイへ遠征している。
しかし、次のことから、アガメムノンは、トロイへ遠征していないと思われる。
1) 伝承に大きな矛盾がある。
アガメムノンの統治期間は、30年、あるいは、35年であり、彼の治世18年目にトロイ戦争が終わったと伝えている伝承がある。[217]
これは、アガメムノンは、トロイから帰還した直後に殺されたという伝承と大きく矛盾している。2) 長期遠征は不可能であった。
エウリュステウスの死後、ヘラクレイダイは、2度にわたってペロポネソスへの帰還を試みていていた。ヘラクレイダイは、その後もペロポネソスへの侵入の機会を窺っていた。[218]
実際、アガメムノンが死んだ年に、ヒュッロスの子クレオダイオスは、ドーリス人を率いて、ミュケナイの町を攻めて、町を破壊している。[219]
このような状況下で、アガメムノンがミュケナイの町から軍勢を率いて、長期遠征をすることは不可能であった。

5.6.20.2 遠征に参加したミュケナイ人
パウサニアスは、アガメムノンがアルゴス地方のテネア (または、ゲネア)の町にトロアス地方のテネドス島の住人を住まわせたと記している。[220]
恐らく、アガメムノン本人は、トロイへ遠征しなかったが、遠征に参加したミュケナイ人もいたと推定される。ミュケナイ人は、トロアス地方から逃れる際に、ヘクトールに味方して戦ったテネドス島の住人をペロポネソスに連れて来て、アガメムノンが彼らをテネアの町に住まわせたと推定される。

5.6.21 マグネシア人
テッサリア地方のマグネシア人は、トロアス地方からポキス地方へ逃れて、デルポイの町に定住した。[221]
BC1173年、マグネシア人は、デルポイ人と共にリュディア地方へ移住して、マグネシアの町を創建した。[222]

6 第4回トロイ戦争 (1170 BC)
第4回トロイ戦争があったと思わせる重要な証言が2つある。
1) AD5世紀の神学者ヒエロニムスは、「アンテノールの子供たちが追放された後、ヘクトールの息子たちはイリオンの町を奪還し、ヘレノスが彼らを援助した。」と述べている。[223]
2) AD12世紀のイギリスの聖職者ジェフリー・オブ・モンマスは、「アンテノールの子孫が追放された後、ヘクトールの息子たちがトロイを支配した。」と述べている。[224]

6.1 ヘクトールの息子たち
BC1188年にイリオンの町は、アンテノールの息子たちによって占領され、プリアモスの息子や孫たちは、イリオンの町を奪還できずに、各地へ逃れた。[225]
アンテノールの子供たちとの戦いで死んだヘクトールの息子たちは、ネオプトレモスやヘレノスに連れられて、彼らの母アンドロマケと共に、モロッソス人の地(後のエペイロス)へ逃れた。[226]
ネオプトレモスは、アンドロマケと結婚して、ヘクトールの息子たちをヘレノスに託した。[227]
ヘクトールには、3人の息子たち、スカマンドリウス (または、アステュアナクス)、ラオダマス、サペルネイオスがいた。[228]
しかし、系図を作成するとヘクトールとアンドロマケの年齢差が大きく、ヘクトールには別な妻から生まれた多くの息子たちがいたと推定される。

6.2 イリオン奪還
ヘクトールの息子たちが成人すると、ヘレノスは彼らに軍勢を与えて、イリオンの町を攻撃させた。[229]
その軍勢の中核は、ヘクトールの息子たちが率いるトロイ人であったが、ネオプトレモスの配下にあったミュルミドン族を含むアカイア人も遠征に参加した。
ヘクトールの息子たちは、各地に散らばっていたプリアモスの後裔たちを戦力に加えて、アンテノールの息子たちが占拠していたイリオンの町を奪還した。[230]

6.3 奪還した年
BC1186年、ヘクトールの息子たちが、モロッソス人の地へ逃れたとき、彼らは少年であった。[231]
BC1175年、ネオプトレモスは、デルポイを略奪して、ダイタスの子マカイレウス率いるデルポイ人と戦って、戦死した。[232]
ネオプトレモスの死後、ヘレノスがエペイロスの王権を継いだ。[233]
後に、ヘレノスは、王権を自分の息子ケストリノスではなく、ネオプトレモスの息子モロッソスに継承させている。[234]
つまり、ヘクトールの息子たちがイリオンの町を奪還したのは、ネオプトレモスが死んでから、ヘレノスが死ぬまでの間であった。
ヘクトールの息子たちがイリオンの町を奪還したのは、彼らが成人に達したBC1170年であったと推定される。

6.4 イリオンの陥落日
イリオンが陥落した「月」について、古代の史料は、タルゲリオン月で一致している。[235]
しかし、「日」については、一致していない。
アッティカ地方の著作家は、トロイが陥落した日は「満月であった」と記し、小イリアスの作者は、「月がはっきりと輝いていた」と伝えている。[236]
NASAのWebサイトに掲載されている歴史的日食の一覧によれば、BC1178年4月16日に日食があったことが判明している。つまり、その日は新月であった。[237]
その日を基準に、現在の暦で、5月半ばから6月半ばまでとされるタルゲリオン月の満月を月の満ち欠けの周期を、29.53日として計算すると、つぎのようになる。
BC1178年4月16日(新月)から15日目の満月は、BC1178年5月1日である。
BC1178年からBC1170年の間には、閏年が2回ある。
BC1178年5月1日からBC1170年6月1日までは、365日 * 8年 + 2日 + 31日 = 2,953日ある。つまり、BC1170年6月1日も満月である。
以上のことから、イリオン陥落は、BC1170年6月1日と推定される。

6.5 オレステスの遠征参加
ヘクトールの息子たちの遠征には、アガメムノンの子オレステスも参加したと推定される。
この遠征と同じ頃、オレステスは植民活動を開始している。[238]
オレステスは、アミュクライの町のペイサンドロスと共に遠征して、テネドス島に植民した。[239]
オレステスの植民団には、アガメムノンの時代にテネドス島からテネアの町へ逃れたトロイ人が含まれていたと思われる。
また、BC1173年、ヒュッロスの子クレオダイオス率いるドーリス人の侵入によって、土地を荒廃させられたアミュクライの町やエピダウロスの町の人々も含まれていたと推定される。[240]

6.6 アンドロマケの帰還
ヘクトールの息子たちがイリオンの町を奪還したとき、彼らの母アンドロマケは、一緒にイリオンの町へ行かなかった。
アンドロマケとヘレノスの間には、息子ケストリノスが生まれていた。[241]
BC1156年、アンドロマケは、ヘレノスが死んだ後で、彼女とネオプトレモスとの間に生まれた息子ペルガモスに連れられて小アジアへ移住した。ペルガモスは、ミュシア地方にペルガモンの町を創建した。[242]
ペルガモンの町は、アンドロマケが生まれたテーベの町のすぐ近くにあった。

おわり