ヨーロッパの国々T 東ドイツの事情(1)
ライプツィヒ中央駅−R教授宅ベランダより撮影
この度、四年ぶりにヨーロッパに行き、東ドイツとオーストリアで研修して参りました。皆様御存じのように今年の夏は、社会主義諸国にとって正に「熱い夏」でした。特に外国に休暇旅行中の東ドイツ市民が、集団で続々と西ドイツに亡命をした事件の波紋は大きく、そのころドレスデンからウィーンに移った私としては、他人事ではありませんでした。赤十字が、亡命者をハンガリーからウィーン経由の汽車で西ドイツに大量輸送すれば、これに対して東ドイツの高官が、「人道主義に名を借りた人身売買だ」と、同じ社会主義国ハンガリーや国内通過を認めたオーストリアを非難する。国際紛争の当事国にいる私は、これらの事態に自分の態度を鮮明にする義務のようなものを感じたことも事実です。
 ところで、今回の自由化への動きの中で、キリスト教会が人々の精神的支えとなったばかりか、ある教会は活動の拠点ともなりました。また、ザクセンのライプチヒとドレスデンの人々が世論をリードする形で特に活発な(時には過激な)活動をしております。私は、一キリスト者として、また、この二つの都市に40日間も滞在した者として、東ドイツの教会や人々の様子をを皆様にご報告するかたちで、自分に課した義務感への答えを出そうと思っています。皆様には一種の紀行文とでも思って気軽に読んで頂ければ幸いです。
 私が東ドイツのライプチヒに到着したのは、7月16日のことでした。そして知り合いのR教授と連絡を取り訪問した日に、指揮者のカラヤンが亡くなったことを知らされました。しかし、ホーネッカー書記長がカトリック教会の司教と会談したことの方がもっと大きな関心事だったらしく「右と左の親玉がねえー」と何度も繰り返し、私には「彼らは水と油だったのだ」と説明してくれました。「東ドイツは今後変わるのか」という私の質問に、教授は、親指を突き出して「これがいる限り変わらんよ」と言ったので、「でも彼はそうとう年だから、もっと若い人がなればいいのに」と言うと、「居るには居るがその男ははもっと固い」という答えが返ってきました。そこには同じマンションの友人夫婦が遊びにきていましたが、その夫は、ゴルバチョフ書記長のメダルをポケットから大事そうに取り出して、私に見せてくれました。「恐らくこの国の大部分の人々は、彼が好きと思う。私も大好きで彼に期待している」とも言っていました。その間茶の間には、西ドイツのテレビ放送がずっと流れていたのも特に印象に残っています。
  (以下次号)
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